(三〇)東京の中の中山道(その二) 巣鴨→本郷→神田→日本橋
中山道の江戸への最終の区間は板橋から巣鴨、本郷を経て日本橋に至る約10kmの区間である。ここでは歩く便宜上、板橋宿ではなく巣鴨駅で区切ったが、当時、江戸への或は江戸からの旅行では、板橋が最終の或は最初の宿場であったから、ここで身なりをととのえた。度々例に引く大田南畝はそれを蕨の宿でして居るが、一般には板橋宿で行われるのが多く、出迎えや見送りもここまで来たものだといわれている。東海道では品川宿、日光道中では千住宿がこれに当たる。今でいえば成田空港に相当すると思えばよい。
前回巣鴨まで来たので、今回は巣鴨から日本橋までについて述べる。ここからは旧道は国道17号線に吸収されているので国道を歩くことになる。歩道が広いので歩きよい。この先左手にあるのが六義園、柳沢吉保の屋敷だった所で今庭園として開放されている。やがて大きな四つ角、千石一丁目交差点というが、以前は駕篭町といった。住居表示で変な地名になつてしまった。その先で新しくできた広い道が右に分かれて行くが、つい最近まで原町と云って居た所である。東側は今本駒込というが、かっては曙町といういい名の町であった。そして五差路のある所が白山上。この西に白山神社があるのでこう呼ばれた。ここを右へ下って行く道が水道橋、神保町へ行く元の市電通りで、この坂のあたりを最近まで指ガ谷町といった。その坂の途中左側に円乗寺がある。ビルのかげになって分かりづらくなって居るが、白山下のバス停を左(東)に入る。この坂を浄心寺坂といい古くからの道である。この道に入ってすぐに円乗寺がある。そこに八百屋お七の墓がある。石碑は3基あり、左のが初代岩井半四郎が寛政5年に建てた供養塔で、「妙栄禅定尼」の戒名が刻まれている。右のは昭和25年に町内有志が二百七十回忌に建てた供養塔である。その石碑に天和三年(1683)三月二十九日寂とあった。真ん中の小さい石碑は古いものでかなり削られて、彫られた字が見えなくなって居る。今は覆い屋根があり、石碑のまわりに柵がつくられ保護されているが、以前には露出していたから縁起をかつぐ人々が石碑をかいて持ち去ったことが多かったことによると思われる。
この道を反対に行くと新しい白山通りの広い道に出る。これを越えて行くと、もとの白山御殿、薬園、現在の東大理学部植物園に出る。この植物園について述べることは多いが割愛する。新白山通りを少し歩き、左への小道を上ったところに本念寺がある。日蓮宗の小さな寺だが、ここの墓地を訪れ、この稿でたいへんお世話になった「壬戌紀行」の著者である蜀山人こと大田南畝の墓を詣でたい。大きな墓石で一面だけに「南畝大田先生之墓」と彫られている。
さて白山上に戻り、旧中山道を行く。この五差路を真っすぐに行くのが旧中山道である。ここから東大農学部前までは、道は広くなり古い建物はないが大部分旧道のルートである。途中に「ほうろく地蔵」の大円寺がある。八百屋お七が火あぶりの刑に処せられた時、この地蔵が火を被って焦熱を和らげたという。そこで火傷や首から上の病に霊験あらただというので、江戸時代には女性の信仰を集めたといわれる。またこの墓地には高島秋帆の墓がある。
本郷通りにつき当たった所が元の駒込追分。左すれば今の本郷通りの延長だが、昔の日光御成道で王子から岩渕に出て荒川を渡り、鳩ケ谷、大門、岩槻を経て幸手で日光道中に合した。江戸時代、将軍が日光参詣の際利用したルートで、重要な道として道中奉行の管理下におかれた。この道を500mほど行くと右側に吉祥寺という大きな寺がある。表門は亨和二年(1802)の再建、扁額には「栴檀林」とある。江戸名所図会によると、「曹洞の禅宗にして江戸檀林の一なり。因って栴檀林と号す。本尊は釈迦如来、(中略)天正年中御城造営の時、神田の台に地を賜い、明暦三年(1657)今の地にうつさる。」とある。
