(15)二川、豊橋、三河国府付近の旧道   二川→吉田(豊橋)→瓜郷→三河国府

 二川から豊橋まで旧道はかなり残って居る。豊橋市街は戦災で古い建物は少なく、道も拡がり旧道歩きは難しいが、豊川を渡り、そこからは三河国府の手前までかなりの区間、旧道が残って居る。
 二川駅から先旧道は宿をはずれるが、やがて道は二つに分かれる。右が旧東海道、左が岩屋観音への道である。岩屋観音は東海道名所図絵に「亀見山窟堂(きけんざん、いわやどう)と号す」とあり、本尊は行基作とされる千手観音、「初は窟に安ず。」とあるように窟内に観音堂があった。また「大巌、堂後にあり、高さ八丈、幅廿丈余、岩形亀に似たり。故に山号とす」とあり、さらに「岩頭に銅像の正観音を安ず。明和2年(1765)江戸谷中より寄進す。遠境より鮮にみゆる]とあるが、この正観音は当時9尺6寸(2.9m)の大きな像が大巌の頂に立って居た。戦時中金属供出で失われた。今の像は昭和25年(1950)に再建したものである。このあたり自然の公園にもなって居て訪れる価値はある。
 旧道に戻りしばらく行くと飯村(いむれ)の殿田橋で国道1号線に合し、やがて瓦町通りになる。いわゆる「三州瓦」の生産の中心で、上質の屋根瓦として全国的に有名である。 豊橋は前述のように戦災で、古い市街はあらかた焼失し、戦後、都市計画によって復興したので、昔の吉田宿の雰囲気を忍ぶのは難しい。旧道としては、瓦町から先、西新町の交差点を左折し、すぐ右折。宿場町特有の鉤の手の道になって居る。今電話局のあたりが昔の問屋場跡、そして大通り越えたあたりに本陣があったという。昔の吉田宿の中心だった所だが、今も豊橋市の中心街である。ここから上伝馬町を右折し、湊町で左折、神明社の横を通って豊川の橋を渡る。当時の橋の位置は今の「豊橋」が架かって居る所より100mほど下流にあったといわれ、「大橋百廿間」(約220m)といわれる程の大橋であった。
 ここはまた城下町で、吉田城といわれ、今川氏親が築城したのが始めとされ、戦国末期には今川、松平の争奪の地となり、江戸時代には譜代大名が城主となり何回も交替して居る。この城址は今豊橋公園になって居る。
 旧道としては、今の「豊橋」を渡り、ここから三河国府の手前まで国道1号線にほぼ平行して、かなり長い区間残って居る。橋を渡り、豊川沿いの道を歩く。このあたり下地、聖眼寺という寺がある。山門前に「寺内に芭蕉塚有 宝暦四甲戌二月十二日 東都花傘宣来」の標石が立つ。(宝暦4年は1754年)境内には芭蕉句碑があり、
 「ごを焼いて手拭あぶる寒さ哉」とある。
 この先が瓜郷町で瓜郷遺跡がある。弥生時代中期から後期にかけての集落跡で、一部を遺跡公園として残して居る。なお、この近くで旧道は小さな橋を渡るが、江川といい橋の名を「しかすがの橋」という。昔、渡しがあったところといわれ、清少納言の枕草紙に「渡しはしかすかの渡し……」とあり、赤染衛門などの歌人が歌枕に詠んで居る。戦後、豊川放水路ができ、区画整理が行われたので、その昔の風景を想像するのは難しい。今この旧道のこのあたりは、街道沿いに出来た食糧センターに出入りするトラックで混みあって居る。
 放水路を渡って小坂井の町に入ると莵足神社がある。延喜式内の古い神社で、社叢も繁りいい神社である。だが前に広い道ができあたりが開発中なので、静かな景観はいつまでもつだろうか。ここには弁慶が書いたと伝えられる古い大般若心経が残されて居る。飯田線の踏み切りを越すと、もとの「宿村」で茶屋本陣があった。この加藤家の跡は今駐車場になっており、その隅にその表示と、芭蕉、烏巣の句碑が残されて居る。なお烏巣はこの茶屋の主人で俳人であった。芭蕉の句碑には
 「かくさぬぞ 宿は菜汁に とうがらし」とある。
 そして佐奈川を渡ると小田淵で豊川市に入る。この先は田んぼの中の道だが、名鉄の線路を渡る陸橋のところで旧道は途切れる。しばらく国道を歩き、国府の農協の前から再び左へ旧道が別れて行く。間もなく名鉄国府駅前からの道と交差する。
 この地国府のあたりは古くからひらけた所で、昔の「穂の国」の中心であった。律令制後他の地域と合併して「三河国」となり、三河国府が置かれ、国分寺、国分尼寺も建てられ、総社も造られた。また10kmほど東の一の宮町には、延喜式内の古社で三河一の宮でもある「砥鹿神社」がある。


☆行程 
A.二川駅→岩屋観音→飯村→旧吉田宿→豊橋駅  約7km,2時間
B.豊橋駅→瓜郷→しかすがの橋→宿村→三河国府 約10km,3時間

☆地図 
昭文社 エリアマップ  豊橋市、豊川市


 

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