少しずつ更新中。
選手 | 解説 | ||
本名:嶋田源一郎 1950年2月2日生まれ 189cm 120kg 血液型A型 福井県勝山市出身 入場曲:サンダーストーム 得意技:
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御存じ「ミスタープロレス」。 63年、大相撲の二所ノ関部屋に入門。73年の1月場所から幕内力士となる。天龍のしこ名で幕内に16場所在位し前頭筆頭。76年に角界と決別、全日本プロレス入門。テキサス州アマリロのファンク一家のもとで修行。マゲをつけたままのデビュー。84年にUNヘビー級王座を獲得。インタータッグ王座を獲得。87年、天龍同盟を結成。89年に3冠王座を獲得。90年に全日本プロレスを退団。大手企業(メガネスーパー)がスポンサーにつき、設立されたSWSに移籍。契約金は3億円だった。92年にSWSが解散。WARを設立。新日プロとの対抗戦では長州、橋本、蝶野、藤波らを撃破し、94年には猪木にも勝利。98年、フリーとなる。平成維震軍と共闘し、越中と組みIWGPタッグ王座を獲得。99年に武藤を破りIWGPヘビー級王者。00年に全日本プロレスに復帰。東急田園都市線の桜新町駅近くに寿司処「しま田」を経営している。好きな映画はたそがれ清兵衛。 佐々木健介の逆境時に天龍が「健ちゃん、飯食えているか?」 「今日の負けに傷付くな。頑張れ」など、その他たくさんのアドバイスを送ってくれたからこそやってこれたと佐々木健介は語っている。 Wrestling High 天龍源一郎のページ |
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「革命戦士」 1951年12月3日生まれ 184cm 115kg 血液型O型 入場曲「パワー・ホール」 得意技:
マイクアピールは長州の発音が悪いため実際にはイマイチ聞き取れず、観客は次の日の新聞や雑誌で内容を理解することが多い。 |
山口県徳山市出身。在日韓国人二世で本名は吉田光雄(郭光雄) 。桜ヶ丘高校時代からレスリングを始める。専修大学時代はアマレスで活躍。アマレス部の主将。フリースタイル、グレコローマンの2種目の100キロ級で活躍。72年のミュンヘン五輪に韓国代表として出場。73年、新日本プロレスに入門。74年、デビュー。サソリ固めで勝利した。海外遠征。77年に帰国。ファン公募で長州力に改名。79年に北米タッグ王座。82年、UWA世界ヘビー級王座。帰国後、「おまえのかませ犬じゃない!」と藤波に宣戦布告。83年、藤波からWWFインター・ヘビー級王座を奪取。維新軍団を結成。84年、ジャパン・プロレスを旗揚げして全日プロに参戦。85年11月4日の大阪城ホール大会でジャンボ鶴田とシングルで対戦。60分フルタイムの引き分けに終わった。この試合はプロレス大賞の年間最高試合賞を受賞。87年に新日プロ復帰。89年に現場責任者に就任。ヘビー級、タッグのIWGP2冠を制覇。96年、G1クライマックス初優勝。その背後には、連戦の疲れを癒すために平田をわざと休ませて不戦勝とさせ、5連戦のうちで1日の休みを取った作戦もあった。97年には佐々木と組みIWGPタッグ王座。98年、東京ドームで引退試合。00年に大仁田の対戦要求に応じて現役復帰を表明。大仁田とノーロープ有刺鉄線電流爆破マッチを敢行。長州の完勝。01年、新日を解雇された橋本真也との遺恨決着のため試合を行うが両者レフェリーストップで決着はつかず。02年、WJプロレスを設立。03年に旗揚げ戦を行い、メインイベントで天龍と対戦。リキラリアット2連発で勝利した。 2004年10月9日両国にて新日本プロレスのリングに突然上がる。2005年、新日本の現場監督に電撃復帰する。2006/1/4のドーム大会ではインディーVS新日本の構図を作った。 |
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1966年8月4日生まれ 福岡県福岡市出身 180cm 115kg 血液型B型 得意技:
