(二九)東京の中の中山道(その一)    志村坂下→板橋上宿→板橋駅→巣鴨

 東京にも一部旧中山道が残って居る。板橋区清水町から環七道路をこえ、上宿から今はコンクリートの橋になって居る板橋を渡り、仲宿の繁華街を通って、国道17号線で分断されて居るが、元の平尾の商店街を通って埼京線の踏み切りを越え、庚申塚を経て巣鴨駅付近に出る。約5kmの区間である。戦災や区画整理で古い建物も町並も残っていないが、旧道としてのルートがこれだけ東京の区内に残って居るのは貴重である。
旧中山道はこの他、一部だが残って居る所がある。志村坂上の右富士といわれた場所で国道から斜めに入り、「く」の字型にまがる道で、中山道の江戸から京への間で富士が右に見えるのはこの地点だけだというので有名であった所である。またその先志村坂下の所に短い区間だが旧道がある。それから白山上から追分、現在東大農学部前に至る道は道路が広くはなつて居るが旧中山道のルートである。

 今回は清水町の旧道入り口を出発点とし、巣鴨まで旧道を辿りながら歩く。その前に前述した志村坂上の右富士の所と一部残って居る志村坂下の旧道、それとほぼ完全な姿で残って居る志村一里塚について触れておきたい。
 志村一里塚は、地下鉄三田線の志村坂上駅の後ろの階段を上がった所にある。両側にほぼ完全な姿の一里塚が残って居る。お江戸日本橋から3里目、現在の榎は三代目だというが、わりと大きく育って居る。国道の拡幅改修がしばしば行われて来たにもかかわらずよく残されたものである。ここから志村坂上の商店街まで戻り、交番の横を斜めに入って行く。この道は「く」の字形に曲がっており、江戸から出て行く時に富士山が右側に見えるので「右富士」と呼ばれ有名であつた。中山道は北西に向かって行くので当然ながら富士山は左側に見える。右側に見えるのはここだけだった。現在は建物に遮られて富士山を見ることがでないから確かめようがないのは残念である。少し行くと左へ行く道があり、角に庚申塔と道標がある。庚申塔は道標も兼ねて居て「是より富士大山道」下に「練馬江一里、柳沢江四里、府中江七里」とあり、万延元年(1860)の建立。道標は寛政4年(1792)のもので「大山道ねりま川こえ道」としてある。この先は下り坂、下りた所で「く」の字に曲がる。この坂の一部は確かに西南に向かって居る所があるので富士山は右側に見えたかもしれない。くの字に曲がり地下鉄三田線のガードをくぐる。このあたり志村坂下の間宿(あいのしゅく)であった。今それを偲ぶ何物も残って居ない。すぐ国道に合する。この先横断歩道橋を渡り東側に行き、少し戻った所から環八道路をこえ約500m、細い旧道が残って居る。その先は、昔は志村橋を越え、戸田の渡しに至った。その道は今工場などで分からなくなって居る。

