(二五)上州から武州へ 新町→神流川→本庄→岡部→深谷
今回は上州の新町から神流川を渡って武州の本庄、そして深谷まで歩くコースである。旧道がかなり残っているので、国道を歩く区間も一部あるが、大体において旧道を歩くことができる。
JR高崎線新町駅で降り、駅前の道を真っすぐに行くと、十字路がある。国道17号線で、これを横切り更に500mほど行くと、旧中山道の旧道に出る。ここが元の新町宿である。ここまで前回歩いて来た。町並は道が広くなって居るが、昔のまま。だが古い建物は殆ど残って居ない。新町駅へのこの交差点の近くに郵便局があり、元本陣があったはずだが何の痕跡もない。ただ民家の庭の隅に高札場跡の表示があった。
新町の宿は、宿内総家数407軒、本陣1、脇本陣2、旅籠43、人別、男713人、女724人、計1437人。(中山道宿村大概帳による。)新町はその名の通り、中山道の他の宿場より50年ほど遅れて17世紀半ばに落合村と笛木村に伝馬役が課せられてできた宿である。先の高札場跡が両村の境で、明治22年の町村制実施で合併して新町となった。貞享乙丑の年(1685)貝原益軒の「木曾路之記」には「新町の民家二百許(ばかり)。町の出口に橋有。」とあり、江戸中期にはかなりの町並になって居たことが判る。
この角を右折して旧道を行く。町はずれに諏訪神社がある。ここに伝えられる獅子舞いが無形文化財に指定されて居る。鳥居は元禄時代(1688~1704)のもの。その先に小社がある。八坂神社で芭蕉の句碑がある。寛政時代(1789~1801)のものという。ここを過ぎると国道に合する。そこから間もなく神流川の土手である。ここに「神流川古戦場跡」の表示があった。同じものが対岸にもある。説明板は対岸のほうが詳しい。戦国末期、秀吉方の滝川一益と北条方が戦った所である。この川は河原が広く土手と土手の間がかなり長い。水流はこの広い河原の真ん中をちょろちょろ流れているが、壬戌日記には「河原ひろければ仮橋二つばかりわたる。これ上野国と武蔵国との境なり。」とあり、現在群馬県と埼玉県の境となって居る。英泉の本庄宿の絵は神流川渡し場を描いており、手前つまり江戸の側に燈籠があり、流れが二つ、一つには橋がかかり、先のもう一つの流れは舟で渡って居る。その先に人家が描かれている。これを本庄宿とするのは無理で、多分新町宿だと思われる。背景は妙義、榛名そして赤城の上州三山である。現在の地勢もこの絵と大差はない。
橋をわたると上里町勝場、「かっぱ」ともいう。間もなく旧道は左に分かれる。20分も歩くと右手に林がある。その中にあるのが陽雲寺である。昔は大きな寺だった様子だが今は寂れている。ここに新田義貞の臣畑時能の墓、古い銅鏡がある。なお畑時能が拠った「金窪館」はここより500mほど北にあり、新田義貞が築いたものという。
この先国道と交差しすぐ左折して神保原の町に入って行く。ここはもと石神といい、立て場であった。この道は比較的歩きよい。かなり行くと木の茂った小山がある。社があり「明富士明神」とある。ここに古墳がある。浅間山という。間もなく本庄。旧道が左に分かれ細い道を行く。仏母寺の所で右折、神社の横に出る。社叢の深い境内で金鑽神社といい、本宮は児玉郡神川村にあり、ここは遙拝所として建立された。本殿は享保9年(1724)、拜殿は安永7年(1778)、また横に総欅造りの大門がある。これはもと別当寺であった白蓮寺の山門であったという。
神社の前の道がもとの本庄宿だが、区画整理、道路整備で昔の面影を忍ぶものは殆ど失われて居る。市立図書館入り口付近に「西の市神」があったというが、何の痕跡も、また表示すらもない。埼玉銀行のあたりに元の「田村本陣」があったのだが、これまた何もない。本庄市はこういうことに無関心のようだ。表示くらいは立てて置くべきだろう。
