(一五)日本の分水嶺・鳥居峠を越す    藪原→鳥居峠→奈良井→贄川

 日本の分水嶺「鳥居峠」。水はここを境に東西(南北)に分かれて流れる。一方は奈良井川に落ち犀川を経て信濃川となり日本海に注ぎ、他方は木曾川に落ちて伊勢海・太平洋へ流れる。文字通り日本の屋根越えなので、かなりの急峻の坂道を想像して居たが、実際に歩いてみて思っていたよりもきつくはなかった。峠上の標高は海抜1197m、峠下、西の藪原で942m、東の奈良井が935mだから、どちらから行ってもこの標高差は260mくらいのものである。思っていたより険しくない。東京近郊の高雄山が標高608m、ケーブル下の地が195m、この標高差約410mもあることと比較して坂道としてはむしろ楽な方である。
 木祖村(藪原)はこの道の保存にかなりの力を入れて居て、道標も説明板もしっかりしており、山道も自然のままによく整備されている。しかも、歌や俳句を投稿する箱を数カ所に置いてあり、ここを訪れる人を風雅な気持ちにさせる心遣いさえして居る。
 藪原の駅の裏に小公園があり、そこに「藪原一里塚」跡の石碑があった。以前旧中山道はここを通っていたが鉄道で分断されてしまったようだ。ここを出発点に歩き出す。藪原はお六櫛で有名である。この由来は、もと妻籠の旅籠のお六という娘がいつも頭痛で悩んでいたが、或日、御嶽権現のお告げでミネバリの木(オノオレともいい堅い材質で細工物などに使う)で櫛を作り髪をすくとこの頭痛がすつかり直った。そこでこの櫛を売り出したところ評判になりよく売れ、お六櫛として妻籠宿での名物になった。ところが妻籠にミネバリの木がなくなり、その木を藪原に求めた。以後その櫛を藪原でも作るようになり、今では藪原の方が有名になってしまった。櫛を売る店は何軒もあり手作りだという。町並は古いただづまいを残して居るが、昔の宿場町というより「お六櫛」のかもしだす雰囲気の町並という方がよさそうだ。元脇本陣だったところは木祖村役場、本陣跡も石の表示があるだけ。
 宿はづれで線路を越え、すぐ上がったところにあるのが「鷹座役所」跡である。尾張藩では木曾に御鷹巣山を定めて鷹の雛を求めた。ここで巣から下ろした子鷹の飼育、山の監視などを行って居た。訓練をした成鳥を将軍家に献上し、また諸大名にも贈り物としていたようである。
 ここから登りはきつくなる。途中三股があり旧国道と別れる。旧中山道は真っすぐに林の中に入って行く。秋も半ばだったので「から松」などの木々が黄ばみ、はらはらと葉が散って居る。花吹雪という表現を借りると「黄葉吹雪」というべきか。「落ち葉しぐれが袖ぬらす」という歌もあるが、明るく乾いた落ち葉の時雨である。しかも私が踏むと、落ち葉がさくさくと音をたて、柔らかな足の感触とともに気分がすこぶるよい。途中いくつか二股があったが、道標がしっかりして居るので迷うことはない。峠上近くに丸山公園があり句碑が立って居る。中に芭蕉の句碑が二つ。 

「木曾路の栃 うき世の人の土産かな」(天保13年/1842の建立)
「雲雀よりうへに やすらふ嶺かな」 (享和元年/1801の建立)