この墓地には榎本武揚の墓がある。幕臣で天保七年(1836)江戸に生まれた。晶平黌に学び、海軍伝習生となり、後オランダへ留学、帰国後海軍奉行となる。明治維新の時、討幕軍の江戸入城に際し、軍艦の引き渡しを拒否、北海道に渡って五稜郭で抵抗した。戦敗れて降伏し、後維新政府に参画して数々の要職を歴任した。ロシア特命全権公使の時、今問題の北方領土に関係のある「日露樺太・千島交換条約」を、明治8年ペテルスブルクに於いて榎本と露国外務大臣ゴルチャコフとの間で調印した。また明治18年12月工部省が廃止され新たに遞信省が設置された時、初代の逓信大臣を勤め、通信制度の確立に尽くした人物であることは周知の通りである。このほか、二宮尊徳の供養塔、川上眉山などの墓がある。またこの境内には「お七吉三比翼塚」がある。昭和41年に日本紀行文学会によって建てられたものだが、史実によるというより芝居の話からとったものらしく、大仏の横に人造石の石碑が立っている。
さて、さきの角まで戻る。この角は地下鉄7号線東大前駅(仮称)ができる予定で現在工事が行われている。右手は元の森川町、立場があった所で、戦前には下宿屋が多かった所である。左手は現在東大農学部の敷地だが、江戸時代には水戸藩下屋敷のあったところ。農学部の敷地は元第一高等学校があったところで、昭和10年に両者が入れ替わった。ここに「朱舜水先生終焉の地」の碑がある。朱舜水は明の人で1600年生まれ。明朝衰亡のとき日本に渡来し、水戸光圀に招かれて、寛文五年(1665)(注、明の滅亡は1661年)その賓儒となった。この地水戸下屋敷に住み、この地で亡くなった。以後の水戸学に大きな影響を与えた。この碑は明治時代後期に建てられたもので、農学部1号館の裏、裏門の近くに立って居る。
この裏門を出たところが言問通りだが、この道を下りて行くと、右手に「弥生式土器発掘ゆかりの地」の記念碑が立っている。明治中期このあたりで多数の土器が発掘、発見された。この土器群の型式を発掘地の向ヶ丘弥生町にちなんで、弥生式と名付けられた。以後この土器の出土する時代をも「弥生時代」と呼ぶようになった。それほど有名な所なのだが、実はその土器が発掘、発見された弥生町貝塚の場所は現在はっきりしないということである。
本郷通りに戻り交差点を渡ると東大本部の敷地で、もと加賀藩上屋敷があった所である。今も残る赤門は、将軍家斉の娘、溶姫(やすひめ)が文政十年(1827)前田家に嫁いだ時に建てられた門で、正式には御守殿門(ごしゅでんもん)という。この通りの右側には戦後何軒も古本屋が並んでいたものだが、今は一、二軒しか残っていない。間もなく本郷三丁目の交差点。そこに「兼安」という店がある。以前は角より二三軒目だったような気がするが、区画整理で今は角の正面のビルになり化粧品雑貨などを売って居る。江戸時代からの古い店で、「本郷も兼安までは 江戸のうち」という有名な川柳で知られる。つまりここまでは江戸の町でこの先は在郷(郊外)だったというわけだ。当時の江戸の範囲は時期によっても違うが、幕府が公式に出した資料である「江戸朱引き図」によると、中山道筋ではもっと北、板橋の石神井川が江戸の北境線となっている。
この交差点を左へ行き、警察署の先を奥に入ったところに、麟祥院がある。NHKの大河ドラマに登場した春日局の墓がある。この墓の形は変わっている。この通りを更に行くと切り通しの坂になるが、右側に大きな鳥居が見えてくる。その鳥居を潜った先にあるのが、湯島天神である。泉鏡花の「婦系図」のヒロインお蔦と主税が登場する背景として有名である。境内に泉鏡花筆塚がある。また拝殿の左手に「まよひ子のしるべ石」がある。嘉永三年建とある。右側面の「たづぬるかた」尋ね事項を書いて貼っておけば、左側面の「をしふるかた」に回答が貼られる仕組みである。昔の広い意味での情報交換の手段であったと考えられる。この神社は文明十年(1478)太田道潅により創建されたもので、祭神は菅原道真である。ここまでは過去の話だが、現在では、菅原道真が学問に秀でていたというので、学問の神様とされその神徳にあやかった受験生の合格祈願でかなりのフィーバーがみられる。社殿のまわり一帯に合格祈願の絵馬が山のように架けられている。また梅の花咲く頃は、そう広くもない境内の梅園に、数十本の梅樹の花をめでに多数の人が集まる。 本郷通りに戻る。この通りはこの先本郷二丁目のへんで道が幾つも分かれて居るので複雑だが、少し左へ曲がり真っすぐに行く。右側が戦前東京女子高等師範学校があり、多数の才媛が全国から集まっていた所。現在その場所に東京医科歯科大学がある。この正門はこの街道でなくお茶の水駅側にある。その正門を入ってすぐ右手に「お茶の水貝塚記念碑」がある。昭和27年8月、地下鉄お茶の水駅を造る工事中に発見された。多数の貝殻にまじり、縄文式土器や石器、獣骨などが出土したという。