最近は北斗、中嶋勝彦と共に健介ファミリーで有名。 嫁バカ日誌:佐々木健介の日記 必殺技のノーザンライトボムは、北斗の必殺技の北斗ボムから。 佐々木健介、中嶋勝彦、「鬼嫁」こと北斗晶が所属。 尊敬するレスラーは心の友、故ホーク・ウォリアー。愛読書は柔道部物語。 |
中学時代から柔道を始め、同窓に貴闘力がいる。長州力に憧れ、85年、ジャパン・プロレスの入門生第1号としてプロレス入り。86年、デビュー。ジャパン・プロ分裂に伴い87年に新日プロ移籍。以後、新日本プロレスで実権を持った長州からのサポートを受け続けた。89年、海外武者修行へ。WWCに出場。ミスター・ポーゴと組んで(チーム名はニンジャ・エクスプレス)カリビアン・タッグ王座を獲得。その後、カナダに転戦。北原光騎と組んでカナディアンタッグ王座を獲得。90年に凱旋帰国、馳と組みIWGPタッグ王座に就く。91年に左足首を骨折し、10ヶ月間欠場。92年に復帰。パワー・ウォリアーに変身し、ホーク・ウォリアーとヘルレイザーズを結成。IWGPタッグ王座を獲得し、93年までタッグ戦で40連勝した。94年より素顔に戻る。95年、女子プロレスラーの北斗晶と結婚。97年、長州と組みIWGPタッグ王座。G1クライマックス初優勝を達成し、山崎とのコンビでIWGPタッグ王座。IWGPヘビー級王座にも輝き、史上初の3冠制覇。99年には越中と組んでIWGPタッグ王座に就く。00年、天龍を下しIWGPヘビー級王者。G1で3年ぶり2度目の優勝、史上2人目のIWGP、G1の2冠制覇を達成。全日本プロレスの川田利明との頂上対決に敗れIWGP王座を返上。01年、IWGPヘビー級争奪トーナメントで川田に勝利し、IWGPヘビー級タイトル。ドン・フライの指導のもと、米国で約6ヶ月格闘技特訓を積む。02年、小川と初対決した。2002年に、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日本を退団。 2004プロレス大賞MVP受賞。2005年7月26日 東京・国立代々木競技場第2体育館アジアタッグ選手権において、中嶋 勝彦とともに(王者)“brother”YASSHI、 近藤 修司 組を12分23秒 片エビ固め で破り第80代目アジアタッグ王者となる。 |
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「ノーフィアー」 高山善廣 196cm 体重125kg 入場テーマ曲: DESTRACTIVE POWER 得意技:
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1966年9月19日生まれ 東京都墨田区出身 湘南、藤沢の鵠沼育ちでかつてはライフ・セービングを職業としていた。 学生時代は剣道とラグビーで活躍。 1991年、UWFインターナショナルに入門。 1992年デビュー。 同団体所属として新日本、WARで活躍。 1996年、全日プロの川田利明と対決して脚光を浴び、1997年に全日マット初参戦。 Uインターが消滅するとそのままキングダム所属となる。 やがてキングダムも消滅し、 全日本にフリー参戦。 1999年には全日プロ入団。 大森隆男とノーフィアーを結成して世界タッグとアジアタッグの二冠王に。 2000年にはノア旗揚げに参戦して2001年からフリーとなり「PRIDE・14」藤田和之戦からバーリ・トゥードを本格的に展開、ドン・フライ、ボブサップと死闘を繰り広げた。 2002年には新日本プロレスにも進出して8月、初出場の「GIクライマックス」準優勝、9月にはノアでGHCヘビー級王座を獲得した。 2004年8月8日のVS佐々木健介戦後脳梗塞で倒れ長期戦線離脱中も、ラジオ番組のゲストなどとして徐々に復帰している。プロレスリング・ノア、新日本プロレス問わず、試合解説者を務めることも多い。 現在、高山堂所属。 好きな映画はゴッドファーザー、スターウォーズ。 |
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川田利明 1963年12月8日生まれ 栃木県下都賀郡出身 183cm 105kg 0型 得意技:
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82年デビュー。94チャンピオン・カーニバル初優勝。同年、第12代の三冠ヘビー級王者となる。97チャンピオン・カーニバルで三沢、小橋との巴戦を制し3年ぶり2度目の優勝を達成。98年、三沢を下し、第18代三冠王座に返り咲く。99年、再度三沢を破り第21代の三冠王者となったが、試合中に右腕尺骨を骨折し、タイトルを返上、以後2シリーズを全休。8月には両眼ブローアウト骨折による眼球運動障害のため、再度の戦線離脱も2000年復帰。新・三冠王者決定トーナメントでは決勝まで駒を進めたが、天龍との打撃戦の末、惜敗。2001年、武藤敬司と初の一騎打ちを行うも惜敗。直後古傷の右肘手術に踏切り欠場。2001世界最強タッグ決定リーグ戦ではパートナーに長井満也を抜擢。優勝戦まで独楽を進めるものの武藤敬司&太陽ケア組に敗退。2002年、武藤をパワーボムで下し、3年ぶりの三冠「奪回」を果たす。 王者として臨むはじめてのチャンピオン・カーニバルだったが、スタート直後に左ひざじん帯、半月板を損傷。長期欠場となり、王座は返上。 03年、382日ぶりにカムバック。2003サマーアクション・シリーズ2で伝統のベルトを取り戻す。さらには、橋本真也戦を実現させ、見事防衛に成功。 チャンピオン・カーニバル2004では、右拳骨折に見舞われリタイア。2005年、小島聡に三冠ベルトを奪われるが、その小島がIWGPとのダブルタイトルマッチに勝利。それを見届けたかのように川田は全日本を退団。馬場が亡くなってからは契約を更新しておらず、ハッスルに参戦するなど実質フりーだったとのこと。尊敬するレスラーはジャイアント馬場。
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力道山 1924年11月4日 命日 1963年12月15日 朝鮮半島時代に既に結婚し、子供もいたため公称生年月日より早く生まれていると思われる。 朝鮮半島咸鏡南道 出身 176cm(プロレス時代の公称身長は180cm)、116kg |
戦前の朝鮮半島で、金信洛(キム・シンラク)として生まれた。後に長崎県大村市の農家の養子となった。戸籍名は百田光浩(ももたみつひろ)。 1940年に初土俵、1946年に入幕し、1949年に関脇に昇進するが、1950年に自ら廃業、1951年にプロレスに転向。1952年に渡米し、翌年帰国して日本プロレス協会を設立。 1963年12月8日に、赤坂のキャバレーで暴力団員に刺されて入院。その傷が元で12月15日に死亡した。 今日のプロレス界の礎を築いた人物である。ジャイアント馬場、アントニオ猪木も彼の弟子であった。 プロレスラーの百田義浩(故人・元プロレスリング・ノア取締役)、百田光雄(現役・プロレスリング・ノア副社長)は実息。自らが朝鮮出身であることは生前は周囲に隠して生きており、亡くなる10ヶ月前に結婚した本妻はそのことを知っていたが、実息であった二人の息子は父である力道山の死後に知ったらしい。 |
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1968年6月17日生まれ 神奈川県横浜市西区出身 鈴木みのるブログ 得意技:
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私立横浜高校入学後レスリング部に入部し国体、関東大会など高校81kg級で常に上位進出を果たした。 アントニオ猪木に憧れて1987年、新日本プロレスに入門。 1988年、デビュー。1989年、新生UWF に移籍。1991年、新生UWF解散後には船木誠勝と共に藤原組入り。 藤原組は同年12月に分裂して船木と完全実力主義を掲げた総合格闘技団体パンクラスを設立。 2002年には新日本プロレスの獣神サンダーライガーと闘い一本勝ちを飾り、2003年4月2月には高山善廣とIWGPタッグ王者となる。 現在は様々なプロレス団体で活躍している。 好きな映画はハウルの動く城。 | ||
