(二六)北武蔵の旧中山道 深谷→熊谷→吹上
明治時代の始め埼玉県地方の行政区画は何度も変更された。岩鼻県についてはさきに述べた。この他、忍県(おし)、岩槻県、川越県、半原県、浦和県、入間県など多くの県ができ、何回も統廃合され、のち埼玉県と熊谷県の二つに統合された。この両者が更に統合され埼玉県となったのは、明治9年8月である。その後もこの二つの地域で政治上の対立があり、かつ県庁を熊谷におくか浦和におくかでもめ、明治22年に勅令によって浦和を県庁とすることにされた。都市化とくに東京のベットタウン化が進み、工場等の進出が目覚ましく、最近ではこれが県北にも及び、南北の差はほとんどなくなって居るが、歩いてみると何と無く雰囲気の違いが感じられる。
今回は埼玉県北部、昔の北武蔵地域の深谷から熊谷、そして吹上までの旧中山道を歩く。この区間の旧道はほぼ残って居る。一部自動車の往来の多い区間があるが、大体に於いて歩行に危険と不快はない。ただ各宿は、道路拡張、市街整備等で、昔の面影が残っているものは少ない。
深谷駅から駅前通りを旧道の交差点まで行き、ここを右折して街道にはいる。この交差点あたりが昔深谷宿だったところである。やがて行人橋である。唐沢川にかかる小さな橋である。この先に常夜燈があった。ここで深谷宿はをわる。このあたりから欅、銀杏の並木が続く。この並木は国道を交差した先にも続く。この交差点の近くに大きな松がある。いわゆる「見返りの松」で、樹齢300年とも500年ともいわれて居る。ここには江戸時代かなりの松並木があったらしく、道中案内記などに紹介されて居るが、現在はこの大きな松を含めて松の木は4本、あとは欅と銀杏とで並木になって居る。
左側に「幡羅中学」という名の中学校がある。昔の幡羅村、もっと溯ると「幡羅郡」で、その地名が中学校の名に残って居る。深谷宿は壬戌紀行に「深谷の宿は榛沢郡にして御代官野口辰之助支配」云々とあるとおり、榛沢郡だが、深谷をはずれると「幡羅郡」となる。ちなみに北武蔵は幾つかの郡に細分され、かつ天領、旗本領そして大名領と、入り乱れて分割支配されて居た。このへんは榛沢、幡羅、及び大里と幾つかの郡があり、正保年間(徳川家光の頃、1644~47)の石高でそれぞれ27,400石、36,800石、及び21,000石とあり、明治22年にはそれぞれ70,57、及び38の村があった。明治29年に埼玉県ではそれまで18郡もあったものが統合されて9郡に整理され、このあたりは大里郡になる。
この幡羅中学の前の細い道を右折する。国道17号に突き当たるが、その左手にあるのが、「国済寺」である。上杉憲英の館跡で、本堂の裏に応永十一年(1404)八月二日の没年を記した憲英の墓(宝篋印塔)がある。また古い黒門、山門がある。紅葉の木をはじめ樹木の多い広い境内である。
街道に戻ると右手に熊野神社の鳥居と参道が見えて来る。そして間もなく篭原。このあたり新興住宅地が開発され以前の雑木林は殆どなくなってしまった。玉井団地の先で小さな橋を渡る。もと玉井窪川越のあった所である。すぐ17号バイパスと交差、ついで国道と合し、300mくらいで右に旧道が分かれる。この旧道区間は車の往来の少ない道で1.5kmくらい、細い道だがのんびり歩ける。左手に大きな榎の木がある。「植木一里塚」跡である。再び国道に合し広い道と交差する。この広い道は、右すれば国道140号で秩父へ、左すれば国道407号で足利に至る。
間もなく石原。つい最近まで東武鉄道妻沼線のガードがあった所である。その道端に秩父道の道標があった。ここから秩父街道が右に分かれる。この先少しの間だが、旧道が左に平行して残って居る。この旧道がデパートの建物で遮られ国道と合した地点に「熊谷市道路元標」がある。この交差点を右折する道は東松山への旧道だが、その南側に元竹井本陣があった。その面影は何もない。その本陣の別邸であった星渓園が近くに残されて居る。それは東松山への国道407号を100mほど西へ行った左側にある。
熊谷市は昭和20年(1945)米軍の空襲であらかたの建物を焼失した。その後の復興、市街整備、道路拡張で昔の面影を探るのは難しい。このデパートの裏にあるのが「熊谷寺」である。熊谷直実ゆかりの寺として知られる。明治のはじめ廃藩置県の際、熊谷県が置かれた時この寺の建物を県庁として使った。この寺は厳重に塀をめぐらし参詣は時間を区切って行われて居る。ただ日曜日は自由参詣が許されて居る。創建は戦国時代末期の天正年間(1573~91)に、幡随意上人が熊谷直実の草庵があったと伝えられる場所に建てたという。本堂は大正4年に再建されたもので、高さ11間、間口14間、奥行き16間の堂々たる伽藍で本堂の下には戒壇めぐりがある。本尊は阿弥陀如来で、両脇に観世音菩薩が祀られている。また本堂の西側に熊谷直実の墓と伝えられる宝筐印塔がある。室町時代のものと推定されている。この先に高来神社がある。延喜式内の古社である。
