(二一)碓氷峠を越す    碓氷峠上→坂本→碓氷関趾→横川

 碓氷峠は東から越すよりも、西から、つまり軽井沢側から越す方がはるかに楽である。前回述べた碓井峠上からずっと下り坂、かなりひどい坂道の所もあるが下りなので苦しくはない。
 さて峠上の熊野神社から歩き出してすぐ右へ下って行く道がある。ここを下ると沢に出るが、「明治天皇御膳水」の石標が立っており、明治天皇がここを通られた時、飲料の水を汲んで供した所という。だがこの道はここで行き止まり。
 もとの道に戻り少し行くと「思婦石」という石碑が建っている。日本武尊が東征の折りここを通られた時に、「あづまはや」と呼ばれたという伝説にもとづき建てられたものである。この伝説は日本書記に載って居る。巻第七、景行天皇の項に
 「日本武尊毎に弟橘媛を顧びたまふ情有ます、故、碓氷嶺に登りて三たび嘆きて曰はく“吾嬬はや”とのたまう。故因りて山の東の諸国を號けて吾嬬国と曰ふ。」とあり、
 古事記では足柄の坂になって居る。もし歴史的事実だとしたら、この地を通られた可能性はむしろ少ないと思う。南の入山峠の方が可能性が高い。というのは古代の東山道は、近世の諏訪から和田峠を越えて佐久、浅間のルートではなく、伊那から蓼科を越えて直接佐久へ出て前記の峠を越えて上毛野へ出ていたとする説が強いからである。

 ところで、この碑の前で道が三つに分かれる。一番右が林道で途中でこれから分かれて坂をおりる。これが中山道の旧道である。真ん中が「一つ屋の歌碑」の建つところへ下りて行く道、そして一番左が安政の遠足のルートになる「和宮道」である。「和宮道」と言うのは幕末、皇女・和宮が徳川家に降嫁することになり、京から江戸へ中山道を下られた。その時、中山道の各宿場や街道の設備を大々的に整備した。中山道の旧道を辿るうち、各地でこのような所にぶつかる。この和宮道もそのひとつで、当時の道が険しく荒れていたので、新たに山裾に道を開いたものである。
 この安政の遠足は「とおあし」という。「えんそく」ではない。歩くのではなく「マラソン」である。オリンピックにマラソン競技はつきものだが、近代になって最初に行われたのは1896年であり、安政の遠足はそれよりも40年も早い。安中藩が藩中の士族、住民の士気を鼓舞するために、安政年間(1854~1859)に始められたもので、一時中断はあったが、現在も毎年実施されて居る。安中城址、文化会館前を出発し、松井田、横川、坂本を経て、この碓井坂を峠上まで走る。日本でのマラソンとしては現存している最古のレースである。毎年5月の第2日曜日に行われる。そのために事前にルートを調査し道を整備するという。このルートは和宮道を通る。
 真ん中の道を下りると「一つ家の歌碑」が復元されて居る所に出る。弁慶の建てたものとされ、この先の一つ家にあったが、天明3年(1783)の浅間山の大噴火により流出し、のちに再建されたもので、歌詞は全部漢数字で書かれて居る。
「八萬三千八三六九三三四七一八二 四五十三二四六百四億四六」(やまみちはさむくさむしなひとつやに よごとみにしむももよおくしも)と記されて居る。
流出した碑の拓本が残されて居るが、それによると
「八萬三千八三六九三三 四四一八二四五十二 四六百々四億四百」(やまみちはさむくさみ ししひとつやによごとにし ろくももよおくしも)とあり、少し違って居る。
 思婦石から和宮道をとり、しばらく歩くと道は二つに分かれる。右は車止めのある道、左は舗装はないが広いいい道で霧積へ行く林道である。車止めのある方が和宮道で道標がないので迷う所だ。細いがいい道である。前方に子持山が見えて来る。特色のある形をして居るのですぐ分かる。その横を迂回するように道は曲がって行く。思婦石の所が標高1188m,この子持山頂が1108mだからそれを上に見ながら歩く道になるので、ずいぶん下って来たわけだ。その子持山の横に当たる所に笹沢施行所跡への表示がある。その表示から右へ下って行く道がある。これが前述の旧道である。旧道は前記の真ん中の道を行き、左へ折れてやや下る。途中笹薮の繁みがひどい箇所があるが、小さな小川を越えると笹沢施行所跡の表示が立っている。この笹薮は100メートルくらい続くが、笹沢とはふさわしい名をつけたものである。
 その先少し平らになって居る所がある。「一つ家」という茶屋が昔あった所、今は何も残って居ない。前述の歌碑はここにあった。その先に立派なホテルのような山荘があった。無人で立ち枯れのようになって居る。ここまでは狭く、舗装はされていないが車の通行は可能。ここからは細い山道になる。10分ほど歩くと、山中集落跡。もと茶屋本陣があった。寛政年間(1661~73)には民家が13軒もあり、明治11年には山中村落学校があり20人の生徒が居たという。今は何もない。

