(8)蒲原から興津へ・薩タ峠越え
  富士川駅→岩渕→蒲原→由比→薩タ峠→興津川→興津→清見寺

 薩タ峠は古来、東海道の難所の一つであった。岩場の波打ち際を歩き、或は断崖の細い道をたどった。現在でも交通の大動脈が4つ、つまり2つの道路〜国道1号線、東名高速道路、2つの鉄道〜東海道線、東海道新幹線は、この地点を折り重なるようにして通過して居る。
 この区間の旧道は富士川の橋から岩渕の町を通り、蒲原を経て由比まで続いて居る。その先、国道区間を歩き、倉沢から再び旧道が別れ、みかん畑の山道を上ったところが薩タ峠で、山あいの林の中の道を下りて興津川で終わって居る。この旧道の区間は車の往来が少ない上、静かなたたずまいの町並なので、歩行にはよい区間である。
 東海道線の富士川駅は、もと岩渕駅といっていたところだが、この駅で降り国道1号線を渡り、坂道を上ると旧道に当たる。真っすぐに行けば富士川の橋、左へ行けば蒲原への道である。ここから500mほど戻ると、小学校がある。この角に一里塚が榎の大木とともに残って居る。このあたりは古い町並が続き、下り坂をおりた所が富士川の堤で、昔の富士川の渡しの跡である。
 この区間は元禄の頃、大津波で下の道が不通になったので、山の裾の高い所を迂回するように新たにつくられたルートであった。もとの道は今の国道1号線のあたりを通っていたものと推定されて居る。
 さて、出発点に戻り、蒲原への旧道をたどる。東名高速道路のガードをくぐり、由緒のありそうな宇多利神社の参道を右に見て、小さな峠を越す。再び高速道路を橋で越し、坂を下りた所が諏訪町で、諏訪神社がある。ここからが蒲原宿。小川を渡った所に昔一里塚があったというが、今、その跡は残っていない。町並は静かで昔の建物はあまりないが古い宿場の名残が漂って居る。本町に蒲原本陣跡があり、古い土蔵、大名の駕籠をおろしたという大きな平石が庭に残って居るという 。
 広重の蒲原の絵は「夜の雪」の街道の模様を描いて居る傑作の一つとされて居るが、ここは昔からめったに雪は降らないしましてや積もることはないという。珍しいことなので画の題材にしたのだろうか。その上、風景が私の通過した時の所見とも全く合致しない。どのへんを題材にして描いたのだろうか。
 旧道はこの先400mほど行き、西町で南へ折れて行くが、その角を反対に入った奥に若宮神社がある。徳川家康が織田信長接待のため建てた御殿跡だといわれている。旧道は南へ折れて再び右に曲がり、国道1号線と合する。蒲原宿はここで終わる。この先30分ほど国道を行くと高速道路の下に出る。ここから旧道が左へ分かれる。神沢川橋という小さな橋を渡ると由比の町である。ここも静かな町並がつづくが、左側に「由比正雪生家」の表示がある。慶安の頃、倒幕を企てた首謀者とされている由比正雪が生まれた家である。代々紺屋を営んでいた家だという。その反対側が由比本陣だった家で、そこに県指定天然記念物になって居る見事な松が残って居る。
 由比川を渡ると町屋原で、浜辺は今東名高速道路が走っていて狭くなり遠望がきかないが、昔は塩釜(海水を煮詰めて塩をとる釜)が多くあった所である。右手に参道があり奥に古社、豊積神社がある。式内社で、東海道名所図会には「鳥居より社前まで桜多し、祭神木花開耶姫命」で「むかし天武天皇御宇勧請、其後大同元年(806)坂上田村将軍東夷征伐の祈願として再興」と説明して居る。今は社殿も小さく境内も狭い。前出の「ウタリ神社」とこの「トヨツミ神社」の名称が私には気になる。神社の名称は明治以後変更されたものが多いので、名称だけでは古い由緒をたどることはできないが、昔からの名称だとすると、これからかなりの史実を探ることができそうである。
