(13)遠江国府の地から天竜を越して浜松へ   磐田→天竜川→浜松(→東伊場→二つ御堂)

 磐田駅前通りをを少し行くと、斜めに西へ行く道がある。これが旧道で、このあたりは昔中泉村であり、すぐもと立場だった大乗院村に入る。このはずれが今の西新町で、市役所からの広い通りと合したすぐ先が、磐田郡豊田町である。小さな川に架かる一言橋を渡る。このへんは宮の一色で所々に松並木が残り、宮の一色一里塚跡がある。この先二股があり、旧道は左へ行く。若宮八幡が右手にあり、このあたりひっそりとした町並である。この道は天竜川の土手で終わっている。昔はその先の河原から渡しがあった所である。広重の「見付」の絵はこの天竜川の渡しの場面を描いて居る。
 なお、ここから北へ1.5kmほど行くと池田という所がある。現在静かな農村だが鎌倉時代には宿駅として栄えた所である。東海道名所図絵には「いにしへは 天竜川の西岸にあり、古人の紀行多くは池田宿に泊まりて天竜川を渡ると書たり。後世川瀬変じて東岸となる」とあり、謡曲「熊野」(ゆや)のシテの女はこの池田の宿の者とされて居る。この題材は平家物語巻十の「海道下」による。本三位中将重衡が一の谷の合戦に平家が破れて生け捕りにされ、鎌倉へ送られる途上が「海道下」(かいどうくだり)の章だが、ここに
 「浜名の橋をわたり給へば、松の梢に風さえて、入江にさわぐ浪の音、さらでもたびは物うきに、心をつくすゆふまぐれ、池田の宿にもつき給ひぬ。彼宿の長者熊野が娘、侍従のもとに其夜は宿せられけり」とある。
その墓と伝えられるものが、行興寺にある。
 さてその土手を歩いて国道の天竜川橋を渡る。再び土手を300mほど下流へ歩き、土手を下りた河原が、対岸のもと渡し場だったあたりである。ここから旧道を行く。ここは中野町で、京、江戸のちょうど中間点であることから付いた地名だという。東海道中膝栗毛には「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京都へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」とある。
 間もなく安間橋を渡るが、こへんは昔、萱場(かやんば)といって居た所で、橋の手前に北へ行く道がある。「本坂越」という街道の分岐で別名「姫街道」ともいう。浜名湖を避けた街道で、気賀から三ケ日を通り、本坂越の峠を越えて三河国府に至る古道である。 国道1号線を越えて天竜川駅への十字路があるあたりが、昔の橋場(はしば)である。この先琵琶橋を渡った所に赤い鳥居がある。蒲神明宮の参道入り口になって居る。この神主は源頼朝の弟、範頼の末裔であると言われて居る。範頼は母は池田宿の女で蒲御厨(かんばのみくりや)で生まれたところから蒲冠者といわれ、幼き時藤原範季に養われ、兄頼朝の平家討伐の戦いに加わり、弟義經とともに戦功を挙げた、三河守任じられたが、「狡兎死して走狗煮らる」のたとえ通り、義經が討たれて後、讒により伊豆修善寺に幽閉され建久4年(1853)殺された。平家が檀の浦に沈んでから八年後のことである。現在天竜川の東側にある池田は当時西側にありこのあたり一帯を蒲(かんば)といっていたようで、本坂越えが分岐する萱場(かやんば)はその一部、或は蒲(かんば)が訛ったものとも考えられる。
 馬込川に架かる馬込橋を渡ると、もと浜松の宿で新町から西へ進み、連尺町で左折、伝馬町、旅籠町、を経て今の菅原町で宿は終わる。戦災であらかたの建物が焼失し、大通りに拡張されたので、昔の宿を偲ぶものは何物もない。現、西武デパートのあたりはもと本陣梅屋だった所でその表示が立って居る。この本陣梅屋に養子に入った人に有名な賀茂真淵が居る。浜松宿のはずれ東伊場の賀茂神社の神官の家に、元禄10年3月(1697)生まれ、京に上り荷田春満に師事し国学を学び、浜松に帰って遠州国学の中心としてひろく神官、町人、地主層の支持を受けた。後江戸に行き国学を研究した。真淵は国学を学問的に深め、それを普及させるのに大きな貢献をした。それが本居宣長に受け継がれる。現在、東伊場に賀茂神社があり、その先の丘の上に「県居神社」がある。創立は天保10年(1839)浜松藩主水野忠邦をはじめその門弟たちによって造られたのが始めで、県居(あがたい)というのは彼の号による。なお墓は江戸品川、東海寺の墓地にあることは前に述べた。
この近くにJR浜松工場があるが、その奥に「伊場遺跡」がある。弥生後期のものが主だが数次の発掘調査で、縄文中期の石器や、奈良時代の木簡、平安時代の絵馬などが発見され、かなり長い時代にわたる遺跡であることが判って居る。現在一部が復元され保存も行われて居る。
 旧道としては、菅原町の先も続いており、東若林には「二つ御堂」なるものがある。道路を隔てて小さなお堂が相対して建って居る。東海道名所図絵には、「若林二つ堂」として「むかし奥州伊達秀衡の室上京の時、ここに建立す。本尊弥陀、薬師の二仏、長二尺五寸ばかりなり」とある。ここでいう奥州伊達は、時代のもっと古い奥州藤原氏と思われるが、これにちなむ別の言い伝えもある。
 この先、道は現在国道257線で車の往来が激しく歩行には適さない。


☆行程 
A.磐田駅→天竜川(中野町)→浜松本陣跡→浜松駅 約12km,3時間半
B.浜松本陣跡→賀茂神社→伊場遺跡→二つ御堂→浜松駅 約5km,1時間半

☆地図 
昭文社 エリアマップ  磐田市、浜松市


 

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