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oudou

この道を行けばどうなるものか、危ぶむなかれ。危ぶめば道はなし。踏み出せばその一足が道となりその一足が道となる。迷わず行けよ。行けばわかるさ

少しずつ更新中。

団体

解説
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全日本プロレス

テーマは「明るく、楽しく、そして激しく」。

ジャイアント馬場が1999年に病に倒れ三沢光晴が社長に就く。 それから約一年半、三沢は全日の社長を辞任し同社を退団。それに呼応し川田利明、渕正信、太陽ケア、馳浩以外の全選手が三沢と共に退団。2002年2月、武藤敬司、小島聡、ケンドー・カシンが新日本プロレスから移籍、そして武藤敬司が取締役社長に就任する。

毎週月曜深夜テレビ東京プロレスLOVE夜のシャイニングインパクトにて試合中継

武藤敬司小島 聡、太陽ケア、カズ・ハヤシ、渕 正信、馳 浩、石狩太一、諏訪間幸平、R・O・D、TAKAみちのくほか

川田利明は全日本退団。

選手 解説

ジャイアント馬場

本名:馬場 正平

昭和13年1月23日 生まれ 

新潟県三条市西四日町出身

血液型:O型  

209cm 135kg 血液型O型

得意技:

  • 16文キック
  • ランニングネックブリーカードロップ
  • 河津落し 
  • 椰子の実割り 
  • 脳天チョップ
青果業を営んでいた父・一雄、母・ミツの間に次男として誕生。新潟県立三条実業高校(現・三条商業高校)に進学。足のサイズに合うスパイクがなく、美術部に在籍していた こともある。野球のスパイクは、野球部の部長渡辺先生が特別発注した、というのが定説だが、実はお母様が 特別発注したのだ。ただ正平少年に、お金に関する余計な心配をかけさせまいという母の配慮により、先生が発注したという事にした。 その後豪腕投手として活躍。高校を2年で中退して読売巨人軍に入団。 しかし、プロ野球ではその実力を開花させることは出来なかった。 プロ野球断念後、その後、力道山道場入り(昭和35年)。アメリカ遠征ではNWA・WWF・WWAという3大世界タイトル連続挑戦。 力道山死後は、日本マット界のエースとして活躍。47年に古巣、日本プロレスから独立し、理想のプロレスを 求めて全日本プロレス設立。 タイトル戦線リタイア後は、明るく楽しいプロレスを主に担当するも、世界最強タッグリーグや年に数度のスペ シャルマッチでメーンイベントに登場。また、NWAの第1副会長も勤めた。 プロレスの哲学も、「明るく楽しく激しいプロレス」や「シューティングを越えたものがプロレス」や「プロレスはプロ レス、それ以外の何物でもない」などいくつもの名言を残している。

ジャイアント馬場記念館 通算5758試合に出場した全日本プロレスのジャイアント馬場の公式サイト

ジャンボ鶴田

「人生はチャレンジだ!!」

山梨県東山梨群出身

196cm  127kg

得意技:

  • バックドロップ
  • ジャンピングニー
  • ジャンボラリアット
  • ジャーマンスープレックス
  • ジャンボキック
高校時代はバスケット。中央大学時代にオリンピック出場を果たすためにレスリン グへ方向転換。ミュンヘンオリンピック出場を果たす。その後、ジャイアント馬場率いる全日本プロレス にスカウトされる。入団会見では「全日本プロレスに就職します」といって世間を驚かせる。 昭和50年には、ジャイアント馬場と組んでインタータッグ選手権、昭和51年にはUNヘビ ー級のタイトルを獲得。昭和58年にはインターナショナルヘビー級を獲得。 翌年には、AWA世界ヘビー級を獲得。 平成元年には、当時全日本のシングルタイトル(当時はインターとPWF、UNの2冠)を統 一し、初代3冠王者になる。 42歳の時に、B型肝炎になり、長期入院。そこで、筑波大学院を受験し、科学的トレーニングを研究することを決める。見事に合格し、レスラー兼学者になる。 その後、慶應大学、桐蔭横浜大学、母校中央大学でも講師として教鞭をとる。 平成11年、全日本プロレスを引退してポートランド州立大学の教授になる。研究範囲はスポーツ生理学。研 究が今後の日本のプロレス界にどのような影響を及ぼすのか、期待されていた。 2000年、5月13日、肝臓の手術中に大量出血、マニラで壮絶な死を迎える。 6月18日、ジャンボ鶴田メモリアル献花式が青山葬儀場で行なわれた。 墓は、山梨県の実家のそばの慶徳寺にある。