「問題児」 ケンドー・カシン 「剣道・家臣」 本名:石沢常光 1968年8月5日 青森県南津軽郡出身 181cm 92kg B型 得意技:
尊敬するレスラーはドラゴン系、スペースローンウルフ系、バカ系。愛読書は羅生門、王者の挑戦(永田自伝)。趣味は安田の電話に出ないこと。好きな動物はナカニシマナブ。 |
常盤村村長の息子。アマレスの強豪、光星学院に入学し、アマレスで1988から全日本選手権3連覇。早稲田大学卒業後の1992年、アマレスの特訓を行っていた闘魂クラブから新日本プロレスに入団。猪木の付き人を務める。 1996年、ヤングライオン杯を制す。欧州へ武者修行。1997年に凱旋帰国した石沢は、海外遠征時に転身したマスクマン、ケンドー・カ・シンとして山崎一夫と対戦。元々は、マスクを 脱ぐ予定だったが、会場の失笑によりこのままマスクを被ってやることに。て国内デビュー。帰国後に長州からマスクを脱げと要求されたがそのまま被りつづけた。永田がリーダーとして結成したユニットG-EGGESに カシンを誘ったとき、G-EGGES入りと中西について マスコミがカシンに質問をした所、 「はい、中西選手とは仲が良いです。かれこれ5年くらいは口を聞いてません」と、 ついに中西ネタを開始。またG-EGGES入りも 結局はしないままだった。 この事をきっかけに味をしめたカシンは、次々に中西をネタにし、 中西マニア路線をひた走っていく。 数々の迷言を残し中西マニアの路線も定着させた。 2000年に行われたPRIDEでのハイアン・グレイシーとの一戦で、 カシンは素顔の石沢で試合に臨んだが敗北。新日マットから姿を消す。2001年のリベンジマッチでは、石沢の勝利。新日本に戻ってきた。 試合ではジュラルミン・ケースを利用しての攻撃、レフェリーへの暴行、そして 中西弄りとパワーアップしての復活。2002年、新日本を退団。 退団した理由には、プロレスへの情熱と「馳への恩返し」が要因に含まれていた。 新日時代に世話になった長州には、長い間新日マットで恩義を返し、猪木には猪木祭り出場などで 恩を返した。プロレス入りをスカウトしてくれた馳には何もお返しをしていないとの事で 全日本入りを果たす。また、全日本入りを止められるのは 「中西のマッケンローくらいなものだろう」 ともコメントしていた。グランドチャンピオンカーニバルでは 渕と世界Jr王者の座をかけて対戦。渕をやぶり見事、王者になった。2004年に全日本解雇。 |
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本名 : 江崎英治 1968年11月29日生まれ 熊本県八代市出身 得意技:
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1991年デビュー。1993年メキシコでハヤブサになる。1995年帰国、大仁田厚の引退試合の相手として初めての爆破マッチを経験し、その後は新生FMWのエースとして華麗なる空中殺法でファンを魅了する。1997年からは全日本プロレスにも参戦し盟友・新崎人生とのタッグで日本最古のタイトルであるアジアタッグ選手権王者となり、故・ジャイアント馬場氏とのタッグで東京ドーム大会にも出場を果たした。2001年、試合中のアクシデントにより頚椎損傷の重傷を負い 全身不随となり525日に及ぶ入院生活の後、懸命のリハビリにより奇跡的にに回復。 現在はリハビリに励みつつ、執筆、作詞、作曲、イラスト制作や講演会、ライブなどの活動を行う。 尊敬するレスラーはジャイアント馬場。 合い言葉は「愛と勇気とあるこーる」 ハヤブサ計画 ハヤブサ、GOEMONの公式HP |
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ザ・デストロイヤー THE DESTROYER 本名 ディック・ベイヤー 1931年7月11日 ニューヨーク州バッファロー出身 183cm 110kg 得意技