 さて清水町の旧道入り口から出発する。地下鉄三田線本蓮沼駅の東側出口から出て、国道を少し戻ると左へ斜めに行く道がある。これが旧中山道で車は一方通行になって居る。500mほど歩くと環七道路で分断される。環七道路を越えた所から板橋本町、このあたりが元の上宿である。板橋宿はお江戸日本橋を出発して最初の宿場町で、平尾、仲宿、上宿の三宿を総称した。中山道宿村大概帳で当時の人別(人口)、をみると、男1053人、女1359人、本陣1、脇本陣2、旅籠54となって居る。女が多いのはいわゆる飯盛り女、宿場女郎を多く抱えて居たからで、江戸を出る街道の最初の宿場としての、品川、内藤新宿、千住、そしてこの板橋は、宿場としての機能だけでなく歓楽街としても繁盛して居た。当時の道中記(守貞漫稿)には「江戸の四口各娼家あり、品川を第一とし、内藤新宿を第二とし、千住を三、板橋を四とす。是妓品を云也」とあるように、板橋の娼妓はランクが一番下であった。
 宿場町としては長い町並で、道中案内には「宿内町並南北拾五町四十九間」とあり約1.7kmにも及ぶ。道の左に茂みがあり小堂がある。「縁切り榎」という。今の木は三代目で、離縁を望む者がこの木に触れるか、樹皮を砕いて呑むと希望がかなえられるという俗信があった。このため皇女和宮が江戸下降の際、わざわざこの榎を避けて迂回し別の道を通られたという話がある。間もなく前述の板橋である。コンクリート造りだが、木造りのように外観を整えて居る。この橋の名がそのまま「板橋」の地名となった。ここからが仲宿で、昔旅籠が並び客引き女が盛んに袖を引っ張った所だが、今はその面影はなく、元の建物は何ひとつ残って居ない。しかし新しい商店街として活気があり、かなり繁盛して居る。橋の手前が元の脇本陣板橋家の跡、板橋を渡って今スーパー「ライフ」のある所が元の本陣があった所である。その前にある「石神医院」は幕末蘭学者の高野長英が隠れていた所だという。
 街道筋の裏には二三の古い寺がある。文珠院、遍照寺、観明寺、東光寺など。遍照寺は江戸時代宿場の馬つなぎ場があった所で、明治中頃まではここで馬市が開かれていたという。観明寺には門前に庚申塔がある。板橋区内では最古のもので寛文元年(1661)の建立、屋根、板囲いで保護されている。東光寺は街道から東に少し入った所にある。ここには関ヶ原合戦(慶長五年1600)での西軍の雄、宇喜多秀家の墓がある。彼は秀吉政権の時、家康、利家らとともに五大老の一人であったが、関ヶ原の戦いに敗れ、薩摩に逃れたが、後、八丈島に流された。八丈島では妻の実家である前田家の仕送りを受け、不自由な島の生活のもとに、島にあること50年、明暦元年(1655)八十三才という長令で没した。秀家の子孫はその後長く八丈島を出ることを許されず、明治になってようやく赦免され、前田家の縁をたどってこの近くの加賀藩下屋敷に移り住んだという。この墓はその子孫が伝えて来た遺髪を埋め建てたものである。また門を入ってすぐに庚申塔がある。ここのは保護設備で囲われていないので、よく見ることができる。青面金剛像を中心に、日月像、童子、夜叉、鬼、猿、鶏、が刻まれ、横に「寛文二之天 壬寅 五月十二日」の銘がある。
 また、この近くに最近まであった乗蓮寺は赤塚五丁目に移転し境内に「東京大仏」と称する大きな仏像を建てた。なお前述の加賀藩下屋敷は街道の北にあった。その敷地は広大なものであったが、今は石神井川べりに残る小さな公園と、加賀一丁目、二丁目という地名に名残を偲ぶのみである。
 旧道は国道17号線で分断されるが、この先が平尾で、今の板橋一丁目である。明治17年の大火で上宿、仲宿の殆どが焼失し、旅籠屋の多くが平尾に移り、以降板橋遊郭として繁栄して来たが、戦災にあいその建物も失った上、売春防止法の施行以後歓楽街としての賑わいはなくなつた。だがJR板橋駅に至る近代的な商店街として再生し客足も多いようだ。
前記の国道17号線と交差するあたりが昔川越街道の分岐点であった。この川越街道の旧道は所々分断されては居るが、大山への道が残っており、その先下赤塚まで旧道がある。成増からまた旧道があり白子、膝折まで続く。

