(二八)埼玉県南部の旧中山道 宮原→大宮→浦和→蕨→戸田
前回宮原駅通りまで来たので、今回はここから戸田橋までのコースを歩くことにする。旧道はかなり残って居るが、都市化が進み歩くコースとしてはあまり快適とは言えない。しかし、大宮の町、浦和や蕨のもと宿場の跡など想像しながら歩くのも一興である。
さて宮原駅から旧街道に出て、少し行くと新幹線の高架がある。これをくぐると東大成町、東武線北大宮駅を越えた所が土手町で昔の立場である。左に大宮氷川神社の森が見えてくる。近世、中山道の重要な宿場として栄えた大宮は、明治時代、東北線と高崎線の分岐点・鉄道の要衝として発展し、ついで埼玉県最大の商工業都市として、また東京の近郊ヒンターランドとして目覚ましい発展を遂げて居る。その発祥は武蔵国一の宮として高鼻の森に鎮座する氷川神社である。大宮の地名は大いなる宮居からおこったものとされている。古代武蔵の式内社は33座あるが、そのうち大社とされて居るのは、この足立郡氷川神社と児玉郡金鑽神社のみである。当時武蔵の国府は多摩郡、今の府中市にあり、国分寺も近くに建立されたが、この二社だけは別格に扱われた。その理由は、この足立郡と児玉郡の地域が古くから開け勢力が強かったことによると思われる。
氷川神社へは街道から前記の土手町を左折して行けば、神社のすぐ横に出られるが、本来の参道は大宮宿のはずれ吉敷町の街道にある一の鳥居から18丁およそ2kmもある並木道を行くものである。中山道にほぼ平行な道でもともとは中山道もこの参道を通っていた。寛永5年(1628)伊奈備前守忠治の指揮で現在の道筋が造られた。この時氷川神社参道にあった民家を移して町並をつくり宿場をととのえたという。この参道は途中広い道で分断され、車道になって居る区間もあるが、今なお昔の参道の並木の荘厳さを残して居る。
氷川神社の「氷川」の由来について「新編武蔵風土記稿」には「当社は孝昭帝の御宇、勅願として出雲氷の川上に鎮座せる杵築大社をうつし祀りし故、氷川神社の神号を賜われり」云々とあり、出雲との関係が深いことを記しているが、茫漠としているというのが真相のようだ。祭神は須佐之男命、大己貴命(おおなむちのみこと)、稲田媛命の三神である。江戸時代には各祭神はそれぞれ別々の社殿に祀られて居た。すなわち男躰社には須佐之男命を、女躰社には稲田媛命を祭神とし、奥にある簸の王子社に大己貴命を祀っていた。この各祭神の格、順位をめぐって元禄の頃、神社の関係者の間で深刻な論争があり決着がつかず、江戸幕府に上訴されその裁定により三社は同格とし神主の順序は家督の新古によることとなった。明治以降は同じ社殿に祀られ今日に至っている。
氷川神社は古くから人々の信仰をあつめ、為政者もこれを崇めることによって民衆の支持を受けようとしてきた。源頼朝は平家討伐の旗挙げの時、氷川神社に祈願しついで神領を寄進し、徳川氏も江戸に幕府を開くや朱印地三〇〇石を寄進し社殿を造営している。明治元年(1868)東京遷都の際には、明治天皇は同年十月十三日着京されるや、同月十七日には勅書をもって勅祭社と定め、二十八日に行幸され自ら祭祀を行われた。明治政府はこの神社をいかに重視していたかが分かる。以後官幣大社として終戦まで篤く尊崇されて来た。武蔵の国の式内社の内、官幣大社になったのはこの神社だけである。戦後はこの制は廃され政府の庇護はなくなったが、民衆の尊崇を集めていることは変わりない。
この氷川神社にかかわることを2点付け加える。
大宮の氷川神社から4kmほど東南にある浦和市宮本に「氷川女躰社」という古社がある。この神社の社伝では武蔵一の宮とされており、古い額には「武蔵一宮」と記されているという。この神社は遅くとも鎌倉時代以前の創建とされており、大宮の氷川神社を男躰社としてその后神である稲田媛神を祀ったものと考えられている。この神社は見沼田んぼに面した崖上に鎮座する森の中の古びたゆかしい社殿であったが、最近建てかえられた。