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アメリカンフットボールでは奨学金を獲得、シラキュース大学に入る。チームのキャプテンをつとめ、1952年には大学チャンピオンに輝き、翌年オレンジボールでプレイした。また、同時にレスリング部にも入る。 教育学の修士を取って大学を卒業すると、地元バッファローでプロモーターをしていたエド・ドン・ジョージによって、プロレスの世界へスカウトされる。1954年デビュー戦。その後しばらくは陸軍での兵役があったので、地元周辺を離れずにキャリアを積んだ。1959年まではシラキュース大学フットボールチームのアシスタントコーチをつとめ、1959年にチャンピオンシップを獲得。 1962年、マスクを被る。デストロイヤーは、ハワイでロード・ブレアースから伝授された必殺技「足4の字固め」でトップスターとなる。1962年、デストロイヤーはフレッド・ブラッシーを破り、覆面レスラーとして初の世界チャンピオン(WWA)に輝いた。1963年、アメリカ武者修行中のジャイアント馬場の挑戦を受けた試合は3試合ともソールドアウト。ついに力道山との対戦では、当時のテレビ最高視聴率64パーセントを記録(日本テレビ)。 1973年には、ジャイアント馬場が日プロを脱退して設立した全日本プロレスに、日本側のメンバーとして定着。ミル・マスカラスとの覆面世界一決定戦から始まった「覆面十番勝負」は、ジャイアント馬場の「世界選手権争覇十番勝負」に継ぐ十番勝負企画として大きな成功をおさめた。1979年、アメリカへ戻る。 1983年にはビル・ロビンソンを破って、モントリオール地区のインターナショナル王座に。1984年にセミリタイアしてからは、地元NYのアクロン・セントラル・スクールで体育教師となる。 1993年、日本武道館での試合を最後にデストロイヤーはリングに上がらなくなった。1995年に体育教師を退任した後も、引き続き子どもたちに水泳の指導などをしている。 | ||
藤原喜明 1949年4月27日 岩手県和賀郡出身 186cm 102kg 得意技:
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少年時代は柔道、剣道。高校卒業後は、横浜に就職。サラリーマンや中華料理のコック見習い、板前などを経験。その間、元レスラーの金子武雄が経営する横浜のスカイ・ボディビル・ジムでトレーニング。72年に新日本プロレス入門。75年、第2回カール・ゴッチ杯で優勝。76年に西ドイツに海外遠征。猪木の付き人となり、異種格闘技戦のためのスパーリング・パートナーを務め、海外遠征にも帯同。アメリカ遠征では試合を行わず、フロリダのカール・ゴッチ道場で修行。84年、長州を襲撃し「テロリスト」として脚光を浴びる。この襲撃は猪木のアイデア。以降、道場で使っているような関節技中心のファイトスタイルで人気を獲得。6月に旧UWFに参加。新日プロ復帰、新生UWF参加を経て、91年に藤原組を旗揚げ。 かつて、新日本プロレスに道場破りがきた場合、主に相手をしていた。ゴッチ教室で学んだ事をイラスト付きで細かく書き留めた「ゴッチ教室」ノートは有名。 | ||
冬木弘道 1960年5月11日 東京都江東区出身横浜育ち 181cm 110kg 得意技:
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横浜商科大付属高校を卒業後、横浜駅西口の金子武雄主宰のボディビルジムで体を鍛える。79年に国際プロレスに入門。80年デビュー。81年の国際プロレス崩壊後、全日本プロレスに移籍。84年に海外遠征。「リキ・フユキ」のリングネームで活躍。85年に帰国後、サムソン冬木に改名し天龍同盟に参加。川田とのコンビ「フットルース」を結成。88年、アジア・タッグ王座を獲得。90年、全日本を離脱しSWSに移籍。92年のSWS崩壊後はWARに移籍。リングネームを本名に戻す。理不尽大王を自称。邪道、外道とのトリオで活躍。96年にWAR離脱。その後はFMWで活躍。97年に邪道、外道と共に冬木プロモーションを設立。冬木軍の旗揚げ。99年に冬木軍を解散。00年、WEWタッグ王座を獲得。01年にFMWを退団し全日本プロレスに参戦。新団体WEWを設立。冬木軍主催興行の試合後に大腸ガンのため引退を表明。友人の三沢は冬木の病状を聞き、引退興行をディファ有明で開催。ノアのリングで引退試合を行う。WEWではプロデューサーとして活躍。02年3月19日、ガンのため死去。 |
