(18)名古屋市内の旧東海道 有松→鳴海→笠寺→宮
名古屋市内には、旧東海道が比較的多く残って居る。緑区の有松から所々途切れては居るが、笠寺を経て宮の河岸まで、約10kmかなりの長い区間である。名古屋市は戦災を受け市街地はかなりの広い地域が焼失した。しかし周辺のこのあたりは焼失を免れ、しかも区画整理、道路拡張もハイピッチで行われなかったため、古い街道の町並があまり損なわれずに残って居る区間が多い。古い街道を訪ねて歩く者にとっては幸いである。
名鉄競馬場前駅で降りてすぐにある公園が、前に述べた桶狭間古戦場跡といわれて居る所だが、その前の国道を10分ほど歩くと右へ行く道がある。ここからが有松で旧道がずっと続く。有松は「有松絞り」で有名な所で、昔から生産販売をして来た店が多く、古い建築がそのまま残って居る。右手にある服部邸は店舗、土蔵、藍倉などが古い形式のまま残っており、同時に防火建築としての塗籠構造も採用されて居る。左手に有松絞会館があり、展示場になっていて、工程の実演も見られる。この町並は文化庁の「歴史の町並」に指定されており、全体として醸し出す雰囲気は古いというよりシックな感じさえ与える。名鉄の踏み切りを渡り小川沿いの道を行くと間もなく鳴海である。すぐ右手にあるのが瑞泉寺で、その山門は県の文化財になって居る。
ここから元鳴海宿で古い建物は残って居ないが、街道筋は昔のままである。名鉄鳴海駅からの道と交差する角には元脇本陣があった。旧道は真っすぐに行き右折して行くのだが、この角を右に曲がり、誓願寺に寄り道する。天正元年(1573)の創建で、この境内奥に芭蕉供養塔がある。高さ60cmくらいの小さな塔で、表に芭蕉翁、裏に元禄7年(1694)10月12日とその没年を記して居る。これは芭蕉の没後、この地如意寺で35日忌の法要が行われた時建てられたものだが、その後この寺に移されたものだという。最も古い芭蕉碑である。また芭蕉堂があり、安政5年(1858)に建てられたものである。この道を上って行くと左手丘の上に成海神社がある。式内社で、境内は広く社叢も繁る。この神社を左に下りて行くと旧道に出る。
有名な「千鳥塚」は三王山の緒畑稲荷の入り口の坂を上る。極めて細い道なので注意しないと見落とす。竹薮の間の細径を登ること5分、木の下に高さ50cmくらいの小さな自然石で出来て居る。芭蕉存命中の芭蕉塚は全国でもここしかないというもので、俳句史上貴重なもので名古屋市の重要文化財になって居る。平成二年四月に二度目に訪れた時には、以前薮だったところがすっかりきれいになり、句碑はコンクリートで固定され囲いもでき新しい説明板等も立てられ、千鳥塚公園として整備中とのことであった。
旧道に戻り、少し行くと広い道になり天白橋を渡る。天白というのは珍しい地名だが、昔からあるようで、東海道名所記には「田畠橋」(でんばくはし)長さ十五間(約30m)とあり、東海道宿村大概帳には「天白川有」云々と記されて居る。桑名の先にも同名の川があり、何らかの由緒がありそうで、地名の研究対象として興味がある。
10分ほど歩くと右手に「笠寺一里塚」がある。榎の大木が繁る立派な塚でかなり目立つ。左側のもあったはずだが消滅してしまった。ここから笠寺の立場になる。500m程行くと右手に笠寺がある。天林山笠覆寺という。本尊十一面観音で笠をかぶって居るので笠覆寺の名で呼ばれて来た。また笠寺観音として有名な寺で今でも参詣人が絶えない。多くは老人だがよく見ると老婆が多い。私の見たところ、名古屋近郊は民間信仰が根強く残って居るような気がする。かって尾張国分寺跡を訪れた時も、近くの民家に祀られている矢合(やわせ)観音に多数の参詣者がおり、そこの井戸の水が霊験あらたかだということで、お水を頂いて居たが、ここ笠寺でも同様なご利益を期待して来て居るようである。
境内は広く参詣人も多い。その隅に宮本武蔵供養碑がある。吉川英治の小説の主人公という印象が強いので架空の人物のような感があるが、この碑は百年忌の延亨元年(1744)のもので、武蔵の孫弟子に当たる左右田邦後の子孫や門弟が建てたものだという。また句碑も多数あり、三王山と同じ芭蕉千鳥塚は本堂の裏手に立って居る。
ここを出ると門前町のような通りで、広い道を越え名鉄の踏み切りを渡ってすぐ右へ折れて行く。このあたりずっと旧道で、車が少なく歩行は楽だ。右手に地蔵院があり、「湯あみ地蔵」と言われて居た所である。湯をかけて拝むと願いがかなうという言い伝えがあった。今は参詣人は少ないようだ。山崎川を渡り、神穂1丁目で国道1号線に合する。東海道線を越える所で国道は陸橋となるが、旧道は別れて下の道を踏み切りで鉄道を越えるコースである。このあたり昔は「宮縄手」と呼ばれ松並木の道だった所だが、今その面影は全くない。橋を渡ると伝馬町、昔の宮の宿である。姥堂というのがあり、そこに裁断橋が縮小復元されて置かれて居る。宿としての面影はないが、表示があって旧道をたどることは出来る。ここは海道一の宿場といわれた程の大きな宿場であった。総家数2924軒、本陣2、脇本陣1、旅籠248、人別、男5130人、女5210人、計10,300人もあった。前述した駿府は人別で14,000人を越えるが城下町であり、ここには別に名古屋の城下町があるので、宿場町としては確かに家の数、旅籠の数、人口ともに東海道随一である。
宮の宿の名の通り、北側に熱田神宮がある。鬱蒼たる社叢、広大な神域を持った神宮は、今も荘厳で風格がある。ただ元の宿場の通りからは広い道路に隔てられて直接は参道へ行けなくなって居る。国道247号線を越え堀川の岸に、宮の渡し公園がある。昔桑名までの七里の渡しはここから出たという所である。もとの岸に常夜燈があり、また公園の前に昔の船宿の一つであった丹羽家がある。
この七里の渡しは、往々にしてしけにあって欠航することがあり、その場合は陸路をとった。それが佐屋道で、今の熱田区の北のはずれ新尾頭町(金山の手前)から西へ向かい、幾つかの川を渡り佐屋へ出、木曾川を下って桑名へでたものである。かなりの遠回りだが、現在その旧道部分も一部残って居る。
☆行程
名鉄競馬場前(桶狭間)→有松→鳴海→笠寺→宮→七里の渡し 約12km,4時間
☆地図
国土地理院 5万分の1 名古屋南部
昭文社 エリアマップ 名古屋市
目次