(二七)埼玉県中央部の旧中山道    吹上→鴻巣→北本宿→上尾→宮原

 今回は吹上から埼玉県の中央部の旧中山道を歩く。国道17号線が別のルートにできて居るので、比較的自動車に煩わされるずに旧道を行くことができる。
吹上からは北足立郡で東京都の境まで続く南北に長い郡である。現在主要部は殆ど市制がしかれ、郡下はこの吹上町、伊奈町くらいである。この地域は現在の東京都足立区とともにかって足立郡を形成して居た。明治時代府県制で埼玉県と東京府ができた時、埼玉県側は北足立郡となり、東京府側は南足立郡になり後足立区となった。大体において荒川左岸の微高地である。なお荒川右岸現在の朝霞、志木、和光、新座の各市は市制施行前には北足立郡に属していたが、その昔は新座郡であった。

 JR高崎線吹上駅から真っすぐに行くと十字路があり、これが旧中山道の旧道で、昔の立場のあった所である。右折し500mくらい歩くと、旧道が右に分かれる。すぐ踏切になる。この道はわりに車の通行が多い。左手に広場があり、丘の上に「六体仏」があった。由来は不明。古い墓か、寺かの跡だと思われる。そして行田道の分岐点に至る。この先に最近JR北鴻巣駅ができた。鴻巣市中井を過ぎると間もなく中宿橋である。この橋の下を流れるのが武蔵水路であり、利根川の水を荒川に流す水路で東京の重要な水源のルートである。ここから箕田(みた)になる。ここは古い由緒のある所で、平安時代の初期、嵯峨天皇の第6皇子融(とおる)の孫源仕(つかう)が武蔵守になりこの地箕田に館を立て勢力を築いた。嵯峨源氏の支流箕田源氏という。箕田八幡はその孫渡辺綱が勧請したものといわれ、境内に「箕田碑」があり箕田氏の由来を刻して居る。近くの宝持寺は綱が父と祖父の菩題をともらうために建てたものという。ちなみに渡辺綱は幼少にして父母を失い摂津国渡辺庄に居た叔母に養われて成人し、源頼光の四天王といわれる渡辺の綱となった。 左手に平等院という無住の寺がある。「箕田観世音」という観音堂となって居る。太田南畝が「左のかたに新西国第七番吹張山平等院といふ寺ありて、開帳といへる札をたつ。されど詣づるもの一人だになし。渡辺綱守本尊なりといふ観世音なり。」と記して居る。当時も繁栄して居た寺とは思えないが、現在は境内は荒れ、建物は朽ちかけて居る。とここまで記したが、これは昭和63年12月にここを歩いた時の知見によるもの。ごく最近(平成4年8月)に再びこの街道を歩いたら観音堂が立派に建て替えられて居る。境内に立てられた表示によると、平成3年2月に箕田八幡近くの龍珠院龍昌寺の住職等の人々によって再建されたものである。この観音像は1寸8分というから6cmたらずのちいさなもの。源経基が嵯峨源氏の源仕に与えたもので、後その子孫である渡辺綱がこの地に観音堂を建てて安置したものと伝えられる。

 この古い道を歩くうち鉄道の踏切にかかる。これを渡るとすぐ国道に合する。このへんから鴻巣の宿になる。ここも古い建物は殆ど残って居ない。左手に「鴻神社」がある。明治になって「竹ノ森雷電社」「氷川社」及び「熊野社」を合祠したもので、この地には雷電社があった。古い扁額が残って居るという。この社の北側に細い道がある。江戸時代の「日光裏街道」である。
 駅への十字路のあたりには本陣、脇本陣があったが、その跡を忍ぶものは何もない。東松山への道を越えると右奥に淨土宗の壇林(僧侶の学問研修施設)である勝興寺がある。広い境内には樹木が多く、山門、伽藍も立派である。本堂の左手に数基の古い墓がある。戦国時代末期の武将仙石秀久、そして信州上田、のち松代の城主真田信之(真田幸村の兄)夫妻などの墓である。また墓所には関東代官伊奈備前守忠次、忠治などの墓がある。
 鴻巣で触れなければならないのは、平将門に攻められた源経基(つねもと)の館がこのすぐ西方にあったことである。経基は清和天皇第六子貞純親王の長男で六孫王と称し、清和源氏の祖となった人物。天慶元年(938)武蔵介となりこの地に館を築いた。現在鴻巣駅の西、鴻巣高校の南側にその跡とされるものが残って居る。ここへは先に通った「鴻神社」の先雷電1丁目と加美1丁目の境の道を右折して行く(東京方面からなら左折)。鉄道踏み切りを渡って600mも行くと鴻巣高校がある。この校門を左して細い林間の道を辿ると、南斜面の薮の中に表示がある。この辺り一帯を城山といい館があった跡だとされている。林の中の高いところに「六孫王源経基館跡」と刻まれた石碑が立っている。

