(16)三河国府から御油、赤坂を経て岡崎へ
  名鉄国府駅→御油→赤坂→長沢……藤川→大平→岡崎→名鉄東岡崎駅

 この地国府のあたりは古くからひらけた所で、昔の「穂の国」の中心であった。律令制後他の地域と合併して「三河国」となり、三河国府が置かれ、国分寺、国分尼寺も建てられ、総社も造られた。この点は前に述べた。そこで旧東海道を先へ進む前にこのあたりを案内してみたい。興味のない方や時間がない方は割愛されればよい。
 さて、名鉄国府駅から踏み切りを渡って東側にでる。やや上りのカーブの道を行くと、広い道にぶつかる。これが「本坂越」で俗に姫街道という道である。その先のこんもりとした小丘が東三河随一の前方後円墳、「舟山1号墳」である。これはこの地に勢力を張った「穂の国造」の墳墓だという説がある。姫街道に戻って少し東方へ歩き、細い道を右に入って行くと、ひっそりとした白鳥の集落で、その杜の中に小さな社がある。これが三河総社である。永和4年(1378)の棟札に「惣社五八社大神宮」と記されて居るのでそれ以前の建立によるものと思われる。総社というのは、当時三河国各地の由緒ある神社の神霊、神宝を集めて合祀するため、新たに造られた神社である。国司が定期的に参拝し神餞を捧げる決まりであった。いわば律令制のもとでの国家権力による宗教統制であった。このあたりから少し南にある白鳥神社の辺にかけての一帯が、元国府があった所と推定されて居る。総社の角の細い道を東へたどると広い道、つまりさきの姫街道に合う。やや下り坂を歩いて行くと小さな橋がある。この橋が筋違橋、古い言い伝えがあるそうだが、その手前の細道を左折、宮前橋を渡ると鳥居がある。ここをくぐると、八幡宮。いい神社である。本殿は檜はだ葺き、重要文化財に指定されて居る。古く文明の頃(1470年頃)の建造という。その横に公民館があり、その裏に国分寺の塔跡がある。薮、木立の中に土壇跡、また大きな礎石が転がって居る。かなり大きな塔であったと思われる。そこから200mくらい東に小堂がある。現在の国分寺だが、その前に説明板が立って居る。それを見ると調査が進みかなりのことが分かって居るようだ。この堂のあたりが金堂跡、そして説明板の南側に中門跡がある。国分尼寺跡はここから5分ほど小路を北にたどると、清光寺の森がある。発掘調査が行われ、金堂跡、講堂跡などが確認された。この辺の地名が忍寺(にんじ)というのも、尼寺の音を当て字にして残っていたものと思われる。
 さてもとへ戻り街道を行く。名鉄国府駅から真っすぐの道を行く。国道を横切り、更に少し行くと旧道に交差する。ここを右折。間もなく大社神社がある。江戸時代「国府大明神」といって居た社で、このあたりに立場があった。古い家並みが続く。この先右手に大きな常夜燈があり、その後ろに二つの道標が立って居る。ここが前述の本坂越えの街道が分かれる追分けで、ここから、豊川、本坂、三ケ日、気賀を経て、天竜川の手前の萱場で東海道に合する。このことも前に述べた。
 ここから旧五井橋を渡ると間もなく御油の宿である。古い町並で、江戸時代の面影のある連子格子の家が多く残って居る。今味噌屋の大きな家があるが、昔は旅籠で大津屋といい、飯盛女を多く抱えて居た。ここは次の赤坂宿と張り合って繁盛して居た所で、東海道中膝栗毛で、弥次・喜多が留め女に執拗に袖を引かれ、また婆にこの先の松原に悪い狐が居て旅人をばかすからこの宿へ泊まれと脅かされる場面があるが、この競争の様子がよく現れて居る。この両者の距離は僅かに16丁、およそ1.7kmしかない。街道でこんな近くに宿駅を置いた例は少ない。また、弥次・喜多が悪い狐が出ると脅かされる松原は、今でも赤坂との中間に立派な松並木として残って居る。 
 赤坂宿に入ると、伝馬所跡、ついで浄泉寺の百観音があり、ここは赤坂薬師ともいう。町並は新しく建て変えられた家が多いが、昔のたたずまいはある。浄泉寺のすぐ前に元の旅籠、大橋屋がある。往時の面影が偲ばれる。
 赤坂宿をはずれ、長沢の先から旧道は国道1号線に合し、2kmほど車の多い厭な道を歩かねばならない。本宿のあたりだけは旧道が残って居る。法蔵寺こいうちょっとした寺がある。東海道名所図絵に、「本尊阿弥陀仏、門前に大木の古松あり、 稿掛松(そうしかけまつ)という。」とある寺で、この松は今でも門前にある。この寺には徳川家康の祖先の松平家の墓がある。再び国道、そして旧道、という道をたどるうちに藤川宿に着く。今は、市場町と藤川町とに町名が分かれて居るが、いずれも昔の藤川宿である。しかしここにはあまり昔の面影はない。その先の名鉄の踏み切りの前後には松並木がありいい旧道が残っている。そこから2kmくらい行った所が美合で、その先山綱川に架かる橋のあるあたりの小川には源氏蛍が自生して居るという。都市化し、川が汚れて居る現在でも自生して居るのかどうか。
 間もなく大平町、ここから旧道に入ると、郵便局の右奥に大岡忠相邸跡がある。この郵便局の150mほど先には、左手に見事な一里塚がある。大平の一里塚と言って居る。ここからは、インターチェンジで様変わりした面白くもない道を歩くことになるが、筋違橋から斜めに入り、市民病院の通りに出て右折、そして病院の角を左折して岡崎城の城下町でもある岡崎宿に入って行く。この宿の道の曲折は二十七曲がりともいわれるほど、右折、左折を繰り返し、城の防衛のためわざわざ分かりにくく不便にして居る。市ではその曲がり角ごとに案内表示を立てて居るので、たどることは出来る。しかし戦災を受けたため昔の建物は何も残って居ない。ただ表示で昔の本陣跡、脇本陣跡などと知るのみである。なお、魚町の大林寺には、徳川家康の祖父清康、父広忠の墓がある。ここから名鉄東岡崎駅まで歩いても遠くはないが、バスが頻繁に出て居る。

☆行程 
名鉄国府駅→御油→赤坂→本宿→藤川→岡崎宿→名鉄東岡崎駅  約22km,7時間

☆地図 
国土地理院 5万分の1 御油、岡崎
昭文社   エリアマップ 豊川市、岡崎市



 

目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]