(25)草津から京三条までの旧道     草津→瀬田→大津→追分→京三条

 草津から京三条まで、途切れ途切れだが旧道はかなり残って居る。だが都市化が進み散策のコースとしては快適とはいえない。特に大津蝉丸神社から追分までは旧道は国道に吸収され、有名な逢坂山や走り井へは国道を歩いて行かねばならない。しかもこの国道部分は歩行者用の施設がほとんどなく、自動車の疾走する中を歩くことになり、危険であるばかりでなく、排気ガスをまともに被ることになる。歩くことは勧められない。この先天智天皇陵のある日ノ岡から三条まで京阪電車の通る道を歩くことになるが、この区間は歩道があるだけましである。ハイキングや散策が目的なら大津長等宮から山道を抜け山科に下りて疎水の堤を歩いた方がよい。しかしここではあくまで旧道をたどるのが目的だから、現に残って居る旧道について説明することにする。
 草津追分は丁字路になって居る。旧東海道を歩いて来て、右へ行けば中山道だが、京へは左折する。これは前に記した。JR草津駅からは駅前の道を真っすぐに行き、十字路で右折、トンネルをくぐるとこの追分に出る。ここからが草津宿で古い建物は残って居ないが、町並としては昔の街道を偲ばせるものがある。町はずれに立木神社がある。社叢もあるいい神社である。この先「八橋道わかれ」があり、細い道が右へ分かれて行く。八橋はここから約3km西にあり、湖を船でショートカットして大津に出ていた。旧道は東矢倉で国道と交差し野路(のじ)に出る。狼川の手前に弁天池、新宮神社がある。この先、月輪寺のある月ノ輪は、もと立場だった所で大津市に入る。このあたり一里山という。昔、一里塚があった名残の地名だが、今はその跡もわからない。この辺は工場や住宅地として盛んに開発されて居るが、旧道部分は右へ左へ曲がりくねり、池や畑などの中を行く道で比較的のどかである。
 間もなく大江。旧道は三丁目と六丁目の境を行くが途中で右折し、建部公園の高橋川の橋の手前で旧国道に合する。橋を渡ると神領、三差路があり、左に建部神社がある。昔から近江一の宮として知られ、長い歴史と由緒のある神社である。祭神は日本武尊、天武天皇の頃(676)建部連安麿の創建になるといわれるが、承久の乱の時戦火にあい、社殿と多くの社宝を失った。延慶2年(1319)勢多の判官中原章則が再建したといわれる。ここには平安末期から鎌倉初期のものと推定される女神像三体があり、重要文化財に指定されて居る。また本殿脇の石燈籠は文永7年(1270)の銘があり重要文化財になって居る。
 この地は近江の国府があった所で、先に通った旧道で大江3丁目で右折したが、そこを曲がらずに真っすぐ行けば「国衙跡」がある。発掘調査が行われ、築地垣、門、南北の両正殿などの遺構が確認された。
 さて旧街道は瀬田川を渡る。現在唐橋と呼んで居る橋は大正13年(1924)にかけられたコンクリートの橋で、大小34本の擬宝珠があり川中の島で二つの橋になって居る。この瀬田川では数々の戦いが行われた歴史に残る地である。橋を渡り左折する道を行くと有名な石山寺がある。京阪電車の踏み切りを越えると鳥居川町の十字路である。旧街道はここを右折する。ここを左折すると、「御霊神社」がある。大友皇子を祀る。大友皇子は天智天皇の子で、父の死後、叔父の大海人皇子の攻撃にあって敗れ、この先の長等で自刃した。いわば壬申の乱の悲劇のヒーローで、長いこと天皇とは認められなかったが、明治になって天皇に列せられ「弘文天皇」という諱がおくられた。御陵は三井寺の先の御陵町に造られて居る。
 またこの角を真っすぐ500mほど行き、宮の内の四つ角を右折、坂を登って行くと、晴嵐小学校に突き当たるが、ここに「近江国分寺跡」の表示がある。ここは「日本紀略」に「延暦4年(785)近江国分寺が焼失しその後再建されなかったが、弘仁11年(820)定額国昌寺を以て国分寺とした。」とあり、その寺の跡と推定されて居る。なお前記の「国衙跡]の近くに瀬田廃寺跡があり、焼失前の国分寺の跡であると推定されて居る。また晴嵐小学校の先、名阪高速道路を越え石山高校前を右折し、少し行って左折したあたりが国分で、この奥の山道を登ると近津尾神社があり、その境内に「幻住庵跡]がある。芭蕉がしばらく滞在した所だという。最近建てた幻住庵があり、芭蕉句碑もある。

