(二〇)浅間の麓を歩く 御代田→追分→沓掛→軽井沢→碓井峠上
このコースは有名な避暑地、別荘地、観光地を歩く。どのガイドブックにも載っているし、散策にいい道なのだが、歩く人は少ないようだ。
御代田の駅を降りて広い道を左へ、旧中山道は鉄道の踏み切りが廃止されたため中断されてしまったが、狭い石段を降り線路をくぐって北側に出る。ここから「分去れ」(追分、北国街道との分岐点)までは旧道が全部残って居る。
10分ほど歩くと道の左側、街道から少し離れた家の裏に、一里塚が一対ほぼ完全な形で残って居る。「御代田一里塚」跡である。江戸時代初期中山道を開いた時はこの一対の一里塚の間を通っていて、その後寛永年間大改修され現在のルートに変更されたが、一里塚はそのままにされたものと思われる。入り口に表示がないので注意しないと見落とす。また一里塚に生えて居る木はどこにもある榎や松ではなく枝垂れ桜である。県の史跡に指定されて居るが、保存状態はよくない。これだけの経済大国になり、国が富んでも為政者に歴史を尊重し古いものを残そうとする意欲がなければ、開発という名の破壊と自然の営みで、どんどん消滅して行ってしまう。
久保瀬沢川を渡る。このあたりまで別荘地に開発され、所々に「OOランド」などという看板がある。地名も南軽井沢という。これから追分原を過ぎると「分去れ」になる。善光寺道・別名北国街道が左へ分かれる。というよりも現在では左へ行く道が国道18号線で、高崎・長野間のメインルートである。この北国街道を通った大名はこれより西のもので、当時の最大の大名、加賀の前田侯をはじめ、高田藩、松代藩などである。善光寺への旅人、商人もあり、中山道往来の旅人と相俟ってかなりの繁栄をしていた。
当時は民謡にも歌われて居るように、歓楽の地でもあった。「中山道宿村大概帳」で江戸時代の人口等を見ると、天保14年(1859)の調査では、本陣1、脇本陣2、旅籠35軒、男263人、女449人、計712人となっており、女の方がはるかに多い。これはいわゆる飯盛り女を多く置いていたためで、幕末にはそれがもっと著しくなる。その弊害もあり幕府はしばしば禁令を出し、1軒につき飯盛り女2人とかいう制約を設けたが、守られた様子はない。女連れはそのこともあってこの宿を避けた。前回通った小田井が「姫宿」と呼ばれたのは、高貴の姫君が泊まったこともあるが、一般の女性客が「追分け」を避けて小田井に泊まったものが多かったことにもよるのだという。
「分去れ」には道標やいろいろな碑が立つ。道標には中央に「東二世安楽 追分町」、左横に「従是中山道」、右横に「従是北国街道」とあり、裏に「千時延宝七巳未三月」とある。延宝七年というのは江戸時代中期1789年である。
「分去れ」から国道18号線を横切って旧道をたどる。元の追分宿だが、最初にあるのが枡形茶屋「つがるや」、昔の面影を残して居る。その先にあるのが昔の遊女屋「若葉屋」、この前を入って行くと泉洞寺がある。この地に住んだ堀辰雄が愛したというかわいい石仏がある。宿の中程にもと本陣跡、そしてもと脇本陣だった油屋があり建て変えられてては居るが、今も営業して居る。ここは大正、昭和の初期、川端康成、堀辰雄などの文士が定宿としていた旅館である。
この先右手の森の中に浅間神社があり、芭蕉の句碑がある。
「ふき飛ばす石も浅間の野分かな」
寛政五年(1793)建立のもの。
宿はずれに高札場が復元され、国道に合する手前に「追分一里塚」跡がある。大分道路で削られては居るが、今も小さい丘となって残って居る。ここから少し国道を歩いて右に折れる。「借宿」(かりしゅく)の集落で連子格子の民家など古い町並の面影がある。この集落のはずれに「遠近宮」(おちこちのみや)という小さな神社があった。無人の社で由緒は不明だが、このあたりを遠近ともいって居たらしく、伊勢物語に、浅間山についての歌の中に「おちこち」といって居る箇所がある。
「むかしおとこありけり、京や住み憂かりけむ、あずまの方に行きて住む所もとめむとて、友とする人ひとりふたりして行きけり。信濃の国に浅間の嶽にけぶり立つを見て
“信濃なる浅間の嶽にたつ煙 をちこち人の見やはとがめむ”」
このすぐ先右に入る細径が昔の女街道、碓井関のきびしい取り締まりを嫌って主に女性が通ったのでその名がある。この細径は途中で切れて居て今は通ることはできないが、入山峠を越えて上州へ抜けたもので、入山峠は現在国道18号線バイパスが通って居る所で碓井峠よりも険しくない。また古代の東山道はそこを通って居て碓井峠と称して居たと言う説もある。
ここを過ぎると今述べた国道バイパスとの合流点にぶつかる。歩行者のための表示が親切にできて居ないので迷うが、旧道を見付け古宿(ふるじゅく)の集落に入る。太古このあたりに「長倉の牧」が置かれ、中世「長倉宿」が置かれた。浅間山は古来何回も噴火を繰り返し麓の村に多くの被害を与えて来た。そのため街道も宿駅も変えられて来たので、その駅の位置を比定するのは難しいが、中軽井沢のはずれに長倉神社があり、その上に長倉という所があるが、そこよりむしろこの古宿あたりを比定する説もある。