 旧道は車の往来は多いが、坦々と続く。右手に「東間浅間社」がある。わりと大きな境内だが、作りもののような塚の上に社殿がある。これが「あづま村ーせんげんの森」といわれた社である。少し寄り道だが神社の横の道を行き「馬室原一里塚」へ寄る。しばらく行くと鉄道の線路につきあたる。線路の向こう側にあるのが「馬室原一里塚」の跡である。踏み切りまで遠回りして渡り、小田急マンションの北、農家のかたわらに塚が残って居る。江戸時代初期まではこのあたりを中山道が通って居た。その後ルートが今の旧道に変わったもので、古い一里塚はもとの位置に残った。この例は旧中山道を歩くうちに幾つも見た。前に述べた御代田の一里塚もその一つの例である。 
 ここの踏み切りを渡って斜めに行く細い道が、今井本では古いルートの中山道であるとしている。その道を行き駅前通りと交差するとすぐ右手に北本駅がある。この先500mほど行くと旧道の多聞寺交差点にぶつかる。すぐにあるのが天神社である。社殿は奥まった所にある。隣は多聞寺。本堂は建て変えられてコンクリート造りになっているが、鎌倉、室町時代の古い板碑が十数基残されて居る。このあたりが本宿。立場であった。江戸時代の始めにはここに宿場があった。その後鴻巣に宿場が移され立場になったものである。
 二ツ家で松山道が右に分かれる。そして間もなく桶川市に入る。十字路がある。右へ行くのは川越道。ここに「北ノ木戸」という表示があった。つまり昔の桶川宿のはずれである。この桶川宿も道路拡張や建て替えなどで昔の面影を探るのは難しくなっているが、いくらか昔の風情を残しているものがある。街道右手の東和銀行のあたりに昔「市神社」があった。この銀行の前にその表示がある。そこからすぐ桶川郵便局だが、その先左側に「府川本陣」があった。その跡は今は民家で「明治天皇行在所」碑が立って居る。その先に蔵造りの家がある。幾つもの堅固な蔵でできた建物である。このあたりには何軒かの古い建物が残っている。桶川駅への通りを越すと右手奥にあるのが淨念寺だが、その先にもと旅籠「武村旅館」がある。看板を出して今も営業して居るが、ここには古い旅籠の建物様式が一部そのまま残っているという。その先に交差点があるが、その左手に「南ノ木戸跡」の表示がある。桶川の宿は先に通った「北ノ木戸」からここ「南ノ木戸」までの範囲であった。宿の規模としては、本陣1、脇本陣2、旅籠36軒、人別、男717人、女727人、計1444人で、中山道の宿場としては大きいほうである。南の木戸跡の先はすぐ上尾市の境になるが、街道をはずれて線路近くに雷電神社がある。もと街道筋にあったのだが、明治時代に移転したものである。
 上尾市は最近住宅地として目覚ましく発展して居る。上尾公園が左手にでき、またJR北上尾駅もつい最近できた。以前は雑木林がかなりあったが、今は一面の住宅地である。上尾宿には見るべき古い建物は残っていないが、街道の左手にある遍照院、わりと大きな寺で孝女お玉の墓がある。上尾駅を過ぎてすぐ右手に「氷川鍬神社」がある。このあたりにもと本陣、脇本陣があったが、今その跡はない。宿のはずれにあるのが愛宕神社、緑地として残って居る。この先十字路を左に行くと上尾運動公園、埼玉水上公園がある。間もなく大宮市に入る。バイパスの下をくぐる。左手にあるのが加茂神社、木曾路名所図会に「賀茂村に賀茂祠あり」とある社で、太田南畝は壬戌日記で「左に社あり、人家あり。天神橋の立場といふ」と記している。このあたりから宮原駅通りにかけて昔立場のあった所である。


☆行程 
吹上→箕田→鴻巣→北本宿→桶川→上尾→宮原  約18km、歩行 6時間

☆交通 
往きは  JR高崎線 吹上駅 下車
帰りは  JR高崎線、鴻巣、桶川、上尾、宮原の各駅利用

☆地図 
国土地理院  2万5千分の1  熊谷、鴻巣、三ケ尻、上尾、
人文社  広域都市地図  上尾・鴻巣/浦和・大宮/東京北部


 

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