 由比駅の手前で国道と交差し、山裾の旧道は東倉沢を経て西倉沢の部落を通る。ここは昔、立場だった所で、当時の雰囲気を残す家がかなり見られ、古いたたずまいをのこして居る。薩タ峠へはこの旧道からは、直接行けない。一旦国道に下りてしばらく行き、薩タ峠入り口の表示のある細い道を上って行く。急な斜面のみかん畑の中に幾筋もの細い道があり、かなり迷うが、峠上と思われる所を越えて右へ下ると谷あいの暗い坂道になる。そこを下る途中に「日本武尊駒の爪跡」なる表示があった。尊が東征された時この道を通られたということなのだろう。伝説としても古くからあったルートだともいえる。ここからはもとの旧道は高速道路のため消滅してしまい、高速道路に沿って細い道を下りて行くしかない。下りた所が興津川の堤である。
 薩タ峠越えは三つのルートがあったといわれて居る。即ち、一番海岸沿いの今国道1号線が通っているあたりの磯浜つたいの道、親知らず子知らずの難所といわれた。これを下道といい、私が越えた道は上道といった。中道はこの上道の途中、みかん畑の崖の中途から分かれて海岸へ出る道だが、どこを通っていたか今ではわからなくなって居る。結局、薩タ峠越えの旧道は上道が残って居るだけだが、それも興津川の堤までである。その先は興津川の堤の下の道を通って浜に出る。この浜に出たあたりが東興津で袖師ケ浦といわれたところ。そこに短い区間だが旧道が残って居る。
 興津川を渡るとすぐ国道1号線に合する。国道52号線が右へ分かれ、そして旧身延道の分かれ道になる。このあたりから元の興津宿である。興津の町には別にバイパスに出来たので、車の通行はいくらか少なくなり、歩行には危険はなくなった。今、公民館となっている所が、元の問屋場跡、そのそばにもと本陣跡がある。町並はずっと続くが、右手に「清見寺」がある。山門の前に「清見関旧跡」の碑が立って居る。昔は海辺で清見ケ崎、あるいは清見潟といわれたところ。清見関は平安時代に置かれた関で、十六夜日記、東関紀行などに出て来るが、江戸時代の東海道名所記には「清見が関、風景まことにたぐひなく、眺望ひとへにあまりあり」云々とあり、「清見潟関にとまらで行舟は 嵐のさそふ木の葉成りけり」の千載集、大納言実房の歌を載せ「此関いにしへ眺望の所とて名を得たりけるが、今は関の戸も跡たへててなし」と記してあり、江戸時代には廃絶して居たことがわかる。
 山門をくぐり、鉄道線路でへだてられた参道を行く。境内左手に、五百羅漢が並び、利生塔旧跡の碑がある。これは足利尊氏が康永4年(1345)に戦没者の慰霊のため、全国66ケ所に建立を発願した利生塔のあとだという。また徳川家康が幼少の頃、今川氏に人質になって駿府におりこの寺を訪れた時の「手習の間」などがある。境内はよく整備され、いい寺である。
 この先、旧道部分が残っているところがあるが、区間としては短いので、この旧道歩きとしては、ここ清見寺を終点とし、興津駅まで引き返す。(バスの便もある)なお時間の関係などで興津町を割愛するなら、前述の薩タ峠を下りて来て、興津川の堤にあたるが、そこから真っすぐに行って橋を渡る。すぐに国道52号線になるが、右折すれば東名高速道路の高速興津バス停がある。そこから戻るのも便利がよい。

☆行程 
A.富士川駅→蒲原→由比→薩タ峠→興津川堤→東名興津バス停 14km,5時間
B.富士川駅→岩渕→富士川橋  往復5km,1時間半
C.興津川堤→東興津→興津町→清見寺→興津駅  6km,1時間半

☆地図 
国土地理院 1/5万 吉原  

 

目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]