ジャンボ鶴田の部屋 臓器移植の支援を目的とした「ジャンボ鶴田基金」の活動報告があるほか、ジャンボ鶴田の生涯を考察した論文も読むことができる。

leglock

「天才(ジーニアス)」

武藤敬司

188cm 110kg B型

得意技:

  • シャイニングウィザード
  • シュミット式バックブリーカー
  • ムーンサルトプレス
  • ドラゴンスクリュー
  • 低空ドロップキック
  • 足四の字固め
  • フランケンシュタイナー
  • 毒霧
  • フラッシングエルボー
  • スペースローリングエルボーからのフェイスクラッシャー
  • スワンダイブ式ミサイルキック

1962年12月23日生まれ

山梨県富士吉田市出身

武藤社長日記

実家は造園業を営む。学生時代は柔道で活躍。東北柔道専門学校に進み、全日本新人体重別選手権に出場し3位の記録を残す。84年に新日本プロレス入門。同年10月、 蝶野正洋戦でデビュー。85年、米国フロリダへ遠征。ヒロ・マツダがエージェントとなり、ホワイト・ニンジャ(ザ・ニンジャ)として活躍。サーキット仲間にはケンドー・ナガサキ、レックス・ルーガーもいた。86年、フロリダヘビー級王座を獲得。フロリダ地区のUSジュニアヘビー級王座を獲得。10月に帰国し「スペース・ローンウルフ」として活躍。86年度のプロレス大賞新人賞。87年、映画「光る女」(相米慎二監督)への主演。3月、越中詩郎とIWGPタッグ王座に就く。88年にプエルトリコ遠征。スーパー・ブラック・ニンジャとして活躍。第7代WWC・TV王座。WWCプエルトリコ王座。8月、ダラスのWCCWに入り、スーパー・ブラック・ニンジャとして活躍。89年よりWCWで武藤の化身グレート・ムタに変身。NWA世界TV王座を獲得。90年、IWGPタッグ王座。91年、IWGPタッグ王座。92年、ムタとしてIWGPヘビー級、グレーテスト18クラブ両王座。93年、IWGP王者として、NWA王者・蝶野正洋とのダブルタイトルマッチを制し、グレート・ムタとして第76代NWA世界ヘビー級王座。94年、IWGPタッグ王座。95年、IWGPヘビー級王座。G1クライマックス初優勝。96年、主演映画「ドラゴンブルー」公開。97年、NWO入り。IWGPタッグ王座。99年、IWGPヘビー級王座。99年、プロレス大賞MVP。00年にムタとしてWCWと1年契約を結ぶ。7月よりWCWマットに参戦し、8月にはWCW世界タッグ王座。帰国後、12月31日の猪木祭にスキンヘッドで出場。01年、ドン・フライ、太陽ケア、新崎人生らと「BATT」を結成。3月に馳浩もBATTに加入。三冠ヘビー級王者。5冠王。6冠王。01年プロレス大賞MVP。02年1月31日新日を離脱。全日本プロレスに移籍。「武藤敬司、骨の髄までしゃぶってください」と入団記者会見で述べる。現在は社長となる。「プロレス・ラブ」を公言しており、試合での爬虫類のような動きは芸術である。 長年ムーンサルトプレスを使い続けたため膝に爆弾を抱えている。時折「愚零闘武多=グレート・ムタ」「黒師無双」となる。