また武蔵の国には氷川神社と称せられる神社が非常に多い。旧武蔵の国の範囲に当たる埼玉県に162社、東京都に59社、神奈川県に1社、合計222社あるという。そして旧武蔵の国以外には氷川神社は極めて少なく、千葉県に1社、茨城県に2社、栃木県に2社、北海道に1社、合計6社しかない。しかも武蔵の国でも大体において東は元荒川の古い河流を限界とし西は多摩川を限界とする区域に多く集中して分布している。古い時代に氷川神社を祀っていた人々の彊域を暗示するものと思われる。
この大宮氷川神社の東に寿能町がある。「寿能城」があった所であるとされている。戦国時代末期永禄三年(1560)岩槻城主太田資正が後北条の攻撃に備えて築城し四子の資忠に守らせた。のち北条氏に降り、秀吉の北条攻めの時落城した。現在寿能団地の先に寿能公園があるが、そこに城主、潮田出羽守資忠の碑が建っている。その塚が物見櫓の跡だという。
さて土手町からは大宮市の中心部・繁華街を歩くことになる。戦災は受けなかったが、都市計画、道路拡張ですっかり変わり古い町並を探すのは殆ど不可能である。太田南畝は武蔵一の宮へ「ゆきて見まほしけれど、大宮の駅に入らざれば夫馬かふるわづらひあり」と見過ごしたが、「大宮の駅舎も又ひなびたり。商人すくなし。」と記し、あまり繁栄して居ないような印象だが、同じ頃の資料では、宿内人別、男679人、女829人、計1508人で、本陣1、脇本陣9もあり、旅籠29、宿内総戸数319軒である。中山道の宿場の規模としては、板橋、蕨、鴻巣、熊谷などには及ばないが、浦和よりは大きくかなりのものといえる。
先に述べた一の鳥居の所を過ぎ、上木崎、与野駅前、針が谷、北浦和駅前を経て鉄道の陸橋を渡ると、浦和宿になる。ここも市街整備、道路拡張で昔の面影は殆ど無いが、幾つか見るべきものはある。 その一つが「慈恵稲荷]で、もと市があった所である。
二つ目は玉蔵院である。街道から少し入った所に境内、本堂がある。こには藤原時代末期の木造地蔵菩薩(県、文化財)、安永九年(1780)の地蔵堂(市、文化財)、230点にものぼる古文書を所蔵して居る。境内は広く緑豊かだが、最近自動車のため境内を横切って舗装道路ができた。環境破壊もひどいものである。この玉蔵院と慈恵稲荷の間に本陣があったが、その跡はない。
三つ目は調宮である。「つきのみや」という。木曾路名所図会には「調宮みつぎのじんじゃ」として「浦和の南岸むらにあり、延喜式内社なり。これを二十三夜祠と称す」とあり、壬戌日記には「左に若葉の林しげりあひて、林の陰に茶屋の床几などみゆ。月の宮廿三夜堂なりとぞ」と記している。もとは朝廷や伊勢神宮への調物(みつぎもの)を集めた所だったとされて居るが、江戸時代には「月の宮」「二十三夜堂」として信じられていたことがわかる。ここの社叢は大きく、また狛犬の代わりに一対の兎の石像があるのは珍しい。万延2年(1861)の作。「月」の宮にちなむものとして置かれたものと思われる。
この先道は曲がりくねり、下り坂となる。このあたり、家が建て混んできたことと、南浦和小学校ができたこと以外、街道の様子はあまり変わらない。根岸を過ぎると間もなく六辻である。ここで国道17号線と交差する。戦後JR南浦和駅が新設され、その後武蔵野線と埼京線が開通し武蔵浦和駅ができて以来すっかり変わり、住宅が密集し、アパート群が林立している。戦後でも昭和30年代頃には田んぼの真ん中にこの交差点があったという記憶がある。なお、東京、蕨方面から浦和方面へ旧道をたどる場合には、六辻の交差点の100mほど先で二股があるので注意を要する。真っすぐの広い道でなく、左への細い道が旧道である。
