(19)北勢(桑名・四日市付近)の旧東海道
    桑名→富田→四日市→日永追分(→伊勢国分寺跡→石薬師)

 三重県の北部は北勢といい、桑名、四日市から鈴鹿、亀山あたりの地域である。この地域には一部を除き比較的多く旧道が残って居る。そのうち、桑名、四日市から日永追分までの区間と、国道部分が多い区間だが、その先杖衝坂を経て、伊勢国分寺跡に寄り、石薬師まで足を延ばすコースについて述べる。
 近鉄桑名駅で降り、駅前通りを東へ真っすぐ行くと北寺町の少し入った所に本統寺という寺がある。ここが東本願寺別院で大きな寺である。ここに芭蕉句碑がある。

 「冬牡丹千鳥よ 雪のほととぎす」

 この先、魚町のあたりは市場になっており、それを越えると春日神社がある。ここは桑名宗社ともいい、旧桑名神社(三崎大明神)と中臣神社(春日大明神)を合祀したもので、この入り口に立つ青銅の大鳥居は高さ7.6m.寛文7年(1667)桑名城主松平定重が造らせたものである。この神社の参道の先の道が旧東海道で、左へ行けば七里の渡しの船着き場跡に、右へ行けば四日市方面である。
 七里の渡しの跡は現在コンクリートの堤防が出来たため、昔の面影を偲ぶのは難しい。『東海道名所図会』(以下「図会」という)にいう「常燈明(夜走り渡海廻船のめあてとす。宝暦年中より始まる)」は今そのコンクリートの堤防の外に鳥居とともに押し出されて立っている。この鳥居は伊勢神宮の「一の鳥居」であった。また泉鏡花の名作「歌行燈」の湊屋のモデルになった船津屋は建物も経営者もかわり黒塀に囲まれて居る。ここから先、神社のあたりまでは、船宿や旅籠があった所だが、旧道のルートとしては残って居るものの、昔の面影は何もない。
 桑名は宿としてはわりと大きく、総家数2544軒、うち、本陣2、脇本陣4、旅籠120、人別、男4390人、女4460人、計8850人で、対岸の宮よりやや少ない程度の大きさである。
旧道の東側は旧桑名城で、今九華公園になっており、石垣を残すのみだが、広重の桑名の絵では、海に突き出た石垣の立派な城が描かれ、海上には帆船の幾つかと、岸に着いた船が描かれて居る。旧道は京町で右折し、吉津屋町で左折する。この町に入ると仏檀通りと言われる程仏檀屋が並んで居る。付近には寺も多いし、中世戦国時代の終わり頃、織田信長に抗して徹底的に弾圧されたにも拘わらず、伊勢門徒の信仰の根強さはそれが現代まで続いて居ることを、あらためて認識させられる。道は枡形に何回も右折、左折を繰り返して新町、伝馬町に入る。広い道に合した所で左折するとすぐあるのが、天武天皇社である。
 壬申の乱は西暦672年、周知のように天智天皇の弟である大海人皇子が近江朝を継いだ大友皇子に対し反乱を起こした戦いで、日本史上最大の戦闘の一つであった。大海人皇子は隠れて居た吉野を発し、伊賀を抜け伊勢のこの地に陣をとった。その後美濃に進出し関が原の手前の野上の里で全戰線の指揮をとったが、同行した妻の鵜野皇女、後の持統天皇はこの地に留まり伊勢の勢力を固めたといわれる。戦いに勝って大海人皇子は即位して天武天皇となった。このことについて『東海道名所記』(以下「名所記」という)では次のように記している。「むかし清見原の天皇御くらいにつきたまはんとし給ふ所に、大友のわうじ天下をうばひとらむとしてつはものをあつめて、むほんをおこし給ふ。天皇は大和国吉野の宮におハしましけるに………このよし聞こしめし御きさきとともに。ひそかに伊勢大神宮にまうで給ひ、それより。この桑名に御幸ありければ。東国の兵はせつきたてまつる。天皇、御后をば御所にとどめをき、ミづからつはものを卒して。美濃の国不破の関おもむき給ひて。大友の皇子といくさありけるに。つゐに。いくさにかち給ひて御位につかせ給ふ……」と。
 ここでは天武天皇が位につこうとした時、大友皇子が謀反を起こし兵を集めたので、それを天武天皇が討伐し、戦いに勝って即位したと云っている。江戸時代のこの書物では大友皇子を天智天皇の正式な後継者と認めていなかったようである。この神社はもと本願寺村にあったが、天和年間(1681~84)にこの地に移したものだという。
 そのすぐ先に「一目連神社」がある。小さい社だが、製鉄にかかわる神として全国の鉄屋の信仰を集めて居るようだ。一目という名と製鉄とのかかわりなどについては、柳田国男の民俗学に説明を求めないと言及するのは難しい。興味深いテーマだが、ここでは煩瑣になるのでこれ以上触れることはしない。
 国道1号線を越え、西矢田で三差路を左折する。このへんがもとの大福村で、員部川の堤で旧道は途切れる。その堤に常夜燈が立って居る。国道にかかる町屋橋を渡り、堤の下に下りると旧道は右へ分かれる。朝日町縄尾で、一里塚跡がある。今表示のみで何も残って居ない。近鉄の踏み切りを越え、東芝の工場の前を過ぎると、古い家並みが所々残り、その間に田園風景が開けて居る。間もなく朝明川(あさけがわ)で、堤の上に常夜燈がぽつんと立って居る。橋を渡ると四日市市松寺、もと松寺村、立場だった所である。蒔田に入ると左手に御厨神明社があり、同じ境内に宝性寺がある。この本堂は重要文化財になって居る。鉄道の踏み切りを越えてすぐ左折、そして近鉄のガードをくぐると、富田一里塚跡を示す石碑が立つ。このあたりが富田の町で古い家並みが続く。ここは古くから焼き蛤が名物だった所である。『東海道中膝栗毛』(以下「膝栗毛」という)では「富田の立場にいたりけるにここはことに焼はまぐりのめいぶつ、両側に茶屋軒を並べ往来を呼びたつる声にひかれて茶屋に立ち寄り」焼き蛤でめしを食った所、焼き蛤が北八のへその下に落ちやけどするはめになり、