JR高崎線本庄駅前からの道と交差する十字路を越えて少し行くと寺がある。大正院といい、本尊大日如来、古い薬師堂がある。街道に戻り左に入る細い道を行くと円心寺がある。本尊阿弥陀仏、本堂は天正4年(1573)の建立、山門は天明(1781~)の頃のもの。その裏に城山稲荷があり、このあたり一帯がもと本庄城の跡である。遠く鎌倉時代に児玉党の一派本庄氏が拠った館の跡だという。その後本庄氏は北条氏に敗れ、北条方となったが、秀吉の小田原攻めの時落城、江戸時代には廃城となり、壬戌紀行に「御代官榊原小兵衛支配所なり」とあるように幕府の直轄地となった。このあたり散策には好適である。
先の旧道まで戻り古い道筋を歩く。諏訪町で国道17号と交差し、「傍示堂」の集落に入って行く。変わった地名だが、昔ここは武蔵と上野の境でその標識が立てられていたのでそれが地名になったという。武蔵と上野のこのあたりの国境は、上古から近世まで一定ではなかったようだ。境とした河川がしばしば流れを変えたのもその理由だが、政治経済の面で密接な関係があり、武蔵、上野のいくつかの勢力が常にせめぎあっていたこともその原因だと思われる。木曾名所図会に「ここに大市あり。人数多群集して交易なすこと多し。」とあるように、商業で繁栄して居た所だったらしいが、今はその面影はなくひっそりとした町並である。ただこの先かなりの間自動車の往来が多いのには閉口する。この畑の中の車の多い道を行くことおよそ20分、牧西の集落に入る。ここには八幡神社があり、本庄市無形文化財、金鑽神楽宮崎組が伝わって居る。これに使われる面は正徳年間(1711~16)以前の作といわれる。
この先の小学校の先で道は二つに分かれる。左への道が広く車は殆どそちらに曲がって行く。妻沼を経て熊谷への抜道のようだ。右へ行くのが旧道だが、おかげで車の通行は殆どなくなり、のんびりと田舎道を歩くことができる。間もなく小山川、滝岡橋を渡る。
小山川について付言すると、近世の最大の土木事業は利根川水系の改修工事だが、他にも多くの土木事業が行われた。その一つが備前渠用水(ビゼンボリ)である。前回通った烏川から水源を取り、その南方を流れる小山川に引き入れ、それから分水して下流の妻沼まで用水を造り、福川に流した。その先北河原用水や羽生用水につなげた。大里郡から北埼玉郡にかけての広大な地域を潤し、新田開発に多大の効果を発揮した。この旧街道のすぐ北側を今でも流れて居る。小山川への流入口を見るには、次に述べる産泰社の角を左折し北へ約2kmほど行き小山川にかかる砂田橋を渡る。すぐ北にあるのが備前渠で小山川と同じくらいの流れがある。そこの橋を渡り土手を500mほど歩くと合流点である。江戸時代の初期・慶長九年というから西暦1604年、およそ400年も前にこれだけの土木工事を機械力なしで完成させた人工川である。しかも現代に至るもなお滔々と流れ活用されて居る。その過去の土木工事の成果である人工川を見るのも大きな意味がある。
橋を渡った後、南畝は「岡村の人家すぐ。右に聖天あり。又寺あり。又社あり。榛沢郡惣社島護大明神、天津彦火瓊々杵尊としるせり。」(壬戌日記)と記して居るが、この聖天社は今も街道の右手にある。この島護明神社は、現在「島護産泰神社」(トウゴサンタイジンジャ)といい、社叢のある立派な神社で、日本武尊東征のみぎり、この地で戦勝を祈ったといわれる古社で、瓊々杵尊と木花咲耶媛を祭神とする。群馬県勢多郡荒砥にも産泰社があり、ここの祭神は木花咲耶媛が主神で、安産守護の神として信仰されている。「今井本」では「産蚕社」として養蚕の神としているが、「産泰社」を「産蚕社」としている根拠がわからない。
ここから10分も歩くと国道に合する。歩道があるので危険はない。このあたりが普済寺で、右手に同名の寺がある。本堂の建物は新しく建て替えられているが、本堂前の御影堂に岡部六郎太忠澄の像が安置されて居る。この人物は、平家物語「薩摩守最期」のくだりに登場し平忠度を討ち取った人物で、その功によりこのあたりに領地を与えられた。
