(6)箱根越え(その2)   箱根関跡→箱根峠→山中城址→三島大社

 箱根関跡から箱根峠を越えて三島までの道は、峠までの上り道が若干あるが、あとは下り坂の楽なコースである。また石畳みの道もかなり残っており、旧道区間が残っているところが多い。ただ箱根峠のあたりと、山中の先、三ツ谷のあたりを車の多い車道を歩かねばならないのが難点だ。またここを歩く人は少ないようで、私は単独で3度歩いているが、1人のハイカーにも出会わなかった。ガムや飴の包み紙が草むらの中に捨てられているところを見ると、歩いている人はないことはないようだ。それだけに鬱蒼とした山道、一応草刈りはしてあるが、丈を越す草の中や、林の中を抜ける道など、歩くには魅力は十分過ぎるほどある。
 箱根関跡へは湯本からバスがわりと頻繁にある。熱海からのバス便もある。ここを出発してすぐ右にあるのが箱根ホテル。元の本陣「はふや」の跡で、その楓の大木が今も残って居る。この先大観山へ行く道が左に別れ、すぐ道は二股になる。右へ行くのが旧道である。その旧道を少し行くと、左手奥に駒形神社がある。そして道は再び二股になる。左が旧道だが別れ口に「箱根旧街道」の表示があり、多数の石仏が置かれて居る。右へ行く道は湖岸を湖尻まで行く道で、車は途中までしか行けない。あとは歩くしかないので、ハイキングコースとしては絶好である。私は秋10月下旬に歩いたことがあるが、素晴らしい紅葉と湖岸の景色を満喫した。是非この時期に歩かれることをすすめたい。箱根関跡から湖尻を経て桃源台まで約9km,2時間半である
 石仏群の置かれて居る所から先、石畳みの道が続く。石の間から草が生え、苔がむし、古めかしい感じは畑宿からの石畳道よりも強い。20分も行くと国道に突き当たる。左へ行く。箱根新道の入り口を過ぎた所が箱根峠上。旧道の峠はもっと上の鞍掛ゴルフ場への道の途中にあったという。バス停、ガソリンスタンドなどがある所はちょっとした広場になって居るが、その先右へ行く道がある。舗装され広く立派な道になり芦ノ湖ゴルフ場の進入口のようになって居るが、れっきとした元東海道である。500mほど行くと左へ降りて行く道がある。これが「ばらが平」といわれる道で、江戸時代中期の東海道巡覽記には「ばらが平、いにしえよりいばらの多くありし故に名とするよし」とある。今井本では「今でも夏は草が多くどこが旧道だかわからず通行が難しい」とあるが、現在、途中陥没箇所があるということで、三島市では通行禁止にして居る。そこで箱根峠まで戻って国道を迂回することになる。車の往来の激しい道なので極めて憂鬱だがそう長い距離ではない。15分ほど歩くと前述の旧道の上り口がある。勿論ここにも通行禁止の立て札が立って居る。
 この先に山中城址入り口の道標があり、旧道に入る。このあたりは函南町で旧道の保存には力を入れて居るようだ。表示もしっかりしており、草もよく刈ってある。「甲石」というのがあり、豊臣秀吉が小田原攻めの時、彼の兜を置いたのでその名がついて居るのだという。このへんは石畳みの道、両側に山つつじがずっと続く。歩くには快適な所である。15分も歩くと「大枯木坂」の標示板があり、山中農場になる。すぐ国道でそれを越え急坂を下る。やがて緩やかな坂道になり、「小枯木坂」という表示があった。石畳み道と杉並木が続く。この取り合わせもまたよい。元箱根の杉並木程壮大ではないが、観光化されず、ひとけのない静かな杉木立の間を歩くのもいいものである。この間10分くらい。やがて国道に当たるが、その手前に「雲助徳利墓」というのがあった。由緒があると思われるが、説明板もなく私の持って居る資料には記載がないのでわからない。
