講道館 | 解説 |
講道館柔道の創始者嘉納治五郎師範により1882年に創設された柔道の総本山。所在地は東京都文京区。 明治維新以前、相手と徒手で組み合う格闘技は一般的に柔術と呼ばれ、流派も多岐にわたっていた。 柔術各流派の優れたところを集め、 危険なところを除き、工夫と研究を加えたのが柔道である。 嘉納による柔道は「講道館柔道」と呼ばれ、いまや国際大会の標準になっている。 剣道の有信館、空手の松濤館とともに武道総本山として知られた。 | |
プロ柔道団体J-do |
プロ柔道家・池田篤志が、ディファ有明で、プロ柔道興行「PRO−J」を旗揚げた。柔道経験者が主要参加者で、天理大柔道部出身の池田は学生時代、吉田秀彦(明大)と合同練習で汗を流した友人同士。「将来は、吉田やK−1の秋山(成勲)もウチの舞台で大暴れしているはず」とニヤリ。 ルールは、オープン・フィンガー・グローブと柔道衣着用で、パンチ、キックを加えた柔道が基本。月1回ペースで開催する予定。旗揚げ大会は東西対抗戦7対7のほか、池田の特別マッチの計8試合。池田は「体重無差別で、K−1でもPRIDEでも、誰の挑戦でも受ける」と豪語。2009年4月には「プロ・リーグ」を開幕する構想がある。 |
人物 | 解説 |
嘉納 治五郎 「柔道の父」 1860年12月9日生まれ1938年5月4日没 兵庫県神戸市出身 |
明治から昭和にかけての柔道家、教育者。柔道の創始者であり、柔道・スポーツ・教育に尽力し、日本のオリンピック初参加を決定するなど、日本に於けるスポーツの道を開いた。酒造業の家に生まれ、小さい頃から病弱であったために周囲からのいじめを受け、体を強くしようと柔術を学ぶことを考えるが、親の反対により許されなかった。1877年に東京帝国大学(現東京大学)に入学。同年に念願の柔術入門を果たし、天神真楊流(固め技中心)、起倒流(投げ技中心)の二流派を学び、その中から技術を取捨選択し、崩しの理論などを確立して独自の「柔道」を作り上げた。 大学を卒業後、1882年に「精力善用」「自他共栄」の言葉を掲げて講道館を設立。柔道の発展のために力を注ぐ一方で、学習院教授、東京師範学校校長などを務め、教育者としても尽力する。 1909年には日本人初のIOC委員となり、1911年に大日本体育協会(現日本体育協会)を設立してその会長となる。1912年、ストックホルムオリンピックの日本オリンピック初参加に於いては監督として参加した。 1936年のIOC会議で1940年に東京へのオリンピック招致に成功し(戦争の激化により返上)、1938年のIOC会議からの帰国途上、船の上で肺炎により死去した。 1978年より「嘉納治五郎杯国際大会」が開かれている。 |
コンデ・コマ 前田光世 1878−1941 講道館が七段 「勝負の真理は正道に従って進む事である。アマゾン進出も此の正道に依らなければならぬ。之は私の堅い信念である。私の柔道勝負に臨む時の覚悟と同じものである」 昭和五年、友人・薄田斬雲への手紙より |
どんなに暑い日でも、几帳面にスーツを着て出かけたという。曲がり角に来ると、必ず少し大回りした。どうやら、本人は無意識のうちに、曲がり角の陰にだれか潜んでいないかを確認していたらしい。後に『開拓の父』と呼ばれる。 青森県船沢村で出生。青森県尋常中学校を中退、早稲田中学校に転入。講道館に入門。四段を与えられ、富田常次郎六段とともに渡米。イギリスへ。柔道指導と試合を行う。ベルギーを経て、スペインへ。コンデ・コマを名乗る。さらに米国を経てキューバ、メキシコへ。グアテマラから南米諸国へ。日本人入植候補地を回る。ブラジル・ベレンに到着。中米へ再び遠征。ベレンに戻る。デイジー・メイ・イリスと入籍。外務省事務を委託される。南米拓殖会社の代行会社監査役に就任。ブラジルに帰化。私設大使と呼ばれる。腎臓病を患い、11月28日ベレン市の自宅で死去。