(7)富士の裾野の旧東海道
三島駅→沼津→原→元吉原→吉原駅(→吉原本町→柚木)
三島から富士を右に眺めながら吉原、蒲原までの道は風景明媚で、古来、歌にも詠まれ、紀行文にも書かれて来た。しかしながら、現在この道を歩こうとすると、かなりの忍耐がいる。開発が著しく進み、工場が多く、産業活動が盛んなため、旧道はかなり残って居るけれども、車の往来が激しく、しかも工場などの煤煙で埃っぽく、のんびりとした散策というわけにはいかないからである
旧道は三島広小路の先から黄瀬川の先まで、沼津市の間門橋(まかど)のあたりから原を経て富士市の東柏原(東田子の浦)まで、そして同市大野新田(元吉原)から旧吉原市街地を通り柚木までの、断続的だが長い区間がある。
伊豆箱根鉄道三島広小路駅から西へ行く道が2本ある。左の道が旧道である。この右手線路沿いに「伊豆国分寺跡」がある。旧蓮行寺(現在は国分寺と称して居る)の境内を含む一帯がそれで、発掘調査も行われ金堂跡、僧房跡などが確認されて居るが、今はこの寺の本堂の裏に礎石の一部があるだけである。
10分程行くと「千貫樋」がある。そばに立って居る説明板によると、この樋の長さは42.7m,深さ45cmで、天文24年(1555)今川、武田、北条三家の和睦が成立した時、北条氏康から今川氏真に引出物として、丸池から長い堤を築きその水を今川領である駿河に疎通させたとある。この疎水により現清水町内の耕地150町歩が多大な恩恵を受けたが、関東大震災で木樋が壊れ今のコンクリート製に改造された。
この千貫樋は小さな川を渡って居る。旧道もその小川を渡る。この小川は伊豆と駿河の国境である。現在は三島市と駿東郡清水町との境になって居る。ここから1km程歩いた所に、両側に一里塚が残って居る。右側は玉井寺、左側は宝池寺の境内にあり、わりと原形が保たれて居る。このあたりには寺が多い。
国道1号線と交差し、しばらく行くと、右手奥にあるのが長沢八幡宮。東海道名所図会に「頼朝、義経初対顔地ー黄瀬川の東長沢村八幡宮の社地なり」とあり、治承4年(1180)富士川の戦いを前にして初めて奥州からかけつけた義経と兄頼朝が会った所で、この対面の時の腰掛け石と伝えられるものが、八幡宮の裏、国道1号線の近くにある。
この先しばらく行くと黄瀬川の橋を渡る。ここからの富士山の眺めは絶佳である。橋のかたわらに小社があり智方神社という。江戸時代の道中案内記には「明神あり」と記してある。この川から先は沼津市で、やがて右側に潮音寺がある。ここにはもと黄瀬川近くの観音寺にあった亀鶴観音がある。これは東海道名所図会に「白拍子亀鶴は建久の頃の風流女にして、富士の牧狩の狩場の屋形に来り工藤祐経と同席に臥したる事、曽我物語に見えたり」との記事があり、その姿を観音像にしたものと伝えられて居る。この先、旧国道に合する。ここに一里塚跡がある。国道1号線は別のルートを通って居るが、道は広く車が多い。沼津市内の観光が目的なら、ここから大手町、浅間町を経て旧沼津城址、千本松の海岸などを歩くことになるが、これらについては説明を省略する。
沼津市街のはずれ、間門(まかど)から旧道の町並が続く。ほとんど真っすぐな道である。右手に馬門八幡があり、すぐ小諏訪になり、諏訪神社がある。この道の海岸寄りに国道が並行して走って居るが、それを越えると松原が続いて居る。かなりの幅と長さがある緑の帯だが、肝心の浜はコンクリートの高い防波堤に遮られて、白砂青松という景観は著しく害されて居る。それでもこの浜から見る雄大な富士の姿には感激させられる。この富士を見ながら歩くつもりなら、浜づたいに防波堤上か、松原のあたりかを行くのもよい。かなりの長い区間なので、自分の一番好きな地点で富士を眺めることができる。
旧道は鉄道の踏み切りを越えると原の町になる。もとの原の宿だが、本陣など古い建物は残って居ない。だが町並は昔の面影を残し、静かなたたずまいである。宿の規模としては小さい方で、旅籠25軒、人別、男950、女980、計1930で、隣の沼津の1/3にもならない。なおここには白隠和尚で知られた松陰寺が街道から奥まった所にある。 この先再び鉄道線路を越える。そのすぐ先が富士市である。このあたりは昔は浮島ケ原といい沼沢地であった。広重の「原」の絵は、富士を背景にしたその景色が描かれて居る。今は田んぼや畑、そして工場などが立って居る。
この海岸は前述した松原の続きで、富士川を越えて田子の浦につながる。古来風光明媚な浜として有名で歌などに多く詠まれて来た。今は紙工場のヘドロ、護岸の防波堤と、テトラポットで見る影もないが、富士だけを見上げる遠景はなかなかのものである。この先、旧国道と一緒になり車の往来が激しくなるが、東田子の浦駅のあたりから昔の柏原の立場となる。この地は鰻がとれ蒲焼きが有名であったという。東海道中膝栗毛では「新田といへる建場にいたる」とあり「ここはうなぎの名物にて、家ごとにあふぎたつるかば焼きの匂いにふたりは鼻のさきをひこつかせて"蒲焼のにほひを嗅ぐもうとましや こちらふたりはうなんぎのたび"」という狂歌を載せて居る。新田というのは、柏原の先旧道が旧国道と分かれるあたり、現、大野新田である。
この先旧道を行くと昔の元吉原、現、今井である。左側に元吉原小学校がある。古くはここに宿場があり、吉原といったが、天和2年(1682)今の吉原の地に移ったものだという。ここにある妙法寺の毘沙門天は正月だるまで賑わう所だが、寺なのに鳥居がある。線路を越え少し行くとJR吉原駅がある。そこを過ぎ橋を渡り、新幹線のガードをくぐった先が「左富士」。東海道を京へ上る時、富士山はどこでも右手に見えるが、ここだけは左に見えるのでその名がある。しかし現在は、工場街の真ん中で、車の往来が激しく風景を楽しむ余裕はない。しかも肝腎の富士の山さえ、一ケ所だけ見える所があるそうだが、工場の建物の陰に隠れて見えもしない。
ここから製紙工場特有の臭いと紛塵、それと車の排気ガス。それに耐えつつもとの吉原宿であった吉原の旧市街を行くことになる。旧道は拡張され古い建物は何も残って居ないが、岳南鉄道、本吉原駅の先から中央町にかけてが、昔の吉原宿である。宿場の道は鈎形に何回も左折、右折をくりかえしながら、市街を出、富安橋を渡って行く。
国道と交差するあたりが、本市場でもとの立場。平垣を経て柚木に至り、国道と合する地点に身延線のガード、柚木駅がある。この先、富士川まで一部旧道があるが、国道を行くことになる。富士川橋の手前に水神社がある。そのあたりが江戸時代の渡し場だったという。しかし富士川は周知のように、暴れ川で、流れがしばしば変わったので、渡し場がそこにずっと固定してあったとは考えられない。
☆行程
A.三島駅→広小路→黄瀬川橋→一里塚跡→沼津駅 およそ7.5km,2時間
B.沼津間門→原→柏原→元吉原→吉原駅 およそ 15.5km,4時間半
C.元吉原→左富士→吉原本町→本市場→柚木駅 およそ8km、 2時間
☆地図
昭文社 エリアマップ 三島市、沼津市、富士市
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