 国道を渡った所にあるのが駒形神社、その隣が山中城址である。ここは秀吉の小田原攻略に備えて、北条氏が堅固な城をつくったが、秀吉軍の鉄砲隊のため一夜にして落城したと伝えられて居る。今、本丸、二の丸、櫓などの跡に表示が立ち、整備されて公園のようになって居る。この国道沿いに宗閑寺があり、この時の戦いで討ち死にした将兵の墓がある。10分ほど国道を歩くと左に旧道が別れる。その左手にあるのが岱崎出丸跡で北条氏の出城の一つであった。このあと国道と何回か交差しながら旧道は下る。そのうち国道から右へ入って行く区間が上長坂。この入り口は二股になって居るので迷うが、細い舗装されて居ない左の道が旧道である。再び国道と交差しラブホテルの横を入って行く坂道が、下長坂である。ここにも石畳みの道が完全な形で残って居る。かなり下った所に、左に小高い所があり杉の大木が茂る。「笹原一里塚」の跡である。道より離れ、上にあるのが気になる。古い道はそこを通過して居たのだろうか。右側の一里塚が残って居ないので昔の状況はわからない。
 国道をこえると笹原の集落。細い坂道の両側に家が並ぶ。この道は途中までしか車が通れない。あとは細い草道になる。「こはめし坂」といわれて居る所である。このあたりになると大分標高が低くなって居るのか田んぼが見えて来る。やがて国道に合する。三ツ谷新田で松雲寺がある。この先、国道と旧道とを交互に歩くことになる。市山新田を過ぎ塚山新田の旧道に入り古い家並みを抜けると再び国道の坂道。この国道は間もなく上下に分かれた広い松並木の道になる。その両側に一里塚が残って居る。これが江戸から28番目の「錦田一里塚」である。松並木の下が歩道になって居て、国道としては古い松並木を残すのに珍しくいい設計をしたものである。この松並木が終わるあたりから旧道が右へ別れる。分岐点のそばにあるのが「備前繁墓」。この先細い坂道になって居る。愛宕坂という。東海道線の踏み切りを越えて愛宕橋を渡ると、左からの旧国道と合う。現在バイパスが別ルートにできて居るため、この道は車はそう多くない。道はやがて新町橋を渡る。その手前左へ入った所に「宝鏡院」がある。ここに鎌倉公方というより堀越公方であった足利政知の墓がある。
 新町橋を渡るとすぐ右手に東の見付があった。今は何も残っていないが、ここから三島大社を経て広小路の先の西の見付までが三島の宿で、かなりの長い区間である。当時の資料によると、宿内、総家数1025軒、内、本陣2、脇本陣3、旅籠74、人別、男1930人、女2120人、計4050人という大きな規模である。
 宿の中程にあるのが三島大社で、街道に面して大きな鳥居があり、広重の「三島」の絵もこの鳥居の前を、駕篭と、馬そして徒ちで行く旅人を描いて居る。今、その鳥居の前をバスと自動車の列、そして狭い歩道を歩行者が行く。三島大社の由緒は伊予国大三島の三島明神を、始め伊豆下田へ、後この地へ勧請したものといい、瀬戸内海の人々との結び付きを思わせる。
 この地は古くは伊豆の国府であり、鎌倉時代の紀行文である東関紀行には「伊豆の国府にいたりぬれば、三島の社のみしめ、うちをがみ奉るに松の嵐、木ぐらくおとづれて庭の気色も神さびわたれり。この社は伊予の国三島大明神をうつし奉ると聞く」とあり、三島明神の鳥居下町として有名になり、三島という名になったとされて居る。
 現在三島の町には本陣など古い建物は何も残っていない。三島大社から三島駅へ行く途中にある「楽寿園」は是非見ておきたい。元小松宮の別邸で廻遊式の庭園だが、富士の白雪がとけて地下水となり、この池に涌き水となって出て居る。ここは一見の価値がある。

☆行程 
箱根関跡→箱根峠上→山中城址→椿田一里塚→三島大社→三島駅  約14km, 5時間

☆地図  
人文社 広域都市地図 小田原・箱根      
昭文社 エリアマップ 三島市

 

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