 「まづたのむ椎の木もあり夏木立  はせを」

 旧道に戻る。その旧道は右に曲がって行くがバス通りになって居て車の往来が激しく、非常に歩きにくい。JRのガードをくぐり工場街を抜けると湖岸に出る。御殿浜という。ここに元本多邸があり中に古墳、丹保宮という社、また本多神社がある。旧道はここから狭くなり、何回か鉤形に曲がる。一本道ではないので注意して行かないと旧街道からはずれる。その代わり車の往来は少ない。京阪電車の踏切を2度渡る。ここは昔粟津野といわれた所で、近江八景のひとつ「粟津の晴嵐」といわれたのもこのあたりである。名所図会に「粟津杜(あはづのもり)膳所の城にならざる已前、膳所明神の杜をいうなるべし。粟津の清水は陽炎の清水をいう」として後撰集の「関こえてあはづの杜のあはずとも清水にみえし影を忘れるな」という歌を載せている。その粟津神社は今も小さい社として残って居るが、昔の景観を偲ぶものは何もない。篠津神社の横を通り、膳所の町に入る。やがて広い道と交差するが、ここを右折すると湖岸で、現在膳所公園になって居る。近江大橋が近くに出来たので、湖岸の風景と静けさは若干損なわれて居るが、それでも眺望はよい。ここがもと膳所城のあった所で「水に映るは膳所の城」と称えられた近江八景のひとつ膳所の城も明治にこわされて今は石垣が残るのみである。
 先の十字路を左に行くと膳所神社がある。ここにある門はもと膳所城の城門である。くねくねと道なりに曲がって行き、小さな橋を渡ってすぐあるのが、石坐神社。延喜式の古社で本殿は鎌倉時代のものという。馬場1丁目に入る。名所記に「番場村、小川二つあり。西の方の川を、もろこ川といふ。川のまへ、左の家三間めのうらに、木曾殿の塚あり。しるしに、柿の木あり。」と記して居る所は今「義仲寺]になって居る。図会では「此所木曾義仲戦死の地なり」としている。芭蕉は晩年この裏に住み、大坂で没した。今、義仲の墓、芭蕉の墓があり、句碑も立って居る。
 電車の踏切を越えると石場で、もと立場で茶屋が並んで居た所である。右の坂の上にあるのが平野神社。この先が大津の宿である。大津市は戦災で市街の中心部を焼失したが、この辺は古い家並みが一部残って居る。県庁の横に天孫神社がある。ここは図会に「四宮大明神社ー大津四宮町にあり祭神彦火火出見尊」とある社で明治になって改名したもの。その先に明治時代ロシアの皇太子が暴漢に襲われた、いわゆる[大津事件」の場所があり、その石標が立って居る。
 京町1丁目で大通りの交差点になるが、ここが札の辻である。旧東海道は左折して逢坂山を超えて行く。途中、蝉丸神社、逢坂関跡、月心寺の走井などの旧跡があるが、前述のように国道部分で車の往来が激しく、しかも歩道も完備されて居ないので歩行には向かない。
 ここを真っすぐ行く道が北国西街道で、坂本、堅田の湖西岸を通り敦賀へ出る街道である。その左手山側に長等神社がある。天智天皇が素佐男命を勧請した神社で、天安2年(858)比叡山の僧円珍が大山咋命を合祀した。
 この神社に向かって右へ下りて行くと疎水に当たる。琵琶湖からの取水口がよく見られる。左へ上ると長等公園がある。その途中小路があり、「小関越」の表示が立って居る。この道は逢坂山の北を通る間道で、山の中を越える古い街道のままの所が残って居る。長等公園からの山裾の道もまた散策によい。山道を下りた所に関の蝉丸神社がある。