栗ケ原見崎という所を通る。尾根道で両側の谷が見渡せる。紅葉がいい所で、ちょうどその若葉が日に映えていい色に染まっていた。そのすぐ先に「神社まであと5km」という標示板があった。先の霧積への林道を分けたY字路の地点に「神社まであと1km」という標示板があったからちょうど4km歩いたことになる。この間休憩をいれて約1時間である。この先が「座頭ころがし」といわれる難所。壬戌紀行には「ゆきゆきてただちに絶壁にのぞむ。ここを座頭ころがしというもむべなり、目しゐのものはおちいりぬべし」とあるが、道が改良されたせいなのか、それほどのひどい坂ではない。「仏岩」という大きな岩がある。上に地蔵が立つ。このあたり歩くうち、さきほどから「クオー、クオー」という獣の鳴く声がしていたので、何かと思っていたが、登って来た人に聞いたら、野猿の吠声だと言って居た。
 谷間をわたる細い径にさしかかる。堀切という。昔、秀吉軍と北条軍とが戦った所だという。景観は絶佳、山桜が咲いて居た。ここからかなりの登り坂になる。登りきった所は平らになっており、石垣などが残って居る。もと茶屋があった所で、「刎石立場」跡(はんねいしたてば)である。ここから再び急坂を下る。「弘法の井戸」があり今も涌いて居る。ひしゃくがあり口をすすぐ。澄んだいい水で、飲用にもなりそうだ。
 前方に野犬のような獣が現れる。私は生来犬は苦手である。野犬なら何か得物で追い払わねばと思いつつ見て居ると、向こうも私の動きをじっと見て居る。しばらくして山の斜面の林の中へ登って行った。その形、その様子では「かもしか」だったようだ。後でカメラチャンスを逸したことに気付く。
 馬頭観世音の大きな石碑があり、「覗き」という所に出る。覗きという名の通り、すばらしい景観が林の間から見渡せる。眼下は坂本の宿と平地、そして目の前に妙義山の威容が迫る。妙義山というのは一種独特の形をして居て、人に威圧感を与える。前述の壬戌紀行で大田南畝もこの異様な山の形に驚いて次のように記している。
 「妙義の山也といふ。これまで岩山をみしかど、かかる険しき岩の色黒きが雲をしのぎてたてるをみず。唐画にかける山のごとし。」
 日本武尊が「あづまはや」と言ったのはここではないかという説もある。しばらく景色に見とれる。
 下りるとすぐにあるのが、大日尊石碑、そこにある岩石が珍しい。柱状節岩といい、火成岩で冷えた時亀裂が生じ、柱状に(大きな水晶柱のように)幾重にも岩が重なって露出して居る。ここから石ころのごろごろした急坂を下る。撒いた石ではなく道を開いた時からこうであったらしい。この先に「堂峰番所」跡がある。横川の碓氷関所の出先として関所破りの監視をしていたもので、今は表示の他は何も残って居ない。急坂を更に下りる。左手にゴルフ場が見える。下りきった所が国道18号線、「G9点」という所である。先に述べた安政の遠足は、ここまで規定の時刻まで到着できなかった人々はここからバスで出発点へ送り返すのだという。この地点での標高は512m、峠上が1188mだから標高差676mの坂を下ったことになる。休憩を入れて私の足で3時間、約9km、登りなら5時間をみておく必要があるだろう。ここを駆け登るのだから大変苦痛の伴うマラソンである。

 旧道はこの国道を突っ切って浄水場の横を通って居たが今は通れない。国道のS字カーブを下って行くと霧積温泉への分岐点に出る。その先の細径が旧道、八幡神社がある。この旧道は300mくらいで国道に合する。英泉の画く坂本は、浅間山を背景に道の中央を用水が流れ、その両側を人が歩き、家並みが続いて居る。今は中央を車が走り、両側に溝がありそれをふたした所を人が歩く。この宿は江戸時代初期、計画的につくられたもので、真っすぐな道の両側に整然と町並が続く。古い建物はあまり残って居ないが、昔の旅籠「かぎや」など幾つかの古いものは残って居る。
 宿をはずれると原、ここから旧道は左へ分かれる。橋の所で国道に合し、橋を渡って再び左へ分かれて行く。この川を霧積川という。少し登ると信越線の踏み切り。ここからが横川の合の宿である。ここに「碓氷の関所」が復元されて居る。昭和34年往時の柱、門扉、土台石などを使って復元されたものである。街道の左手路地の奥に昔の茶屋本陣だった家がある。武井家で、古くから「矢の沢の家」と呼ばて来た。代々横川村の名主役を勤め、幕末の頃には坂本駅の助郷総代も兼ねた。もう一軒、茶屋本陣だった武井家が近くにある。こちらは「かりがね屋」と呼ばれて来た。
 T字路があり右折するとすぐ横川駅である。

☆行程 
碓氷峠上→坂本→碓氷関跡(横川) 約14km、4時間

☆交通  
碓氷峠上まで  直接行くには軽井沢駅からバスもあるが、回数が少ないのでタクシー利用の方がよい
横川から   JR信越線横川駅

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 軽井沢、南軽井沢、松井田

 

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