講道館が七段を追贈。 1914年に、グレイシー柔術の創始者であるエリオ・グレイシーに柔道を教えたのが、前田光世である。 そのエリオの長男が、ホリオンであり、その弟たちが、ヒクソンやホイスである。 前田は、「柔道=世界一の護身術」を旨に、世界各国で戦い、2千戦無敗といわれている。その後、ブラジルのべレス市に落ち着き、そこで「アカデミア・デ・コンデ・コマ」という名の道場を開き、ブラジル人や日系移民に柔道を教えた。 前田は「いつも心に危機感を持て」「なんでも採り入れろ。いつでも学ぶ立場でいろ」をモットーにしていた。前田が教えていた技は、いまとは異なり、当て身や蹴り、ナイフを持つ相手に対してどう腕を極めるか、後ろから羽交い締めにされた時にどう対処するか、投げ技でも投げる前に肘打ちを加える、脛や膝を蹴ってから投げる、投げたら即座に関節を極める、頚動脈を絞めるという、護身術が中心だった。 |
1969年9月3日生まれ 愛知県大府市出身 柔道六段 |
大府西中から東京・弦巻中に転校。柔道私塾・講道学舎に入門。世田谷学園高 - 明治大学 - 新日鉄現在は吉田道場師範。1992年、バルセロナオリンピック柔道競技 78kg級 優勝。1997年〜2002年まで明治大学柔道部監督を務める。2002年から総合格闘家としてリングに上がる。 2002年 Dynamite!ホイス・グレイシー戦 勝利 PRIDEドン・フライ戦 勝利INOKIBOM-BA-YE 佐竹雅昭戦 勝利 2003年 PRIDE 田村潔司戦 勝利 PRIDE ヴァンダレイ・シウバ戦 判定負け PRIDEスペシャル ホイス・グレイシー戦 引き分け 2004年 PRIDE マーク・ハント戦勝利。ルーロン・ガードナー戦 判定負け 2005、PRIDE男祭りで小川直也を腕ひしぎで破る。 |
井上康生 1978年5月15日生まれ 宮崎県都城市出身 |
内股を得意技とし、2000年シドニーオリンピック金メダル。 宮崎市立大宮小、大宮中、東海大相模高校、東海大体育学部武道学科、東海大大学院体育研究学科心理学専攻&綜合警備保障 (社会人大学院生)、東海大大学院文学部心理学科博士課程 身長 183cm 体重 103Kg(試合時は100kg)足のサイズ 31cm 胸囲 120cm ベンチプレス 170kg 背筋力 200kg 血液型 O型 柔道無双 井上康生オフィシャルサイト。 青畳無限大 ファンサイト |
「平成の三四郎」 1967年 佐賀県出身 |
中学に進学と同時に上京、東京・世田谷の「講道学舎」に入門し、弦巻中学、世田谷学園高時代に数々の全国大会を個人・団体戦で制覇。日本体育大学進学後、87〜92年全日本選抜体重別選手権をはじめ、89年・91年の世界選手権を連覇。"平成の三四郎"の異名をとり、その背負い投げは芸術。 92年のバルセロナ五輪では、大会直前の大ケガを背負いながらも金メダルを獲得、 96年アトランタ五輪では銀メダルを獲得。00年4月に現役引退。03年4月からは子供の人間育成を目的とした町道場「古賀塾」を開塾 04年のアテネ五輪では、金メダルを獲得した谷本歩実のコーチとしても有名。 古賀稔彦公式ホームページ |
瀧本誠 所属 吉田道場 1974年12月8日生まれ 茨城県岩井市辺田出身 身長174cm 体重81kg |
小学校時代に柔道を始める。昭和61年に県のチャンピオン、その後,柔道の技をみがくため,バルセロナ五輪の金メダリスト古賀稔彦選手や吉田秀彦選手を輩出した,柔道の殿堂である全寮制の私塾『講道学舎』に入門し,同時に世田谷区立弦巻中学校に入学する。高校は世田谷学園に進み,高校3年生となった平成4年,全国高校柔道選手権に出場し,団体戦で優勝。またこの年,高校総体(個人戦中量級)において優勝する。大学は日本大学へ進学。東京学生柔道選手権大会,アジア大会,全日本学生選手権に出場し優勝する。 また,平成12年ドイツ国際大会において優勝し,00年のシドニーオリンピックの出場権を獲得する。平成12年9月に開催されたシドニーオリンピックでは金メダルを手にする。 平成12年10月24日,岩井市民第1号として岩井市市民栄誉賞を受賞する。 02年には体重無差別の全日本選手権でベスト8入り。2004年には総合格闘家としてPRIDEに出場し、体重差34キロの戦闘竜に判定勝ち。 2005には菊田早苗に判定で敗れる。 |