太陽ケア

1975年11月18日生まれ

185cm  106kg

得意技

  • ニ−パット
  • H5O
  • ハワイアンスマッシャー
  • SUNケアキック
  • 波乗りスープレックス
  • TKO

ハワイ州ホノルル出身

高校時代はアマレスとアメフト。94年、ジャイアント馬場に直訴して入門。97年、世界ジュニア王座を初挑戦で奪取。第18代王者となり、3回防衛した後、ヘビー級転向のため返上。00年には本名のマウナケア・モスマンから太陽ケアに改名。01年、世界タッグ王座獲得。BATT結成。武藤敬司とのコンビでIWGPタッグ王者藤波&西村組とのダブルタイトルマッチにも勝利を収め、タッグ三冠王。 2002年度最終戦で右膝前十字靭帯断裂の重傷、長期離脱となる。 2004年、復帰後は、TAKAみちのくとともにRO&Dとして活躍。 ジャマ−ルとのコンビで大暴れし、05年1月16日には第51代世界タッグ王者となった。

尊敬するレスラーはジャイアント馬場。 愛読書はマイケル・コネリーの本。

カズ・ハヤシ

1973年5月18日生まれ

東京都世田谷区出身

173cm  83kg

得意技

  • ファイナルカット
  • クランチ・ループ
  • WA4
  • ブエロデシリュー 

91年、ユニバーサルに入門。93年、みちのくプロレス入団。94年に海援隊を結成。97年、メキシコに渡る。その後WCWに移り、98年、覆面を脱ぎ、カズ・ハヤシに改名。00年にヤング・ドラゴンズを結成。WCW崩壊後のWWF契約24選手の中に選ばるも、武藤敬司に誘われ退団。全日本入団。 小島 聡とのコンビでは、素顔で世界タッグ、獅龍としてはアジアタッグ。また、2004年2月22日日本武道館大会ではBLUE−K(TAKAみちのく)との王座決定戦に勝利し、世界ジュニアのベルトを手にしたが再戦で敗れる。 尊敬するレスラーはクリス・ベノワ。

I'M HERE!〜カズ・ハヤシを応援する部屋〜

「赤鬼」

渕正信

1954年1月14日

福岡県北九州市出身

183cm 105kg B型

得意技:

  • バックドロップ
  • 拷問技
高校時代はアマレス、陸上競技。アマレスでは国体に出場。 八幡大(九州国際大)に入学するが中退。74年、全日本プロレス入門。大仁田厚戦でデビュー。80年に海外武者修行へ。81年、AWA南部タッグ王座。83年、ジュニア戦線で活躍。87年以降世界ジュニア・ヘビー級王座に4度君臨。00年の大量離脱時には、川田と共に全日本プロレスに残留。7月1日、サマーアクション・シリーズの開幕戦ではメインで川田とシングルで対戦。22分48秒、パワーボムで敗れた。この試合後に川田は大量離脱後の全日本プロレスの方向性を「痛みの伝わる試合」とした。「今の川田の強さだったらどの団体が来ても全日本は大丈夫だ」、「(今日は)正直言うと怖かった。でもリングに上がった時に感動した」と渕は試合後に語った。 尊敬するレスラーはジャイアント馬場。好きなテレビ番組はプロジェクトX、その時歴史は動いた。

「豪腕継承」

小島聡

1970年9月14日生まれ

東京都江東区出身

183cm 体重 112kg

得意技:

  • ラリアット
  • いっちゃうぞエルボー
  • コジMAXホールド
  • コジコジカッター
  • CCD

コジログ 小島聡blog

コジマニア 小島聡のサイト

90年よりアニマル浜口ジムでトレーニングを積み、91年、新日本プロレスに入門。。94年、第5回ヤングライオン杯では大会史上初の全勝優勝。海外武者修行に出発。イギリス、カナダ・カルガリー、ドイツCWAなどで活躍。 96年、凱旋帰国。97年、中西学とのコンビで第31代IWGPタッグ王者。98年、武藤敬司とのコンビでSGタッグ・リーグ戦を制覇。99年、天山広吉とのコンビで天龍源一郎&越中詩郎組を下し第36代IWGPタッグ王者。フリーとなって天龍源一郎戦。この試合で全日本プロレス入団を決意。愚零斗孤士なる新キャラクターも登場。 MLW 「RELOAD」ニューヨーク マンハッタンセンターにて王座決定戦でジェリー・リンを下し、第2代MLW世界ヘビー級王者となった。その後、5度の防衛に成功。 2003年、天山広吉選手とのタッグを復活。2003チャンピオン・カーニバル初優勝。ZERO-ONEで橋本真也、小川直也のOH砲と対戦。 2004年にはカズ・ハヤシとのコンビで世界タッグ、アジアタッグのタッグ二冠王。 05年、天山広吉とIWGPヘビー&三冠ヘビー級のダブルタイトルマッチを行い、59分49秒の激闘の末KO勝ち。5.14の東京ド−ム大会にて19分34秒、天山広吉にIWGPのベルトを奪われる。2005年、東京スポーツ新聞社制定 プロレス大賞において最優秀選手賞(MVP)を受賞。

カラオケの18番はミスターチルドレン。尊敬するレスラーは武藤敬司川田利明。愛読書はちびまる子ちゃん。

近藤修司

1978(昭和53)年1月21日

静岡県富士市生まれO型

午年・水瓶座

173cm・98kg

足のサイズ 27cm

得意技

  • ジャックハマー
  • ランサルセ
  • ゴリラ・クラッチ
  • キングコング・ラリアット

好きなプロレスラー

キン肉スグル

小学校でサッカーで補欠、背を伸ばしたくて中学校でバレーボール、高校・大学でラグビーで全国高校ラグビー第74回大会(1994年)、第75回大会(1995年)出場。2000年8月、第8期生として 闘龍門(ウルティモ・ドラゴン・ジム)入門テストに合格。2002年3月 「T2P実力査定リーグ戦」3位 T2Pルードユニット「イタリアン・コネクション」結成、自身がイタリア人であったことに気づき、「コンドッティ修司」に改名。2004年1月 UWA世界6人タッグ選手権戦(=2度目の防衛に成功) 望月選手と合体、軍団名を「悪冠一色」とする。2004年12月、 「素行不良並びに職務怠慢」を理由にDRAGON GATEから「解雇」される(「悪冠一色」メンバー全員〈大鷲透、"brother"YASSHI、高木省吾、菅原拓也の各選手〉とともに処分)、2005年1月 フリーランスとなる。元闘龍門のTARU選手率いる「Voodoo Murders」と合体。

2005.6.19に"brother"YASSHIとともにPWF認定第79代アジアタッグ選手権となる。10/22、TAKAみちのくより世界ジュニアヘビー級ベルトを奪取。

団体所属歴

  • 2001年5月〜2003年1月:闘龍門MEXICO・T2P(TORYUMON 2000 PROJECT)
  • 2003年1月〜2004年7月:闘龍門JAPAN
  • 2004年7月〜12月:DRAGON GATE
  • 2005年1月〜:フリー(2005年3月〜:全日本プロレス参戦、7月〜:dragondoor参戦)

諏訪間幸平

1976年11月23日生まれ

神奈川県藤沢市出身

身長 188cm 体重 120kg

得意技

ジャーマンスープレックス

血液型 A型。デビュー戦 平成16年10月11日後楽園ホール対馳浩 。 スポーツ歴は野球、柔道、レスリング。趣味は全国各地の美味しい物を食べる。それに伴った観光。

諏訪間幸平 オフィシャルウェブサイト

ブルート一生

1982年7月25日 生まれ

身長194cm/体重140kg/

北海道岩見沢市出身/

得意技

ブルートボム

経歴:高校・大学とレスリングを経験。2004年には、 インターカレッジ120kg級グレコローマンスタイルにて 学生チャンピオンとなる。 デビュー戦は2006年の1月3日(火)東京・後楽園ホールにてシングルマッチ30分1本勝負。対戦相手の諏訪間幸平からすごい数のビンタを喰らい口から流血、最後は11分41秒、逆エビ固めで敗れる。1月6日、諏訪間幸平とのタッグでデビューから3試合目に初勝利。