さて、六辻の交差点を越えてすぐ左折する。浦和市辻2丁目、もと辻村。すぐ左手に小社がある。木曾名所図会に「辻村に熊野權現のやしろあり。」とある熊野神社である。この区間は昔の道がそのまま残って居る感じで、舗装はされて居るが車の往来は少なく、短い区間だが歩くには快適である。と書いたがこれは5年程前のこと。今(平成4年夏)は外環状道路の工事が進みとてもこういう状況ではない。その外環状道路の工事現場を横断する。そこに「一里塚跡」の石碑が立って居る。太田南畝が「辻村の立場をすぎ一里塚(榎)をこえて」云々と記して居る一里塚で、榎の木があった所。今は石碑のみで何も残って居ない。すぐ蕨市錦町3丁目、錦町5丁目に入る。もと「わらびて村」といって居た所である。
国道17号線と再び斜めに交差する。ここから細いが真っすぐに旧道が続く。もと蕨宿である。前述したが、蕨宿は大宮や浦和よりも大きく繁盛して居た。中山道宿村大概帳によれば、宿内人別、男1138人、女1085人、計2223人、本陣2、脇本陣1、旅籠23、宿内総家数430軒もある。
この中山道宿村大概帳によれば、中山道で、人別2000人以上の宿場は関東では蕨の他、板橋、鴻巣、熊谷、本庄、高崎しかない。その先草津まで、奈良井、上松、加納、高宮、草津の5宿で、計11宿である。これに対して東海道は(東海道宿村大概帳による)草津までの52宿のうち、2000人以上の宿が33もある。中山道が東海道に比べて宿場規模が小さかったこと、従って人の往来も少なかったことが想像できる。たびたび引用して居る壬戌紀行には「大宮の駅舎も又ひなびたり。」「上尾の駅舎ひなびたり」「桶川の駅わびしき所なり。」などと記して居る。壬戌紀行は太田南畝が大阪での勤務を終えて江戸へ帰る際、中山道を経由した時の紀行文で、往きには東海道を通って居るので、彼の脳裏には東海道に比べて中山道の宿々が実に鄙びて侘しいものと写ったものと思われる。彼は蕨宿では蔦屋庄左衛門の宿にやどる。「あすは故郷かへるまうけとて、従者も髪ゆひ頂そりなどしてさわぎあへる」云々と記して居ることから、江戸へ戻る或は入る者にとっての最後の宿で、ここで身なりを整えたことも多かったものと思われる。
この旧道のほぼ真ん中あたり、中央5丁目右側にもと本陣がある。「蕨市指定文化財 蕨宿本陣跡」の表示が立ち復元された門がある。この通りに昔の面影はあまりないが、それでも古い建物が2、3軒残って居る。
蕨で見ておくものは、三学院と蕨城址。
三学院は前述した国道と交差した所から左手に入った所にある。金亀山極楽寺といい、本尊の阿弥陀如来像は平安中期の作と伝えられる。仁王門のそばにある子安地蔵が有名で、子育て、開運の御利益があるというので今でも参詣者が多い。
蕨城址は本陣跡の角を左折、500mほど行くと和楽備神社がある。小さな社で、その横が公園になって居る。ここが蕨城址とされて居る。他に戸田市内とする説もあるが、長禄元年(1457)将軍足利嘉政の命で渋川義親が築いた。後北条氏の支配下に入り永禄10年(1567)渋川氏は北条方として里見氏と下総国府台で戦い敗れ一族離散し、廃城となり、江戸時代には将軍の御鷹御殿として利用された時もあった。
さて旧街道はこの先500mくらいで、国道17号線に合する。すぐ戸田市になる。ここからは戸田橋まで旧道はない。南畝は「明はてぬまにやどりを出て、元蕨をこえ堤村をへて戸田川を舟にてわたる。この川上は入間川にして末は隅田川なり。」と記して居るが、江戸時代は戸田川といい、舟渡しであった。英泉の「木曾街道六十九次・蕨」にはこの戸田の渡しが画かれている。この区間の国道は歩道があり歩行には危険はない。戸田橋の手前を右折して少し行けばJR埼京線戸田公園駅がある。
☆行程
宮原→大宮→浦和→蕨→戸田橋 約20km、歩行6時間
☆交通
往きは JR高崎線 宮原駅下車
帰りは 京浜東北線の浦和、蕨、埼京線の武蔵浦和、戸田公園の各駅を利用
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 上尾、浦和、赤羽、
人文社 広域都市地図 上尾・鴻巣/浦和・大宮/東京北部
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