 「膏薬はまだ入れねどもはまぐりの やけどにつけてよむたはれうた」

という狂歌で結んで居る。
 この先が南富田で薬師寺があり、茂福村に入ると山神のみや、現、茂福神社が街道の300mほど西にある。米洗川(よないがわ)を渡り、羽津町で旧道は途切れ、国道1号線をしばらく歩くことになる。500mほど行くと旧道が分かれもとの海蔵橋跡まで旧道がある。旧道の海蔵橋はないので国道の橋を渡りすぐ左折して旧道をたどる。この先三滝川の橋を渡ったあたりから、昔の四日市の宿に入る。中部の広い道を越えた所が昔「四日市場」と呼ばれた市場があった跡だが、今はその痕跡もなく、旧道はこのへんで一旦途切れ、国道1号線を越え、諏訪神社のあたりから再び南へ向かって行く。この諏訪神社はここの産土社で、図会に「祭式の楽車(だんじり)ねりものあり近隣群集して賑しき神事也」と記されて居る祭礼が、今大四日市祭の名で行われて居る。
 駅前の大通りを横切り、浜松町で近鉄のガードをくぐって赤堀に出る。四日市市も戦災で中心街は焼失し古い建物で残って居るものは少ないが、このへんは市街のはずれで、焼失を免れたのでごたごたした感じで車の往来も多いが、古い町並を歩くことが出来る。
 なお近鉄四日市駅の西側に鵜ノ森公園がある。ここは中世、浜田城があった跡である。文明2年(1470)赤堀忠宗が築き、その後四代続いたが、織田信長の部将滝川一益に攻略されて落城した。彼は俵藤太秀郷の子孫とされており、近くの鵜ノ森神社は俵藤太秀郷を祀って居る。
 旧道を進み、鹿毛橋を渡ると日永で右手に小さな社がある。大宮神明社で名所記に「松林のうちに、天照太神の社あり」と記されて居る所である。ついで天白川の天白橋を渡る。その先右手にあるのが日永神社で、名所記で「ひなの村。この村にも太神宮の御やしろあり」と記して居る神社である。ここから1.5kmほどで旧道は途切れ、国道1号線に合し、すぐに「日永の追分」になる。ここは伊勢参宮道の別れ道で、立場もあった。大きな鳥居があり、多くの道標と常夜燈が今も残って居る。
 この追分の先、伊勢道は左へ行く。伊勢市への国道は23号線として別のルートを通って居るので、この道が伊勢道の旧道である。右に分かれる東海道は国道1号線で、近鉄内部線の踏み切りを渡った所から、再び旧道があり、小古曽を経て内部(うつべ)の川岸で終わって居る。
 この先、旧道として残って居る区間は、庄野までは途切れ途切れで、ここを歩くとすれば、国道部分をかなり歩かねばならない。しかしバス便が1時間に1本くらいあるので、途中国道部分をバスでショートカットすることも可能である。橋を渡ると采女で、細い旧道が左へ分かれる。間もなく杖衝坂でかなりの急坂である。ここに石畳が舗装の下に一部残って居る。金比羅堂があり、日本武尊墓と伝えられるものがある。この坂の近辺は日本武尊にちなむ伝説がある所である。坂を上りきった所で国道に合する。600m程行くと国分の交差点に出る。ここを左折し、同じくらい行くと国分の集落があり、その西の畑の中に伊勢国分寺跡がある。
 国分の交差点に戻り、国道を少し行くと左へまた旧道が分かれて行く。「自由が丘」というシャレタ名前の団地の所で国道とクロスし、橋を渡るとやや上り坂になる。このあたりが石薬師の宿で古い町並が短い区間だが残って居る。宿としては小規模な方で、総家数241軒、内、本陣3、旅籠15、人別、男470人、女520人、計990人であった。広重の絵では石薬師の寺と、その後ろに山を背景にした数軒の藁屋根の家が描かれて居る。寺は国道1号線を橋でまたいで渡り下るとすぐ右手にある。図会に「高宮山瑠璃光院石薬師寺」とあり、本尊は石仏薬師如来で菊面石で彫刻してあるという。聖武帝の頃の創建という。この寺の名前から宿の名が出て居る。
 近くに範頼の社、蒲桜がある。図会に「名馬生食の出し所はここならむとめぐりたまひ馬のむちを倒にさしたまふ、後に枝葉栄へり」とあるのがこれだという。この先に蒲郷橋があり、その近くに石薬師の一里塚跡がある。旧道は鉄道線路で途切れ、加佐登駅の手前まで国道を行くことになる。

☆行程 
A.近鉄桑名駅→渡船場跡→元桑名宿→富田→近鉄四日市駅  約15km, 5時間
B.近鉄四日市駅→鵜ノ森→日永追分→杖衝坂→国分寺跡→石薬師寺→JR加佐登駅  約15km, 5時間

☆地図 
昭文社 エリアマップ 桑名市、四日市市、鈴鹿市



 

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