再び国道に合する。ここが元の「沓掛宿」で戦後、中軽井沢と地名も駅名も変えた。昔の面影を探すすべは殆ど無い。3軒あった脇本陣のうち、「つたや」は八十八銀行の敷地になり、隅に表示があるだけ。駅前通りを越えた先に脇本陣だった「桝屋」がただ1軒残っており今でも営業して居る。
この駅前通りを北へ行くと、星野温泉に出る。星野温泉の入り口にある池のそばに、与謝野鉄幹、晶子夫妻の歌碑がある。またその近くに「野鳥の森」があり、バードウォティングとともに森林浴には絶好の場所である。
さて旧道は桝屋の先の細い道へ曲がる。ただし元中山道は現在の中軽井沢駅のあたりを通っていたもので今は通れない。そこでこの細い道から鉄道線路をくぐり、旧道に出る。この旧道は小川を越えて、森の中の道を行くことになるが、林の中の散策にいいコースである。またこのルートはガイドブックにも載って居るらしく、サイクリングの若い女性のグループが走り抜けて行くのに何組も出会った。だがこの林の中のいい道も長くは続かない。鉄道と国道に遮られて分断されて居る。踏み切りを渡った所に中学校があり、その隣に郷土博物館がある。
国道を少し歩いて、泉の里入り口の所から旧道に入る。左手に見えるのが離れ山、このあたりは森が深く、広々とした敷地のある別荘が多い。新開発された別荘とは違う重みと風格を持って居る。しかし、シーズンより少し前だったのだが、狭い道なのにやたらに車の往来が多いのには閉口した。野沢橋を渡る。ここを流れる雲場川は霊場の池から出て居る。
20分ほど歩くと大通りにぶつかり、バスターミナルがある。ここが昔の枡形の跡である。ここから元の「軽井沢宿」が始まるが、現在その面影は全くない。旧軽井沢と呼ばれ、連休や夏には若い女性で溢れ、原宿と銀座と新宿が一度に引っ越して来て、しかもそれが凝縮した雰囲気になって居る。江戸から38番目の一里塚があったはずだが今は勿論なく、本陣跡もない。
江戸時代の人別を見ると、男189人、女266人、本陣1,脇本陣4、旅籠21で、女の数が多く、飯盛り女が大勢いたことを思わせる。事実、碓井峠を越える前、或は越えてきた人々の休養、歓楽の場であった。壬戌紀行には「ここはあやしのうかれ女のふしどときけば、さしのぞきてみるに、いかにもひなびたれど、さすがに前の宿より賑わしくみゆ」とある。
宿の中程に元の郵便局があり、郷土館として保存され観光案内所になって居る。その先土産物屋が並ぶ横町に神宮寺があり、江戸時代の石仏が祀られて居る。そしてはずれにある旅館が「つるや」。昔は休み茶屋だった所で明治以降旅館となり、芥川龍之介などの文士が好んで泊まって居たという。昔の建物は戦後焼失し、今はコンクリートのビルに建て直されて居るが、昔風の外観は残して居る。
宿はずれを出て森の中の別荘地帯の一角に木造の教会がある。イギリス聖教会でアレキサンダー・C・ショウの碑が立って居る。
その手前にあるのが芭蕉句碑、
「馬をさへながむる 雪のあした哉」とある。
そして二手橋を越えると道は二つに分かれる。そこに「碓氷峠」の大きな石碑がある。ここを右に行き遊歩道を登って行く。この遊歩道が全部旧中山道であった可能性はないが、車道は別にあり、林間のいいコースである。旧軽井沢の喧噪もここまでは届かず、また観光客はこの手前で引き返すので、ここを通るのは峠への林間コースをたどる者ぐらいで人通りは殆どなく静かな環境を行くことができる。
二手橋からはかなりの登りだが、この地点ですでに標高海抜960mはあり、峠上が1180mだから、標高差220mくらい。約2.5km、上りで1時間、下りで40分くらいである。そんなにきついコースではない。
峠上に見晴らし台がある。そこを少し下ると峠の集落。ここは上信国境、つまり長野、群馬の県境である。幾つかある茶屋の一軒に、「この柱から東は群馬県、西は長野県」と書かれて居た。
熊野皇太神社があり、石段を登る。これもまた上信両国境、群馬長野両県境に立って居る。すなわち中央の本宮は上信両国境に鎮座し、左の那智宮は信州分に、右の新宮は上州分に鎮座して居る。その祭神は日本武尊、伊邪那美神で、五重の石塔、石の風車、古鐘が社宝となって居る。またここの狛犬は変わって居る。この熊野皇太神社というのは長野県での呼び名で、群馬県では熊野神社とよんでいる。同じ神社で県が違うと呼び名が違うというのも珍しい。
ここから先はずっと下り坂、かなりひどい坂道の所もあるが下りなので苦しくはない。
☆行程
御代田→追分→沓掛→軽井沢 12.5km,約4時間
軽井沢→碓井峠上 2.5km,約1時間
☆交通
御代田まで JR信越線、御代田駅
旧軽井沢から バスで軽井沢駅まで
碓井峠上から バスもあるが回数が少ないのでタクシー利用の方がよい
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 御代田、浅間山、軽井沢
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