(14)新居関から潮見坂を経て三河へ 舞阪→弁天島…新居→潮見坂→白須賀→二川
このコースは旧道が比較的多く残っていて昔の旅が忍べる上、車が少ないので歩きやすい。新居関へはJR新居町駅で降りる。約10分ほど歩くと関所跡がある。私はここへ三度来て居るが来るたびに変わって居る。始め30年前に来た時は、民家の間に関所の建物の一部が残って居たが、二度目の時にはそれが朽ち果てて見捨てられた感じであった。このたび訪れた時は「新居関所跡」として修理復元され、資料館もでき、あたりは公園のように整備されて居た。観光バスも何台も来て居て、観光の名所に変わって居るようだ。この関所は、箱根と同じように「入り鉄砲に出女」の取り締まりが厳しかった所で、当時はすぐ南は遠州灘の海、すぐ北は浜名湖で、ここを通るより仕方がない地点だから、関所としては絶好の位置にあったといえる。関所跡へ至るまでに小さな橋を渡るが、これが浜名橋である。清少納言の枕草紙(10世紀末)に「橋は……浜名の橋……」云々とある所で、室町時代以前は浜名湖は完全な淡水湖で、わずかに海への出入り口として浜名川があった。そこに平安時代の貞観4年(862)に架けられたのが、浜名の橋である。つまりこの橋ができて陸続きになった。清納言が特に取り上げたわけが判る。少し後の康平年間(1058~64)の作とされる更級日記には、
「……そのわたりして濱名の橋に着いたり。濱名の橋、下りし時は黒木をわたしたりし、この度は、跡だに見えねば、舟にてわたる。」 云々とあり、ちゃちな橋だったことが想像される。この橋のたもとに橋本駅が栄え、紀行文や道中記にも出て来る。鎌倉時代の紀行文である東関紀行には
「橋本といふ所につきぬれば、ききわたりしかひありて、けしきいと心すごし。南には潮海あり、漁舟波に浮かぶ、北には湖水あり人家つらなれり。………みずうみにわたせる橋を濱名となづく。古き名所なり。」
云々とあり、同時代の海道記の筆者は、ここ橋本に泊まって居る。
室町時代後期、地震や津波に幾度か襲われ被害に会うとともに、今切で大きな海への出入り口が出来、以来舞阪から新居まで舟で渡るようになって、宿場は新居の方に移った。但し今の橋は別のもので、当時の橋がどこにあったかは確認されて居ない。
舞阪の名が出たついでに言うと、ここにも旧道が1kmぐらい残って居る。新居町駅の二つ手前で降り、すぐ旧道に出る。ここ舞阪、長池の松並木は見事なもので、両側にずっと続く。珍しいもので旧東海道にこれだけのものはあまりない。この先が舞阪宿でひっそりとした町並があり、新居宿への渡船場の跡として当時の石垣や石畳が残って居る。ここから少し湖岸を歩いて、赤鳥居の先の弁天様を拝み、国道を渡るとJR弁天島駅である。 さて、新居関から先が元の新居宿で、間もなくT字路に突き当たる。旧東海道は左折、その角にあるのが、武兵衛宿、隣が八郎兵衛宿、いずれもここの元旅籠で本陣であったといわれて居る。古い家並みが続き、さらに以前は旅籠だったらしい家も何軒かある。やがて宿はずれになるが、一里塚跡と棒鼻跡がある。今はそれらしき物は何も残って居ない。「棒鼻」というのは、町のはずれに棒を立て悪鬼などの侵入を防ぐ呪いの一種で、その棒を立てた場所だということだが、私は現物を見たことがないのでこれ以上言及出来ない。この先国道に突き当たるが、そこに教恩寺という古い寺がある。このあたりが前に述べた、昔橋本の宿があった所で、色々な言い伝えが残って居る。ここから再び旧道、のどかな畑の中のいい道である。東新寺の近くに木の繁みがあり、「立場跡」の説明板があった。
古来歌、文学で名高い「高師の山」はこのあたり一帯の山をいい、旧道はその山裾を縫って行く。
「高師山はるかに見ゆるふじの根を 行くなる人に尋ねてぞしる」 民部卿為家(定家の子)
「朝風に湊をいづる友船は 高師の山のもみじなりけり」 西行
この先湖西市元白須賀にに入る。もと立場であり、宝永4年(1707)まで宿駅であった。この元白須賀のはずれに蔵法寺があり、この近くで戦死した今川氏親(義元の父)の墓がある。ここからが「潮見坂」で、途中二股に別れる所があり、どちらも坂の上に達することはできるが、左の細い方が旧道である。かなりの急坂を喘ぎ喘ぎ登りきった所に中学校があり、この手前からの眺めはまさに絶景である。「潮見坂」の名の通り、遠州灘の遥かに遠く太平洋のかなたから打ち寄せる浪と、潮の流れを鳥瞰することが出来る。先の為家の歌では富士山が見えたとして居るがここでは見えない。このあたりの山で今も富士山が見えるのかどうか私は知らない。
ここから白須賀宿、古い家並が少し残って居る。本陣は今美容院のあたりだというが何の面影もない。宿はずれの近くに古い家があり、もと旅籠の建物だという。その宿はずれに笠子神社がある。この先は国道1号線を歩くことになる。車の多い味気無い道だが、歩道があるので危険はない。やがて「境橋」。小さな橋だが、ここが遠江と三河の国境、つまり静岡、愛知の県境である。静岡県というのは実に長い県で、箱根峠で伊豆国に入って、三島の先で駿河に入り、大井川を渡り遠江に入った。そこから天竜川を越え、浜松、新居関、を経て潮見坂を登って来て、この境橋で静岡県を離れる。まさに「ようやく」という感じなのである。昔の道中案内の里程によれば、箱根から白須賀まで約45里で、1里を4kmとして180km,途中寄り道をしたので、静岡県だけで200kmも歩いた。この間9日もかかった。江戸時代の人は1日の行程10里、女、足弱でも6里は歩いたというから、5〜8日の行程である。
ここを歩いてみて、この三つの国のそれぞれにかなりの違いがあるのに気付いた。特に駿州、遠州の境は大井川だが、そこを越えると、自然、風土など何かが違うのである。昔の人の造った国分けのうまさには感心させられる。この点は歩いてみなければ実感できない。
境橋を渡ると、一里山という地名の所がある。ここは昔の立場で、国道の南側には一里塚の一部がこんもりと残って居る。そこから約3km,神鋼電機の所で右折、新幹線のガードをくぐり、東海道線の踏み切りを越える。これが旧道で、やがて二川宿になる。ここは昔のままの狭い道に家並みが続き、古い建物もかなり残って居る。「二川宿御本陣」の石の表示を立てた冠木門の建物は、元本陣、馬場家である。この宿のはずれにJR二川駅がある。なおこの本陣は最近修復された。
☆行程
A.新居駅→新居関→潮見坂→白須賀→二川宿→二川駅 約14km,4時間
B.舞阪駅→長池の松並木→舞阪宿→弁天島 約3km,1時間
☆地図
国土地理院 5万分の1 浜松、豊橋
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