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「超獣」 「インテリジェンスモンスター」 「プロレス界のイエスキリスト」 ブルーザー・ブロディ Bruiser Brody 本名 フランク・ドナルド・ゴーディッシュ 1946年、ペンシルベニア州ユニオン出身 198cm 135kg 得意技
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両親はユーゴズラビア移民。父は炭坑夫。高校2年の春からフットボールを始め、1964年、フットボールの名門、ウエスト・テキサス州立大学(WTSU)にスカラシップとして入学、オフェンスのラインマンとして活躍し、全米オールスターに2度も選ばれる。(ちなみに、この大学の4年先輩にドリー・ファンクjr、2年先輩にテリー・ファンク、そして3年後輩にスタン・ハンセンがいた。)卒業後「ワシントン・レッドスキンズ」に1968年夏に入団。シンシナシティで左膝を負傷、1970年にカナダの「エドモントン・エスキモーズ」に移籍するも、うまくゆかず「ダラス・モーニング・ニュース」のスポーツコラムのコラムニストへと転身。その傍らボディビルを始め、地元プロモーター兼レスラーの“鉄の爪”フリッツ・フォン・エリックにみそめられる。 1973年にプロレス入りし、翌74年“フランク・ハンマー・ゴーディッシュ”というリングネームでデビュー。 1974年夏、大学の後輩スタン・ハンセンがオクラホマ地区に転戦。テンガロン・ハット&髭がトレードマークのこの“バッド・テキサン”は、USタッグを奪取、75年まで7ヶ月間同王座を保持。これを機に、コンビを解散。解散後はリングネームを本名から“フランク・ブロディ”に改める。 ウエスタン・ヘビー級王座、翌76年にはフロリダ・ヘビー級王座を獲得。この時期に、“キングコング”と呼ばれるようになる。76年、スタン・ハンセンがブルーノ・サンマルチノの首を折り衝撃的なMSGデビュー。その折ビンス・マクマホンから声が掛かりMSG登場のチャンスがやってくる。「ブルーザー(生傷男)というのはどうだ」と言われ、ブルーザー・ブロディが誕生。コスチュームも新日登場時に着用した毛皮のベストを使用。 1976年、遂にWWWF王者ブルーノ・サンマルチノとの試合が実現するも反則負け。77年には師匠のエリックからピンフォールを奪う。翌78年9月11日、師匠エリックからアメリカン・ヘビー王座を奪取。シドニーでアンドレ・ザ・ジャイアントをKO、ロン・ミラーからオーストラリア・ヘビー王座を奪取。この遠征先で知り合ったバーバラ夫人と結婚、そして1979年に馬場と親交の深かったエリックの紹介で遂に日本デビューを果たす。 81年にはジミー・スヌーカとのタッグで最強タッグに優勝。インターヘビー級王座をめぐってジャンボ鶴田と争う。82年にハンセンが全日本に移籍してくると超獣コンビを結成。84年に初代PWF世界タッグ王者を獲得。85年に新日本に移籍。「運命」をBGMに、鎖を片手にスーツ姿で入場。アントニオ猪木とも対戦。猪木とは通算7回対戦し、一度もフォール決着はなかった。同年のIWGPタッグリーグ戦では、自分を優勝させない新日本プロレスの方針に反抗、優勝戦をボイコットして途中帰国した。その後、再び全日に戻ったが、88年、プエルトリコでサーキット中、同地のボスのカーロス・コロンとトラブルになる。7月17日、カーロス配下のブッカー兼レスラー、ホセ・ゴンザレスと試合のフィニッシュをめぐって口論になり、シャワールームで刺殺された。 |
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「インドの狂虎 」 タイガー・ジェット・シン 1944年 インド・パンジャブ州出身 190 cm 体重 120 kg 得意技