秋山成勲 1975年7月29日生まれ 大阪市生野区出身 身長177cm 体重81kg 左組み |
世界柔道81kg級代表。3歳から父の導きで柔道を始め、清風高校、近畿大学に進学。1996年、全日本学生体重別2位。近畿大学を卒業後、韓国・釜山に渡り、市役所に勤務しながら柔道を続ける。2000年には韓国代表として、韓国国際優勝。2001年9月、日本国籍を取得し帰国する。講道館杯優勝、2002年日本国際、フランス国際、9月の釜山アジア大会でも優勝を飾る。K-1 PREMIUM 2004 Dynamite!!で総合格闘家としてデビュー、フランソワ“ザ・ホワイトバッファロー”ボタ に1R1分54秒、腕ひしぎ十字固めでタップアウト勝ちをしている。オフの日は、サーフィンなども楽しむ。 「平成のコンデ・コマ」になると宣言している。 |
山下泰裕 | 丸大ハムといえばこの人。 1984年のロサンゼルスオリンピックで金メダルを獲得。 同年その功績により、国民栄誉賞を授与された。 |
柔道関連サイト | 解説 |
全国試合会場 Access Guide | プロレスを中心とし、会場名・県名などから試合会場を簡単に検索。会場名をクリックすると、地図が見れる。 |
寝業柔道聞きかじり |
寝技柔道を取り上げて、効果的な技の流れとそのポイントを 説明している。写真付きでかなり詳しく解説されている。 師範語録 1. 腕の力は、脚の力にはおよばない。 だから、脚を使え! 脚の力も,頭には負ける。 だから、考えろ! 2.継続こそ力なり! 3.来るもの拒まず、さる者は追わず! |
judoweb.net | メーリングリストや世界の柔道サイトへのリンク、柔道クイズ、 柔道教室など初心者からベテランまで楽しめる柔道総合サイト。 |
近代柔道 | 体育とスポーツの総合出版「ベースボール・マガジン社」の公式サイト。 |
柔術帝國軍+ | 考古黒Grが管理し、ブラジリアン柔術を話題の中心 としたサイト。 |
ブルテリア | ブラジリアン柔術&総合格闘技専門店。 |
空手 | |
道場訓 |
「武の道においてはすべてに先手あり」
極真とは、「千日をもって初心とし、万日をもって極みとする」という武道の格言から発した名称。極真会館に伝統的に受け継がれている精神である、「頭は低く目は高く、口慎んで心広く、孝を原点として他を益す」とは、創始者である故大山倍達自身が、長年の厳しい修行人生の中で確立した極真精神。また一方では、極真の挨拶「押忍」の精神には、尊敬、感謝、忍耐という精神がある。 立教大学裏の古いバレエスタジオを借りて稽古を始める。豊島区西池袋の現在地に国際空手道連盟極真会館総本部を建設するために、工事に着手。 1964年、国際空手道連盟極真会館の会長に佐藤栄作氏(当時国務大臣)、副会長に毛利松平氏就任。財団法人極真奨学会の名称を冠する。 1965年、極真会館総本部竣工。国際空手道連盟極真会館を正式に発足。総数300人強。この道場が現在の極真会館総本部の前身。 |
1923〜1994年 7月生まれ 座右の銘