 さて大津札の辻から先は旧道がないので国道を歩くか追分まで京阪電車を利用する。旧道はこの追分から日ノ岡までかなり残って居る。追分というのは、図会に「追分ー村の名とす。京師・大坂への別れ道なり。札の辻に追分の標石あり」とある通り、小野を経て伏見に至り、大坂への道が別れて行った所である。現在、名神高速道路の下を抜けるとすぐに旧道が左に分かれ、追分の町並があり、三差路つまり昔の追分の角には道標が残って居る。ここは、北側が大津市追分町、南側が京都市山科区髭茶屋町である。このあたりが、山城、近江の国境、つまり京都府と滋賀県の境となって居る。
 横木1丁目で国道を横断歩道橋でこえる。しばらく行くと小関越の表示がある。先に長等神社の所から別れた間道がここへ出て来て居る。前述したように歩行が目的なら、国道を経由せずこの道を来て、追分に出た方がよい。すぐ県境になり京都市山科区に入る。四ノ宮という所で、六角堂がある。俗に「六地蔵」ともいい、堂の前にある手水鉢に、丸に通の字が彫られ、裏には「定飛脚、宰領中、文政四巳年」(1821)と彫ってある。
 四ノ宮の名の起こりとなった諸羽神社はここから京阪電車とJRの線路を越えた北側にある。天兒屋根命、天太玉命を祀る式内の古社で、境内も広く社叢も茂る。この先北へ細い道をたどり、疎水を越えて行くと、毘沙門堂がある。もみじの多い山寺でいい雰囲気である。なおこの山科の疎水べりは桜の木が両側に植えられ花の頃はすばらしい。
 旧道に戻る。東海道巡覧記に「ひげ茶屋九左衛門といふ、即此辺ひげ茶屋町と小字にもよぶ」という奴茶屋は今でも料亭として営業して居る。この先にまた追分があり、澁谷越道で五条大橋へ出る道が分かれる。この道とほぼ同じルートを国道1号線が通って居るが、この旧道は途中で途切れている。
 ここからすぐ広い道に合し、鉄道のガードくぐると御陵町。そこから再び旧道が左へ曲がる細い道として残って居る。そして日ノ岡の先、九条山で広い道に合して居る。御陵町というのは、天智天皇の御陵があるからで、ガードの先右手奥の荘厳な森の中に御陵がある。
 広くなった旧道というよりバス道は上り坂になって居るが、右手に蹴上、そして粟田口となり、京都東山のいい観光地を横断して、やや下り坂の道を行くと、京阪三条、即ち三条大橋に着く。日ノ岡から三条大橋までは車の多いバス道だが、約3km1時間程度の辛抱である。途中、横道にそれれば、南禅寺、智恩院など立ち寄る所も多いので、それらを歩行ルートの計画に含めれば、バス道を歩く区間も少なくなる。東海道の旧道歩きはこれで全部終了ということになる。


☆行程 
A.草津駅→瀬田唐橋→膳所→大津長等公園→蝉丸神社→大津駅     約16km,5時間
B.京阪追分駅→追分宿→四ノ宮→日ノ岡→三条大橋     約 7km,2時間
   四ノ宮→諸羽神社→毘沙門堂→四ノ宮      約 3km,1時間

☆地図 
国土地理院  5万分の1  京都東北部、京都東南部
昭文社    エリアマップ  草津市、大津・宇治市、京都市


 

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