(4)大磯までの旧道と松並木   藤沢市内、大磯付近の旧道と松並木、そして戸塚、茅ヶ崎の松並木

 神奈川県下に旧道が残って居るのは、前述の鶴見のあたり、神奈川から品濃坂のあたりまでの他に、藤沢市内と大磯から二宮にかけてのあたりである。あとは後述するが、箱根畑宿の付近、畑宿から箱根関跡の区間そして箱根関跡から箱根峠までの区間しかない。
 藤沢市内の旧道はかなり長い区間残って居る。遊行寺の坂を下りきり、境川の橋を渡るとすぐ十字路がある。ここを右折する。道はかなり広く、古い建物は何も残っていないが、道筋としては昔の街道そのままである。安藤広重、東海道五十三次「藤沢」の絵は、先に越えた境川の藤沢橋のあたりを描いて居る。後ろの丘に遊行寺、その下の家々、そして手前に鳥居がある。多分、江ノ島弁天の鳥居と思われる。ここは近世、江ノ島弁天への道の分岐点であり、また橋の手前には鎌倉への道があった。今も小路として一部残って居る。そしてこの先辻堂からは、大山、伊勢原街道が分かれて居る。
 従って藤沢の宿は東海道、江戸と京、大阪、伊勢の往来の人々の他に、江ノ島、鎌倉や大山参りの旅人で大いに賑わって居た。ちなみに江戸時代の資料によると、宿内総家数920軒、うち本陣1、脇本陣1、旅籠45、宿内人別、男2046人、女2057人、計4103人で東海道では神奈川、小田原についで規模が大きい。旅籠には多くの飯盛り女を抱え享楽地としても賑わった。これら飯盛り女の墓は旧道から少し入った永勝寺に四十数基も残って居る。本陣跡は現在何の痕跡もないが、藤沢1丁目のホンダ販売店のあたりだといわれており、その前に「蒔田本陣跡」の表示が立って居る。旧道はこの先引地川を渡り、四ツ谷まで続き国道バイパスに合する。この道は車があまり多くないので煩わしくない。
 旧道区間ではないが、昔の松並木が一部残っているところは何カ所かある。 戸塚の大坂上、車道の真ん中に区分帯のような形で松並木の一部が残って居る。約500mくらい。新しく植えられた松が殆どで、緑地になって居り、以前はそこを歩行できたが現状では無理である。
 原宿の交差点は、車が渋滞するので有名だが、その先200mほどまばらだが松並木が続く。
 藤沢に入る手前バイパスと別れ江ノ島方面への道を行くと、遊行寺に至る坂になるが、ここにも松並木がある。枯れてまばらになって居るが、ここのは大きく古い木である。
 辻堂を越え大山街道を分岐した先はすぐ茅ヶ崎市になるが、赤松町、小和田のあたりに、断続的だが松並木が残って居る。ここのも古い木が多く、虫害や車の排気ガスに堪えてよく生き延びて来たという感じで、松並木としては風格がある。
 平塚市と大磯町の境界は花水川だが、河川改修で現在はバイパスと旧道が会う地点を「古花水」といい、ここから大磯町になって居る。広重の東海道五十三次「平塚」の絵はこのあたりを描いたものと思われ、風景は全く変わって居るとしても、前に見える「高麗山」の姿はこの絵そのままである。花水川を渡り、花水のバス停のあたりが「高麗」の集落で、山裾にある神社が「高来神社」(たかくじんじゃ)。由緒は古く、神功皇后の三韓征伐から帰国後、武内宿祢の奏請により高麗大神、和光を勧請したのがはじめという。一方、別の説がある。高句麗が滅びその王族、若光の一行が日本に逃れて来てこの地に上陸し、その一族を祀ったのがはじめだとも伝えられて居る。若光はその後武蔵国高麗郷に移住した。現在埼玉県飯能市近くの高麗の集落に聖天院、高麗神社があり、そこに祀られて居る。なお、高来神社の境内に慶覚院があり、建治4年(1278)の銘がある地蔵菩薩像が安置されて居る。
 この先が「化粧坂」(けはいさか)と呼ばれて居る所で、旧道部分がかなり残っており、その両側に松並木が茂る。この道は東海道線の複々線化工事で踏み切りがなくなり、分断されてしまった。現状はそこに住む住民の生活道路で、松の木の下は駐車している車でいっぱいになって居る。この車さえなければ昔の松並木そのままといってもよい。踏み切りで分断されて居るが松並木としては、古い大きな木が多くかなりの長い区間である。ただよく見ると踏み切り手前の並木は松よりも他の木、榎のほうが多い。大木なので昔からの木と思われる。
 松並木はこの先、大磯中学のあたりから滄浪園のへんまで見事なものが残って居る。