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1943年、日本航空隊に入隊。1945年、終戦。1946年、早稲田大学体育学科入学。同校を中退して身延山に入山、武道精進に励む。1947年、京都丸山公会堂での全日本空手道選手権に出場して優勝。1948年、清澄山入山。18ヶ月の修行を行う。1951年 、米軍の要請に応え、進駐軍の兵士達に空手を指導。1952年、シカゴの空手協会から招かれ渡米。11ヶ月に渡り、全米演武と空手の指導を行う。 1954年、東京、目白に野天に、大山道場の看板を正式に出す。1956年、立教大学裏の古いバレエスタジオを借りて稽古を始める。1960年、アメリカ、ヨーロッパなど16カ国に合計72の支部が発足。1963年、アメリカ、ヨーロッパ、南アフリカ各地を遠征。 1965年、国際空手道連盟極真会館を正式に発足。1969年、第1回オープントーナメント全日本空手道選手権大会を、東京体育館で開催。7,000人の観衆を集める。以来毎年開催。1972年、当時、皇太子であったスペインのカルロス国王が来館。名誉三段を贈る。1974年、ホテルオークラにおいて、シャーラム・イラン皇太子夫妻に演武を披露。同皇太子に名誉二段を贈る。1975年、第1回オープントーナメント世界空手道選手権大会を開催。以後4年に1度開催される。1978年、第1回サイレント(聾唖者)空手道選手権大会開催。1979年 、ソ連大使館において大演武会を行う。1980年、毛利松平氏が第4代の日本武道館理事長に就任。中野刑務所で受刑者を前に講演、感謝状を送られる。1981年、サウジアラビアのファサイル皇太子が来館。1983年、フランス空母ジャンヌダルク号艦上にて演武会。第1回ハンガリー空手道選手権大会開催。共産国で初めての大会。ネパールのディエンドラ皇太子が来館。1984年、田中角栄元首相と対談。1985年、第3回全ヨーロッパ空手道選手権大会開催時、スペイン、バルセロナにてサマランチIOC会長と対面 。1988年、日本のすべての都道府県に極真会館組織が確立。 サマランチIOC会長に書簡を送り、空手、カンフー、テコンドーのオリンピック公開競技参加問題について提案。1990年、ソ連ウクライナ共和国で開催された武道フェスティバルに代表団を派遣。ソ連スポーツ省の幹部が来日、対面 。1991年、モンゴルに正式な極真会館組織発足。1994年、大山倍達肺癌のため死去。故大山倍達の遺言により、後継者として松井章圭が指名され極真会館館長に就任、現在に至る。 |
「近代空手道の父」船越義珍を祖師とした団体。 「空手に先手なし」 「型に忠実であれ、空手に試合はないのだ」 「型」稽古を重視した稽古体系を守っている。 |
「松濤」とは、船越義珍の雅号。松のように堂々と、岩に砕ける怒濤のように力強くとの思いから「松濤」とされた。 船越義珍は「唐手」を「空手」に改名し、かつまた「空手術」を「空手道」に変更した。 さらに、現在広く人口に膾炙されている「空手に先手なし」を含む「空手道二十訓」を完成し、空手道を学ぶ者の心得、空手道修行者の人生訓として示した。 この空手道二十訓は日本空手道松濤會の基本理念となっている。 松濤會では、空手道を、「精神修養の道であると共に、誰にでも出来る、体力がなくとも長く続けられる体育であり、健康法であり、護身術である」という船越義珍の教えを守っている。 松濤館制定型は、船越義珍が沖縄に伝わる、昭霊流、少林流の両派を取り入れて松濤館制定型とした。さらに、入門の型として「大極の型」をこれに加えている。 松濤會では本部道場松濤館に於いて、日常稽古の他に定期的に棍講習会を開催し、初級の棍として棍の基本、中級以上の棍の型・棍の組手を行い棍技術の習得も図っている。 |
船越義珍 〜1957 空手道二十訓