大通りに戻る。この通りがもとの熊谷宿の中心だった所だが前述のように昔の面影はない。この通りを駅前通りを越え1kmほど歩き、右折する。ここから旧道で細い道だが、熊谷堤の下を通って吹上まで続いて居る。熊谷駅へはこの道がJR高崎線の踏み切りにかかる所で、その手前を右折すればすぐである。
この先JRの踏み切りと秩父鉄道の踏み切りを越えると、道は二股になる。左の道が旧街道である。曙町公園の所に「八丁一里塚」の表示がある。跡は何も残って居ないが、あたりには鄙びた風情がある。細い曲がりくねった道をしばらく行き小さな橋を渡る。ここを流れる小さい川が元荒川である。この河道は昔の荒川で、ここから荒川の流れは岩槻を経て越谷の先で利根川(古利根川)に合流して居た。近世の始、利根川水系の大改修工事が行われ、栗橋のあたりから本流は東へ流され銚子で太平洋に注ぐことになったことは前に述べた。荒川もこの頃大改修工事が行われ、ここ久下の所で土手を築き東への流れをを留め、南に流路を造って入間川に合流させた。現在の荒川の流れもまた江戸時代以後のものなのである。
橋の先が熊久、右奥に「東竹院」がある。久下直光(くげなおみつ)の開基で大きな達磨石がある。久下直光は熊谷直実と所領を争った人物で、その場所は先に通った橋のあたり、現在の八丁であるといわれている。熊谷直実はこの公事(くじ)に敗れて出家したのが真相で、平家物語では一の谷で若い無冠の太夫「平敦盛」を討ち取りその後世を葬うため庵を作り出家したという美しい話になって居る。
この先久下橋へ行く道が右に分かれる。この土手下の民家に昔の茶屋「みかりや」の跡の表示がある。その先に「権八地蔵」がある。この地蔵には芝居の「白井権八」にまつわる面白い話が伝わって居る。勿論架空の話だが、芝居の鈴が森に登場する白井権八は因州鳥取から出て来て熊谷堤にさしかかる。ここで旅人を襲って殺し大金を奪った。それをこの地蔵が見ていた。白井権八が「見たか。誰にも言うな」といったところ、地蔵が「わしはいはぬが、ぬしもいふな」と答えたというのである。
土手下の道を歩いて行くと久下神社がある。前述の久下直光ゆかりの社である。この神社は明治時代付近の多数の神社、神明社、雷電社、八坂神社等十社以上も合祠してできた社で、もとは熊久伊奈利社といった。ここには久下農協、久下小学校があり久下の中心部であったと思われる。ここから土手に上り熊谷堤の上の道を行く。前述のように荒川の流路を人工的に変えたので、この熊谷堤は元の流路に戻ろうとする自然の力でしばしば川が荒れた。その荒れる川から村々を守るための重要な堤であった。この堤の由来について石碑が幾つも立てられて居る。左は前述の元荒川の流れ、右は広大な河原というより殆どが農地だが、遠くに荒川の流れが見える。その先は秩父の山地。約2.5km、歩くには快適なコースである。
左にJR行田駅が見えてくる。このほんの少しの間が行田市で清水町、つまりもと北埼玉郡。土手の右下は大里郡。そして少し行くと左に下りる道がある。ここからが北足立郡になる。その土手下にお堂がある。「権八延命地蔵」とある。名は少し違うが「権八地蔵」が二つあるわけだ。
鉄道の踏切を渡ると吹上の町である。すぐに吹上神社がある。「山のほこら」と古い道中案内にある社であると思われる。突き当たりが国道17号。この地は忍道、松山道の分岐点で立場として重要な地点として栄えた所である。その忍はここから4kmほど北にあり、江戸時代には譜代大名が配置され、佐倉、古河、川越とともに老中の居城となった。城下町は行田で、足袋の産地としても知られて来た。木曾名所図会に「吹上の茶屋にて忍ぶさし足袋を商ふ。左に忍の城への道あり、一里余りなり。」とあるように江戸時代から忍の刺足袋、あるいは行田の足袋として売られて来た。吹上の宿でもこの足袋を売って生活していた人がいたのである。
吹上から行田への道の途中に、鉄剣に115字からなる金文字が発見されて有名になった「稲荷山古墳」をはじめ、多数の古墳のある「埼玉古墳群」(さきたま)がある。歩いても遠くはないがバスの便もある。歩く場合は吹上駅から行田への真っすぐの道を行き、17号熊谷バイパスを越えて1kmほどの所を右折、武蔵水路を越えるとすぐである。現在「さきたま風土記の丘」史跡公園として整備されている。古墳群は9基の大型古墳からなり、ほか幾つかの古墳がある。資料館もあり発掘された遺物を展示している。
現在吹上の町には昔の建物で残って居るものは殆どない。十字路があり右に曲がって行けばJR高崎線吹上駅である。
☆行程
深谷→熊谷 約11km、3時間半
熊谷→熊谷堤→吹上 約8km、 2時間半
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 深谷、三ケ尻、熊谷
人文社 広域市街地図 深谷・熊谷
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