 大磯の町での旧道はこの他に、切り通し旧吉田邸の手前から右へ入る道があり本郷橋を渡り、国府新宿の交差点まで続いて居る。この国府新宿、本郷のあたりは昔「相模国府」があったところと言われて居る。相模の国府は時代によって何回か移動したようだ。現在、海老名市に国分寺跡があり、その付近に国府跡と見られて居る所がある。大化改新の前には、相模国は相武(さがむ)と師長(しなが)の2国があり、相武は今の海老名、大和のあたり、師長は平塚、大磯のあたりとされている。それが合併して相模国となり、国府は当初、海老名におかれた。元慶2年(878)大住郡に移り、平安時代末にこの地、国府本郷に移ってきたものと考えられて居る。国道を300mほど行くと右手に鳥居がある。ここから鉄道線路を越えて300mくらいの参道があり、その奥に六所神社が鎭坐して居る。境内も広く、社叢も茂る。相模の総社で、昔は柳田明神と呼ばれた。祭神は、稲田姫命、須佐之男命、大己貴命、崇神天皇の時代の創建という古社である。
 この地に「国府祭」というのがあり、古く「端午祭」といわれて今でも毎年5月5日に祭りが行われる。相模一の宮の寒川神社、二の宮の川匂神社、三の宮の比々田神社、四の宮の前鳥神社、及び平塚の八幡神社の神輿が神社の東北約1kmの神揃山に集まり、「座問答」という一の宮と二の宮の争いがあって、三の宮が仲裁する神事があり、ついで六所神社が加わって国司祭りが行われ、その後六所神社に五社の分霊がまつられる。起源は古く遠く奈良時代からといわれ、前述の相模国の統一からむ問題を反映して居るようで極めて興味深い。詳しくは、菱沼勇著「相模の古社」を参照されたい。
 なお二の宮、川匂神社はこの先二宮駅から2kmほど行って押切坂上を右折、約1km山側にはいった地にある。垂任天皇の頃、この地を支配した磯長(しなが)国造が創建したと伝えられ、延喜式内の古社である。
 この二宮駅付近と押切坂上のあたりには、部分的だが旧道が残って居る区間がある。二宮駅の先少し行った所が梅沢、この先右へ行く道があり「東海道の名残り」という小さな表示が立って居る。すぐ右に「吾妻神社」の鳥居がある。この神社は走り水で入水した弟橘媛命を祀る。坂道を下ると梅沢橋を渡り再び坂道を上って行く。この橋の下の川は現在暗渠になって居る。坂道を上ると藤で有名だった等覚院がある。別名藤巻寺というほど大きな藤の木があったと伝えられて居るが、今は境内に小さな藤棚があるだけである。すぐに国道に合するが、400mほどで左へ行く道がある。これが旧道である。この角に横断歩道橋があり、その先に道があり大きな鳥居が立って居る。前述の川匂神社への道である。旧道は300mほど続き押切橋の手前で国道に合して居る。なお国府新宿の先、北側に松並木が少し残って居る。まばらだが古い大きな木である。
 大磯で見逃せないのは、珍しい「左義長」の祭りである。毎年1月14日の夜この海岸で行われる行事で、古い祭りの風俗を残して居る。左義長についてここで説明する余裕はないが、「どんど焼き」「ドンド祭り」という名の別の形で残って居る所もあるが、東京付近でいまだにこの古い祭りの風俗が残って居るのは台東区の鳥越神社とここだけである。この海岸は今西湘バイパスの厚いコンクリートに阻まれ著しく景観を害し浜も狭くなって居るが、有名な
 「心なき身にもあはれはしられけり 鴫立沢の秋の夕暮れ」
の歌を西行が詠んだのはこの海岸であったといわれ、今その場所とされる所に鴫立庵がある。庵は江戸時代のはじめ、小田原の崇雪がつくったもので、元禄時代、大淀三千風がここを俳諧道場とし有名になった。現在、この庵のほか、西行像を祀る堂、虎御前を祀る堂そして多くの石碑が立って居る。虎御前というのは、伝説では曽我十郎佑成の愛人で曽我兄弟の仇討ちのため、助力した女性で、この地にはこの人にちなむ延台寺の虎が石、化粧坂の化粧井戸、法虎堂などがある。
 大磯にはこの他、前述の延台寺の近くの地福寺に「夜明け前」の作家として有名な島崎藤村の墓がある。また先に触れた滄浪閣は、明治の元勲、伊藤博文の邸宅だった所で、重要な閣議もここでしばしばひらかれて居たという。化粧坂の途中から右へ細い道を500mほど上り、民家の裏の崖に「釜口古墳」がある。横穴の石室が露出しており、奈良時代のものとされて居る。
 旧道以外は車の往来が多い道なので歩行には煩わしいが、歩道が完備して居るので危険はない。町のたたずまいは静かで散策にはよい。

☆行程 
A.藤沢市内の旧道 藤沢駅→藤沢橋→(旧道)四ツ谷→辻堂駅。 歩行約4km、1時間半
B.大磯付近  平塚駅→(バス)花水バス停→高来神社→化粧坂→鴫立沢 →大磯中学→滄浪閣→切通し→国府本郷(旧道)→国府新宿   歩行約7km,2時間半
C.国府新宿から六所神社往復 歩行約2km、

☆地図
人文社 広域都市地図「鎌倉、藤沢、茅ヶ崎」、「平塚、秦野、伊勢原、大磯 」

 

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