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船越義珍は安里安恒・糸洲安恒から指導を受けた。沖縄尚武会(武道協会)の代表を務めるなど「唐手」普及活動に尽力。 日本本土では海軍の八代艦隊が沖縄に寄港し際に、選抜された水兵に一週間指導したが、その威力が危険視され海軍は採用を見送った。 1921年3月、昭和天皇がまだ皇太子であられたとき、渡欧の途次沖縄に立寄られた。この時、演武の指揮者として、師範や中学の生徒を選抜し、首里城正殿の大広間に於いて「唐手」演武の指揮を執りを台覧に供した。 皇太子殿下は「唐手の霊妙なること」と言う感想を述べられている。 1922年、東京に於いて文部省主催の第一回古武道体育展覧会に沖縄県学務課の要請で出席し沖縄秘術「唐手」を紹介した。日本本土での初公開であった。 「唐手の型」の演武、及び、その他を図解した條幅三幅を作成出展し説明の任に当たった。 展覧会終了後、講道館・法曹界・中等学校・体育研究会・ポプラ倶楽部・その他からの懇望を聞き入れて、各所で「唐手」の講演あるいは実演を行った。 沖縄に帰郷することなく東京に在住し、各大学・警視庁にも指導に赴き「唐手研究会」と言う名称のもとに、その普及を図った。 1924年に鎌倉円覚寺慧訓管長の指導もあり従来沖縄で「手(て)」又は「唐手(とうで)」と呼ばれていた「唐手(からて)」の文字を「空手」に改名し、かつ「空手術」を「空手道」に変更した。「空」には「徒手空拳にして身を守り敵を防ぐ」武道の心を象徴すると共に、般若心経の思想をも含むものである。 空手を学ぶ者の心得、空手道修行者の人生訓として「空手道二十訓」を示している。 1936年に空手道を研究する人達の連絡・融和・緊密を深めることを目的に設立した「大日本空手道研究会」を「大日本空手道松濤會」に改称した。 1939年、念願の空手道専門道場「大日本空手道松濤館」を主要門人達の協力を得て、目白・雑司ヶ谷に創建した。 「松濤館」は大日本空手道松濤會本部道場として、技術面の中心的役割を果たし、現在普遍的に行われている、基本・型・組手の日常稽古体系を確立した。 又、大極の型、組手「天之型」、棍の型「松風」を考案した。 |
空手などのリンク集。 |
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●プロレスの楽しい見方 | プロレスとは、そしてプロレスを楽しく見るために心掛けておきたいこととは。プロレスに対する考え方は人それぞれ違います。全くプロレスを知らない人も、プロレスの面白さがわからない人も、一度プロレスを見に行ってみればプロレスの魅力にはまってしまうことは間違いなしです。 |
●プロレスリング・ノア | 三沢が2000年に旗揚げた団体。小橋建太、丸藤正道、KENTA、秋山準、鈴木鼓太郎ほか。 |
●新日本プロレス |
1972年にアントニオ猪木が旗揚げ。ストロングスタイルを掲げ、プロレス最強を唱える。蝶野正洋、天山広吉、棚橋弘至、中邑真輔、永田裕志、獣神サンダー・ライガーほか。 |
●全日本プロレス | 2002年、武藤敬司らが新日本プロレスから移籍、社長に就任。 川田利明、小島 聡、太陽ケア、 カズ・ハヤシ、渕 正信、馳 浩、石狩太一、 諏訪間幸平、R・O・Dほか。 |
●ZERO-ONE、ハッスル、WWE | ZERO-ONE、ハッスル、WWEのプロレス団体と選手の解説とリンク。 |
みちのくプロレス、DRAGON GATE、KAIENTAI-DOJO、大坂プロレスなどの団体の解説とリンク。 | |
●フリー選手 | 天龍源一郎、佐々木健介、高山善廣、鈴木みのる、長州力ほか。 |
●プロレス歴代MVP |
東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞MVP選手を見ればプロレスの歴史がわかる。現役ベルト保持者表もあり。 |
●K-1、PRIDE | K-1、PRIDEへのリンク。 |
●総合格闘技団体 | パンクラス、サンボ、修斗の団体へのリンク。 |
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