岡部町の国道を10分ほど歩くと左に旧道が分かれる。そしてその先国道と交差する地点に滝宮神社がある。旧街道は弓なりに曲がって行くが、この辺が萱場、細い道の曲り角に「平忠度墓入り口」の表示が出ている。そこを右折しJR高崎線の踏み切りを越えてすぐにあるのが「清心寺」である。小さい寺だが緑がある。今その境内に塀をめぐらしてあるのが「平忠度墓」と伝えられるもので、前述の岡部六郎太が討ち取った忠度の遺髪を持ち来り、供養の塔を建てたものという。その前に「忠度桜」という何代目かの桜樹がある。
旧道に戻ると間もなく深谷の宿はずれ。小さな堂があり呑龍院とある。その前に常夜燈が立っている。ここから南の稲荷町のはずれにある常夜燈までの約1.8kmが昔の深谷宿になる。今井本に「昔は旅籠だったであろう連子格子の家や土蔵がいくつか残り宿の名残を残している。」とあるが、この著者が実際に歩いたのは昭和48年頃、20年近くもたった今、道幅が広がり、建て替え等でその面影を探すのは難しい。しかし街道を歩くうち、幾つかの昔ながらの卯辰のある家や、土蔵のある建物などを見付けることができる。今井本にある旧本陣跡の飯島印刷所は旧寄居道の交差点近くにある。現在も昔の建物がそのまま残されているかどうかは確認していない。表示や説明板はなく、この本陣跡や脇本陣跡など重要な建物の跡地は今井本で確かめるほかはない。その先「きん籘」という旅館の前に「明治天皇御小休息地」というう表示があった。路地の奥に「明治天皇御休息地」という石碑が立っており、それによると、明治11年9月2日、北陸、東海行幸のおりこの地で休息されたという。古い旅籠にかかわる旅館だと思われる。
深谷は中山道の宿場町のなかでも繁盛していたところで、前記の中山道宿村大概帳によれば、宿内人別、男895人、女1033人、合計1928人、本陣1、脇本陣4、旅籠80、宿内総家数524軒というから、かなりの規模である。幕府の御家人大田直次郎は大坂からの帰途中山道を通った。その紀行文が度々引用している壬戌紀行だが、それには「駅舎の道の中に苫、筵、畳、俵ようのもの、又はくだ物、青物をつらねて賑わしきさまなれば、輿かくものにとへば、ここは五・十の日に市たちてにぎはゝし、けふは五日なればかくつどえりといふもおかし」とコメントしている。彼がこの深谷宿を通ったのは享和2年(1801)4月5日のことで、ちょうどその日は市がたつ日に当たったので賑わっていたということもあるが、この地方の農産物、加工品の集散地としても栄えていた様が彷彿される。なお宿場の人口で女の人数が男より多いのは旅籠にいわゆる飯盛り女を多数抱えていたからで、ひとつの歓楽街をなしていたことによる。この様子は英泉の描く「岐阻街道海道深谷之駅」の絵で想像することができる。
また深谷のあたりは古くから開けていたところで、縄文時代の遺跡があり、中世には関東の有力武士上杉氏の拠点として栄えた。これらのの旧跡について若干触れる。
その一つ、深谷城。木花城(ぼけ)ともいい、上杉房憲が古河公方に対抗して康正2年(1456)に築き代々深谷上杉氏の居城であったが、江戸時代初期、酒井忠勝を最後に廃城になった。街道の北側にある。
二つ目は昌福寺。鉄道の陸橋を渡り2kmほど行き新幹線の手前、仙元山下にある。ここには上杉房憲、実盛をはじめ上杉氏累代の墓がある。この本堂の裏に庭園がある。
三つ目は桜ヶ丘組石遺跡。この昌福寺へ行く途中、道路から左に入った住宅地の中にある。縄文時代のものとされて居るが、祭祠遺跡か墓跡であると考えられて居る。
旧中山道深谷宿の中程で交差する駅前通りを右折し5分も歩けば深谷駅である。
☆行程
新町→神流川→石神(神保原)→本庄 約8km、2時間半
本庄→岡部→深谷 約11km、 4時間
☆交通
JR高崎線 新町駅、神保原駅、本庄駅、岡部駅、深谷駅を適宜利用する。
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 伊勢崎、本庄、深谷
人文社 広域市街地図 伊勢崎・本庄、寄居・岡部、深谷・熊谷
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