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兵役を終えたあと、インドでグレート・ガマ流のインド・レスリングを身に付けてシンガポールでプロレス入り、その後、カナダで本格的なプロレスを身に付けて来日。新日本プロレスでアントニオ猪木を相手に壮絶な死闘を繰り広げた。サーベル片手に上田馬之助と共に大暴れした。 | ||
VADER 本名レオン・ホワイト 1955年5月14日 コロラド州デンバー出身 190cm 170kg 得意技:
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コロラド大学卒業後、プロフットボールチームのロサンゼルス・ラムズに入団が決まっていたが断念。85年、プロレス入り。リングネームはレオン・ホワイト。AWAで活躍。87年、CWA世界ヘビー級王座。新日本プロレスに登場。たけしプロレス軍団の刺客として登場。アントニオ猪木から2分でフォ−ルを奪うデビュー。新日本プロレス時代には、永井豪デザインのコスチュームで入場。89年、IWGPヘビー級王座を獲得。CWA王座2度目の獲得。UWA世界ヘビー級王座を獲得。91年にIWGPヘビー級王座3度目の獲得。92年にIWGPタッグ王座を獲得。WCW世界ヘビー級王座を獲得。93年、UWFインターに移籍。94年にルー・テーズベルト獲得。98年、全日本プロレスに登場。99年に3冠ヘビー級王座を獲得。チャンピオンカーニバル優勝。00年に世界タッグ王座を獲得。01年ノア参戦。03年ノアを離脱。WJプロレスに参戦 。 |
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ミル・マスカラス MIL MASCARAS 1942年7月15日 180cm 105kg 得意技:
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本名:アラン・ロドリゲス サンルイスポトシ州サンルイスポトシ出身。学生時代からアマレスとボディビルをしていた。アマレスではメキシコ代表として東京オリンピックの候補になった。ボディビルでは62年にミスター・メキシコに輝く。「ルチャ・リブレ」誌のバレンテ・ペレス編集長のスカウトでプロレス入りを決意。ディアブロ・ベラスコの指導を受ける。64年にグアダハラで仮デビュー。65年、キャンペーンの後、メキシコのアレナ・メヒコでデビュー。67年にナショナルライトヘビー級王座。68年にアメリカのロサンゼルス地区に進出。71年、日本プロレスに初来日。75年、初代IWA世界ヘビー級王座を獲得。76年にグアテマラの国際トーナメントで優勝、ALLLヘビー級王座を獲得。77年の来日からテーマ曲「スカイハイ」が大ヒット、日本プロレス界にテーマ曲の使用を浸透させる。弟ドス・カラスとのタッグでも活躍し、81年、82年と2年連続で全日本プロレスのPWF杯争奪タッグリーグ戦で優勝。メキシコでは映画にも出演。「千の顔を持つ男」と呼ばれ、毎試合変わるマスクと逆三角形のボディ、華麗な空中殺法で一世を風靡。 |
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「飛鳥仮面」 ドス・カラス DOS CARAS 1951年2月20日 178cm 96kg 得意技
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本名ホセ・ロドリゲス サンルイススポトシ州サンルイスポトシ出身。ミル・マスカラス、エル・シコデリコの実弟で、12人兄弟の末弟。兄同様にアマレスとボディビルで体を鍛える。メキシコシティで生物学と体育の高校教師をしていたが、兄に憧れてルチャを目指す。ラファエル・サラマンカにルチャを習い、70年にデビュー。78年6月カネックを破りナショナルライトヘビー級王座を獲得。8月に全日本プロレスに初来日。全日本プロレスのPWF杯争奪タッグリーグトーナメントに兄と出場し、81年、82年と2年連続優勝。84年、エンリケ・ベラを破りUWA世界ヘビー級王座を獲得。94年にCMLLに移籍。95年に、みちのくプロレスの覆面ワールドリーグ戦に参加し優勝。97年にAAAのメンバーで興行を行ったため解雇。 |