武藤敬司社長「ブルートというのは俺が命名しました。人並みはずれたパワーの持ち主、とか、野獣とか、力持ちとか、そんな意味だけどさ。 ここで一発、横文字のレスラーが欲しかったんだよね。この会見のために道場からこいつと一緒に来たんだけど、こいつさぁ体格はいいけど顔はいまいちだとかいうことをネット上で書かれたことを気にしてるらしく、以外と見かけのわりに小心者かもな。 こいつ、凄い大食漢で、回転寿司は80皿、肉なんて一度に3キロも食べるんだよ。 俺は今武藤塾なんかもやってて、今の時代マッチョ系の選手が主流だし、流行ってるけど、こいつだけは、どんどん食べてもらって、どんどん太らせていきたいよね。 相手として諏訪間を選んだことも、全日本プロレスの、彼への期待の現れですから。

ブルート一生「目標とするレスラーは、この人っていうのはいませんが、ブルートという名前をもらったので自分がオリジナルなレスラーになりたいですね。今までにないレスラーに。尊敬するレスラーは、ありきたりかもしれませんが、武藤敬司選手です。バーベルなんかはあまり上げる機会はありませんが、対人間への力には自信があります。来年からの目標は、とりあえず頑張ることです!」

「北斗の流星」

馳 浩公式ホームページ

1961年5月5日生まれ

富山県小矢部市出身

石川県金沢市育ち

183cm 110kg A型

妻は高見恭子

得意技:

  • ジャイアントスイング
  • 裏STF
  • 裏投げ
  • ノーザンライトスープレックス

技名は馳がカナダのカルガリーでみたオーロラから(現地ではオーロラをノーザンライトと言うらしい)

自由民主党衆議院議員 文部科学大臣政務官

当選回数 2回  国会対策副委員長

星稜高校でレスリングを始める。専修大学文学部時代には83年に全日本学生選手権優勝。84年、全日本選手権制覇。同年秋にはロサンゼルス・オリンピックでグレコローマン90kg級に出場。母校、星稜高校で国語の教師を務める。専修大学の先輩、長州の門を叩き、85年にジャパンプロレス入門。86年デビュー。 プエルトリコ、カルガリーなどで武者修行。87年、IWGPジュニア王座を奪取。89年、ヘビー級転向。6月に飯塚と共にソ連に遠征。サンボ修行を積んで裏投げを習得。IWGPタッグ王座。89年の猪木の参議員選挙の時には、猪木のボディガード兼私設秘書として活躍。91年に猪木の対戦相手をめぐりタイガー・ジェット・シンと巌流島で対戦。1時間11分24秒の流血戦の末、馳が裏投げでKO勝利。92年の1月4日に猪木と対戦し卍固めで馳に勝利。95年、参議院選挙に立候補。猪木の選挙時代からの自民党とのつながり、及び卒業、就職した金沢の星陵高校のつながり、専修大学からのスポーツ人脈など、幅広い人脈を通じて選挙活動を行う。当選し、レスラーとして2人目の国会議員となる。96年、全日本プロレスに入団。00年には1度議員を辞職するが、同年6月に衆議院議員選挙に当選。日本初の衆議院議員レスラーとなる。その後も全日本プロレス中心に参戦を続ける。 2002年、議院運営委員会理事(議事進行係)に就任。 2003年、文部科学大臣政務官に就任。現在、専修大学レスリング部の監督も務める。 フジテレビのクイズ番組『クイズ$ミリオネア』で、芸能人としては初めて全問正解し、最高賞金の1000万円を獲得した。 尊敬するレスラーはミスター・ヒト。

「不沈艦 」

スタン・ハンセン 

STAN HANSEN

本名:ジョン・スタンレー・ハンセン

1949年8月29日生まれ

テキサス州ナックシティ出身

195cm 140kg

入場テーマ曲 サンライズ

得意技:

  • ウエスタンラリアット

ウエスト・テキサス大学に入学後、NFLで活躍していたが、ヒザの故障で退団。その後一年間、大学に戻り卒業。卒業後、サンディエゴ・チャージャーズの一軍テストに参加するが、知人の紹介で教職につく。9月から12月まで中学で地理の授業とフットボールのコーチをする。教師の給料が少ないのを理由にプロレス転向を決意。ドリー・ファンク・シニアのコーチを受け、73年にデビュー。ハンセンを大スターに押し上げた「ウエスタン・ラリアット」はアメフトのカウンター・タックルからヒントをつかみ、あみ出された。ブルーザー・ブロディーとはオクラホマ時代からコンビを組んでおり、長くUSタッグ王座を保持。76年、ニューヨークのMSGでブルーノ・サンマルチノの首を折った事件をきっかけに浮上。初来日は75年9月の全日本プロレスだったが、77年から新日本プロレスに参加し、アントニオ猪木の好敵手となる。77年、猪木からNWF認定ヘビー級王座。81年に新日プロを離脱し、82年から全日本プロレスに参戦。83年、ジャイアント馬場からPWFヘビー級王座を獲得。85年、AWA世界ヘビー級王座を獲得。86年、ジャンボ鶴田からインターナショナル王座を奪取。90年にテリー・ゴディを破り三冠王者となる。91年、世界タッグ選手権を獲得。92年、鶴田から三冠王座を奪回。チャンピオン・カーニバルでは全勝優勝。93年、世界タッグ王者。チャンピオンカーニバル2連覇。94年、川田との三冠戦は年間最高試合を受賞。95年、通算4度目の三冠王座奪取。96年、世界タッグ王座。00年、持病の腰痛が悪化。後楽園ホールのリング上で、全日本プロレス馬場元子社長より引退表明がアナウンスされ、01年1月28日の東京ドーム大会で引退セレモニーが行われた。引退後はPWF会長に就任。

フリッツ・フォン・エリック

Fritz Von Erich

本名ジャックアドキッセン

1931年 

ドイツ・ベルリン出身

195cm 120kg

得意技:

  • 親指と小指の間32cm、握力130kg以上のアイアンクローを開発して有名になる。

鉄の爪」で知られる。13歳でアメリカ・テキサスに移住。メソジスト大学時代はフットボール選手として活躍した。54年にデビュー。当初はジャック・アドキッセン。62年、オマハ版AWA世界王者になる。63年、オマハ版とミネアポリス版の両AWA王座を獲得。その後地元ダラスにサウスウエスト・スポーツ社を設立しダラス地区のプロモーターになる。テキサスヘビーやアメリカンヘビー王座を何度も獲得。66年に日本プロレスに初来日。日本プロレスには通算5度来日。馬場のインター王座には6度挑戦。73年、インタータッグ王座を獲得。75年には全盛期のNWA会長に就任。全日本プロレスには3度来日、馬場のPWF王座に2度挑戦。最後の来日は79年。82年、ダラスで引退。NWA崩壊後はダラスにWCCWを設立し新日本プロレスと業務提携。5人の息子のうち4人がプロレスラーになったが2男ケビンを除く全員が次々に死去。97年9月10日にダラスの自宅で肺ガンのため死去。享年66。 長男のジャッキーは6歳で感電死、三男のデビットは84年に日本で死去(麻薬によるショック死説有り)、四男のケリーは93年に自殺、五男のマイクは87年に自殺、六男のクリス(当時21歳)も91年に自殺。

テリー・ファンク 

Terry Funk

本名 テレンス・ファンク

188cm 110kg

テリーファンク公認サイト

得意技:

  • スピニングトーホールド
  • ムーンサルトプレス 
  • テキサスクローバー・ホールド 
  • ローリング・クレイドル

「テキサスブロンコ」

1944年6月30日 インディアナ州ハモンド出身

ドリー・ファンク・シニアの次男。少年時代から兄のドリーと共にレスリングの英才教育を受ける。4歳でアマレスを始める。65年にプロレス入り。70年、日本プロレスに初来日。71年12月には 兄ドリーとの「ザ・ファンクス」で馬場、猪木組を破りインター・タッグ王座を獲得。72年1、全日本プロレスの旗揚げシリーズに来日。73年、全日本プロレスにドリーとのコンビで登。75年、第51代NWA世界ヘビー級王者。77年のオープンタッグ選手権、79年と82年の世界最強タッグ決定リーグ戦優勝。83年、全日マットで一度は引退したが、84年に復活。86年よりWWF入り、H・ホーガンと闘う。93年、FMWに登場し大仁田とデスマッチ。ECWヘビー級王座を獲得。95年、新日マット初参戦。97年、再びECWヘビー級王座を獲得。WWFに登場。98年、WWF世界タッグ獲得。ECW復帰。00年、WCWに登場。ハードコア王者。01年、6年5カ月ぶりに新日プロ登場。

アブドーラ・ザ・ブッチャー 

ABDULLAH THE BUTCHER

186cm 150kg

得意技

  • 地獄突き
  • ヘッドバット
  • 凶器攻撃
  • 毒針エルボー

本名ラリー・シュリーブ

1936年1月1日

出身地 アフリカ・スーダン(自称)

本当はカナダ・オンタリオ州ウィンザー出身説有力。58年、ザ・シークにスカウトされ、プロレス入り。デビュー当時はプッシーキャット・パイキンス、ゼーラス・アマラのリングネーム。70年8月に日本プロレスに初来日。72年12月から全日本プロレスで活躍。76年の全日本プロレス「第4回チャンピオンカーニバル」に優勝。78年10月にビル・ロビンソンを破りPWFヘビー級王座を獲得。79年の「第7回チャンピオンカーニバル」に2回目の優勝。10月にレイ・キャンディと組んで馬場、鶴田組からインタータッグ王座を獲得。77年から79年のタッグリーグ戦ではザ・シークと組んでファンクスと抗争。80年10月に鶴田を破りUNヘビー級王座を獲得。81年5月に新日本プロレス、87年11月に全日本プロレス場。東京プロレス、WAR、大日本プロレスで活躍。01年に全日本プロレスに復帰。2000年以降も現役としてリングに上がる。アトランタでレストランを経営。
ドリーファンクJr.

 

サイト内リンク 解説
●プロレスの楽しい見方 プロレスとは、そしてプロレスを楽しく見るために心掛けておきたいこととは。プロレスに対する考え方は人それぞれ違います。全くプロレスを知らない人も、プロレスの面白さがわからない人も、一度プロレスを見に行ってみればプロレスの魅力にはまってしまうことは間違いなしです。
●プロレスリング・ノア 三沢が2000年に旗揚げた団体。小橋建太、丸藤正道、KENTA、秋山準、鈴木鼓太郎ほか。
●新日本プロレス

1972年にアントニオ猪木が旗揚げ。ストロングスタイルを掲げ、プロレス最強を唱える。蝶野正洋、天山広吉、棚橋弘至、中邑真輔、永田裕志、獣神サンダー・ライガーほか。

●ZERO-ONE、ハッスル、WWE ZERO-ONE、ハッスル、WWEのプロレス団体と選手の解説とリンク。

●その他プロレス団体

みちのくプロレス、DRAGON GATE、KAIENTAI-DOJO、大坂プロレスなどの団体の解説とリンク。
●フリー選手 天龍源一郎、佐々木健介、高山善廣、鈴木みのる、長州力ほか。
●プロレス歴代MVP

東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞MVP選手を見ればプロレスの歴史がわかる。現役ベルト保持者表もあり。

●K-1、PRIDE K-1、PRIDEへのリンク。
●総合格闘技団体 パンクラス、サンボ、修斗の団体へのリンク。
●柔道、空手など 講道館や吉田秀彦選手のリンク。
●goods &格闘技関連サイト プロレスや格闘技団体のTシャツやグッズの店のリンク。

 

サイト内リンク
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