このあたり江戸時代には桜馬場といった。古い江戸の地図、明暦3年の地図をみるとそれには載っていない。聖堂もない。安政6年の地図には両者とも載っている。江戸時代ざっと260年、この期間江戸の町はかなり変わっている。古い地図を幾つか比較するとその変化が分かって面白い。その湯島聖堂は十字路を越えた右手にある。この正門も御茶ノ水川に沿った道にあり、この旧街道筋からは入れない。元禄三年(1690)将軍綱吉によって上野からこの地に移転建設されたものである。創建以来何回も火災に遭って居るが、現在の建物は昭和10年建立のもので、鉄筋コンクリート造り、主廟大成殿、ほか幾つかの建物がある。寛政九年(1841)に幕府直轄の晶平坂学問所(のち晶平黌と呼ばれる)が開かれ、幕府直参、旗本、御家人の子弟のほか大名などにも門戸を開き、大いに人材の育成を行った。また後には百姓、町人にも公開された。幕末ここから多くの逸材が出ている。
左手に神田明神がある。平将門を祀る。始め芝崎町(今の千代田区大手町1丁目)にあったのを江戸城拡張のため現在地に移転させられたものである。現在、もとの地には長期信用銀行のビルが建って居るが、そのビルの裏に「将門の首塚」として碑が建られて居る。この神田明神の祭りがいわゆる江戸三大祭りの一つ、神田祭りである。その下が捕物帳に出て来る銭形平次の明神下であつた。銭形平次は野村胡堂の創作によるもので実在の人物ではないが、その記念碑が境内に建てられて居る。
道は右へ曲がり、川岸にぶつかる。そして左へ折れた所に昌平橋がある。中山道は少し下流の橋を渡って筋違門に出た。この門の位置は今の郵便局がある所とするもの、交通博物館のあるあたりだとするもの、等々あつてはっきりしない。前記の地図を見ると、筋違御門はかなり広く東側に筋違橋、南の脇から昌平橋が架けられて居るように画かれている。 この交通博物館は以前は万世橋駅であった。中央線のもとになった甲武鉄道は始め飯田町を始点としたが、後ここまで延長した。つまり今の中央線の始発駅だったわけだ。その後中央線は東京駅まで延長され、その機能はなくなり、戦後駅としても廃止されてしまった。この博物館の前に広瀬中佐と杉野の銅像があったが戦後撤去されてしまった。
すぐ須田町の交差点である。ここは五差路になっているが真っすぐに行く。JRのガードのところが神田駅。そこを過ぎると、間もなくもと今川橋のあつた所になる。ここに堀があり橋が架かっていたが、戦後堀は埋められ、橋はなくなった。その先が室町の交差点で浅草への道すなわち元日光道中が別れて行く。
やがて日本橋である。京の三条からお江戸日本橋への長い旧中山道の旅はようやく終わりになった。しかし淋しいのは日本橋そのものである。上に高速道路がかぶさり空が見えないひどい状態になって居る。
江戸名所図会には「南北へ架す、長さ凡そ二十八間、南の橋詰に西の方に御高札建てらる。欄檻葱宝珠の銘に万治元年戊戎(1658)九月造立と鐫(せん)す。(中略)この地は江戸の中央にして諸方への行程もこの所より示す」とあり、近くに魚河岸、そして道の両側には商店が並び、江戸一番の人出を集める賑やかな所であった。 今はビル街、そしてビジネス街で働く人以外は三越の買い物客くらいで、日曜、休日に歩行者天国があっても人かげはまばらである。銀座や新宿のそれとはだいぶ違う。現在も橋に欄檻葱宝珠はある。東京市道路元標も立って居る。またここを起点として道路距離をきめているようだが、往時の姿をここで想像するのは極めて難しい。
☆行程
巣鴨駅→本郷→神田→日本橋 約7km,2時間半
☆交通
JR山手線巣鴨駅から
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 赤羽、東京西部、東京首部
人文社 2万分の1 広域市街地図「東京北部・川口・朝霞」
昭文社 東京都区分地図 豊島区、文京区、千代田区、中央区(最新版)
人文社 東京都区別地図大鑑(昭和35年/1960/版)(住居表示前の地図)
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