 埼京線と名が変わった元赤羽線の踏み切りをこえる。この鉄道は東京でも古いもので明治時代日本鉄道の赤羽駅から品川駅まで、当時の東京の郊外をバイパスとして敷設されたものである。現在の山手線のもとになるが、池袋田端間はその後大分たってから建設されたものである。
 踏み切りを渡ると北区。すぐ右の横町を入った所、JR板橋駅の東口前に新選組隊長近藤勇の墓がある。この近辺は幕末刑場があった所で、彼は慶応4年(1868)4月25日ここで処刑された。元隊士だった永倉新八が函館五稜郭で戦死した土方歳蔵とともに葬ったものである。なお近藤勇の墓は都内にもう一ケ所ある。彼の生家の近く三鷹市大沢6丁目龍源寺の墓地に遺族によって埋葬されている。
 旧道に戻りしばらく行く。滝の川6−33あたりには昔一里塚があった。江戸から二里目のものだが今は何の痕跡もない。明治通りを越すと豊島区、やがて都内で唯一残った都電の踏み切りを渡る。今は都電だが昔は王子電車といつた。三ノ輪から王子を経て岩渕に至る線と、王子から早稲田までの線を営業して居た。戦時中に都電に強制買収されたもので、東京市が建設し営業して居た市電は全部廃止され、この強制買収した路線だけが残ったというのは皮肉といわざるをえない。庚申塚の停留所の名のある通りこの先の四つ角に庚申塚の跡がある。現在小さいお堂が立って居る。
 この角を東に行き、国道17号を横断して行くと、「お岩通り」になる。この道の先に「お岩の墓」のある妙行寺があるから、この名が付けられたものと思われる。この寺は江戸時代には四ツ谷にあり明治になって移転してきたものである。お岩の怪談にかかわりのある芝居や講談を演じた役者、講釈師などが奉納した塔婆等が多数立てられて居る。
 旧街道に戻る。ここから商店街がずっと続く。左側にある寺が「とげぬき地蔵」で有名な高山寺。この信仰は厚いようで毎月四の日の縁日の日は大変な賑わいとなるが、普通の日でもかなりの参詣人で賑わって居る。別名「熟年の原宿」といい、一つのファッション街になって居るという。境内に水掛け地蔵があり水を掛けて願い事をするとかなうという。またこの寺から頂いたお札は霊驗あらたかで、各種の刺による傷が直ると言われて居る。この寺はそう古いものではない。もと下谷車坂付近(今、上野駅東側あたり)にあったが、明治24年(1891)にこの地に移って来たものである。
 この先にもう一つの地蔵がある。江戸の六地蔵の一つ真性寺で、もともとはこの寺の方が古く有名で、門前町をなして居たのが、今ではとげぬき地蔵の高山寺にすっかりお株をとられ影が薄い。今街道筋は、多分以前は境内の一部だったのだろうが、ビルになり、その裏にこれまたビル化した本堂が建って居る。六地蔵というのは江戸の出口に造られた大きな地蔵で、品川の品川寺、内藤新宿の太宗寺、浅草の東禅寺、深川の霊岸寺、及び永代寺(今はない)とここである。ここの地蔵は元禄四年(1691)の創建。境内左手に芭蕉の句碑がある。寛政5年(1793)の建立のもの。
 「しら露もこぼれぬ萩の うねり哉」と彫ってある。
 ここを出るとすぐ大通りで巣鴨駅である。
 横断歩道橋で向う側に渡り、巣鴨信用金庫のビルの横の道を入って行くと染井墓地がある。ここには蝦夷地開拓で知られる松浦武四郎の墓や、岡倉天心、二葉亭四迷、高村光太郎、同知恵子など有名人の墓がある。近辺には寺が多い。田村意次の墓のある勝林寺、司馬江漢、浦里時次郎、実は吉原の花魁美吉野と伊之助の比翼塚のある慈眼寺、また振り袖火事のもとになつた本妙寺が明治41年にこの地に移転して来て居る。ここには明暦大火の犠牲者供養塔があるほか、碁の本因坊代々の墓、幕末千葉道場で有名な千葉周作の墓がある。またテレビでおなじみの遠山の金さんの墓もある。この人は実在の人物で遠山左衛門尉景元という。

 

☆行程 
板橋清水町→板橋宿→庚申塚→巣鴨駅    約5km,歩行 1時間半 
志村坂上駅→志村一里塚→板橋清水町   約1.5km、 歩行 30分    
同駅→右富士→志村坂下     歩行 約1.3km、30分

☆交通 
志村坂上へは 都営地下鉄三田線 志村坂上下車
清水町へは 地下鉄三田線、本蓮沼駅下車少し戻る
史跡を訪れる場合には、1〜2時間付加する。

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 赤羽、東京西部、
人文社 2万分の1 広域市街地図「東京北部・川口・朝霞」 
昭文社 東京都区分地図  板橋区、北区、豊島区、
人文社 東京都区別地図大鑑(昭和35年/1960/版)住居表示以前の地図)


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