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ザ・グレート・カブキ 本名=米良明久 1948年9月、宮崎県延岡市生。 得意技
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力道山(1963年没)に憧れ1963年日本プロ・レスリング入門、'64年デビュー。豊登、芳里、吉村道明の3人の付き人になる。'77年にアメリカで、それまでのリングネーム、高千穂明久からザ・グレート・カブキに改名。'83年に帰国後、日本に定着。全日、SWS、WARを経てIWAジャパンへ移籍。'98年に引退する。現在は飯田橋で串焼きとちゃんこの店「かぶき」主人の傍らIWAマットでレフリーを務める。 「グレート・カブキの息 子」という設定でグレート・ムタという レスラーが誕生した。 「かぶき」 東京都文京区後楽2の3の17。最寄り駅はJR、東京メトロ東西線、飯田橋駅。ちゃんこ、くし焼きの専門店。予約は、TEL03・5800局5801(営業時間は午後5時30分〜午後11時) |
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キラーカン 本名/小沢正志 1947/3/6生まれ 身長/190cm 120kg 趣味/カラオケ |
1971年に大相撲からプロレス界へ転身。「アンドレ・ザ・ジャイアント」「スタン・ハンセン」「リックフレアー」などと対戦。 1987年にはアメリカのプロレス団体「WWF」にて「ハルク・ホーガン」 を破り世界チャンピオンに輝く。 そして、翌年からは日本でタレント活動を始め、映画「ジパング」「洛陽」「ハロー張りネズミ」「エバラ 家の人々」「極道の妻たち」などで名脇役として活躍。 最近の活躍は、「北野チャンネル」 、「三姉妹探偵団」「少年カトリ」等。「マザー牧場」のCM。 特技/料理 |
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ターザン山本 | ライター | ||
浅草キッド | 芸人 | ||
週刊プロレス |
サイト内リンク | 解説 |
●プロレスの楽しい見方 | プロレスとは、そしてプロレスを楽しく見るために心掛けておきたいこととは。プロレスに対する考え方は人それぞれ違います。全くプロレスを知らない人も、プロレスの面白さがわからない人も、一度プロレスを見に行ってみればプロレスの魅力にはまってしまうことは間違いなしです。 |
●プロレスリング・ノア | 三沢が2000年に旗揚げた団体。小橋建太、丸藤正道、KENTA、秋山準、鈴木鼓太郎ほか。 |
●新日本プロレス |
1972年にアントニオ猪木が旗揚げ。ストロングスタイルを掲げ、プロレス最強を唱える。蝶野正洋、天山広吉、棚橋弘至、中邑真輔、永田裕志、獣神サンダー・ライガーほか。 |
●全日本プロレス | 2002年、武藤敬司らが新日本プロレスから移籍、社長に就任。 川田利明、小島 聡、太陽ケア、 カズ・ハヤシ、渕 正信、馳 浩、石狩太一、 諏訪間幸平、R・O・Dほか。 |
●ZERO-ONE、ハッスル、WWE | ZERO-ONE、ハッスル、WWEのプロレス団体と選手の解説とリンク。 |
みちのくプロレス、DRAGON GATE、KAIENTAI-DOJO、大坂プロレスなどの団体の解説とリンク。 | |
●プロレス歴代MVP |
東京スポーツ新聞社制定プロレス大賞MVP選手を見ればプロレスの歴史がわかる。現役ベルト保持者表もあり。 |
●K-1、PRIDE | K-1、PRIDEへのリンク。 |
●総合格闘技団体 | パンクラス、サンボ、修斗の団体へのリンク。 |
●柔道、空手など | 講道館や吉田秀彦選手のリンク。 |
●goods &格闘技関連サイト | プロレスや格闘技団体のTシャツやグッズの店のリンク。 |
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