 ここから藪原の谷合が一望できる。すばらしい眺めである。無人の休み小屋があって、そこに訪れた人がよんだ歌や句を入れる投稿箱があった。
 「義仲硯水」はそのすぐ上、今も清水が涌いて居る。木曾義仲が平家討伐の旗揚げをした折りこの頂上で御嶽山へ奉納する願書を書くのに使ったと伝えられて居る。鳥居峠の頂上はここからもう少し行く。ここに御嶽山遥拝所がある。小さなお堂、多くの碑がある。そこへ入るところに鳥居がある。江戸時代、貝原益軒はその著「東路記」(あづまぢのき)(貞亨2年 1685)で「鳥居嶺は碓日嶺より坂けはし。馬にのりがたきあやふき所あり。昔木曾の御嶽の鳥居ここにありし故名づくと云。今は鳥居なし。」といっている。
 現在ある鳥居は弘化2年(1845)建立のものである。東つまり江戸方面から来た人がここで初めて御嶽山を拝めるので遥拝所が作られたという説もあるが、私がここを訪れた時にはこの地点では御嶽山は拝めなかった。少し下って明治以後の新道とぶつかる手前でわずかに御嶽山が顔をのぞかせてくれた。
 この先旧道は一部消えて居る。新道を行くと小さな小屋がある。「峰小屋」の跡である。茶屋として営業して居るのかどうか、私の行った時は無人であった。ここで数組の男女が休んで居るのに会う。奈良井から登って来たという。道が荒れて居て危険な箇所もあり大変だったという。2時間もかかったともいって居た。私の場合はお六櫛を買った店から、途中急傾斜に胸が痛くなり何度も立ち止まり、ゆっくりした歩きで登って来て、丸山公園までちょうど1時間。ここで休み、鳥居のある遥拝所で休み、ここまで1時間半、正味50分くらいである。 ここから九十九折りの急坂を下る。本沢(葬沢)という所を過ぎる。武田勢と木曾勢が合戦し多くの戦死者が出た所と伝えられる。このへん一部石畳道が残って居る。左手に小屋があった。いわゆる「中の茶屋」の跡。説明板によると菊地寛の小説「恩讐のかなたに」の主人公市九郎が情婦の弓と住み着き旅人を殺しては金品を奪ったのはこのあたりだという。
 これから先は、峠上で出会った人々が話して居たように、風水害のためか道がひどく荒れて居る。登る場合はかなり大変だろう。崖が崩れ道が埋まって居たり、沢の橋が流され一本の丸木で渡るような危険な箇所もある。こういう区間がかなり長い。修復中であったが、道の保守は大変なものだとつくづく思う。昔はこの負担は殆どすべて地元住民に課せられて居た。ようやくこの難所を過ぎ林の中の山道を下って行くこと30分くらい、広い舗装道路に出る。その合流点に道標と説明板があった。奈良井から行く人にはいい道しるべとなって居る。この道を下ることになるが、旧道ではない。一部残って居るが通行できない。下りきった所にあるのが「鎮神社」、別名「鎮大明神」という。元和6年(1615)の創建である。境内に歴史民俗資料館があり、宿場の史料や民具などを展示して居る。
 ここから奈良井宿、どこの宿場にもある鉤の手もある。町並はわりと昔の面影が素朴な形で残って居て観光ずれして居ないのがまたよい。ここにも櫛を売る店があり、漆器もある。昔は奈良井の漆器として有名だったが、現在はこの先の平沢が「木曾漆器」として全国的に販路を拡大し、奈良井の漆器は影が薄い。昔の旅籠が何軒か残って居る。越後屋はその一軒で、一部改築されたが昔の建物で営業して居る。その手前の伊勢屋は昔の脇本陣、そして先にあるのが元の本陣である。そして「とくりや」の看板を掲げた家も元旅籠で今は営業して居ないが、内部を郷土館として公開して居る。典型的な旅籠の形態を見ることができる。この先左手に大宝寺がある。ここで有名なのはマリヤ地蔵。首は欠けて居るが膝の上に抱く子供は手に十字架を表す蓮(はちす)を持って居る。昭和7年近くの薮の中から発掘されたものだという。ここには庭園もあるが、あまり手入れされていないとみえて荒れた感じだ。ついで桝形、水飲み場の跡が残って居る。ここからは宿はずれですぐ奈良井駅である。駅の前の斜めに上がって行く道が旧道だが、今は八幡社へ行く道になって居て行き止まりである。この参道の杉並木が鬱蒼としていて、その奥に二百地蔵とよばれる石仏群がある。大部分が観音仏だがそれぞれの像に個性がある。
 旧中山道は前述のように途中消滅して居るので、駅まで戻り踏み切りを越えて奈良井川の橋を渡り土手を歩く。小学校、中学校の裏の道を抜けて旧道に出、線路の踏み切りを越えた所が平沢である。ここは前述したように木曾漆の町として有名である。漆器を売る店、作る工場が各所にあり、漆器展示館などもあり、この趣味のある人には興味が深い所だと思う。私は通過する。この町はづれに大きな神社がある。諏訪神社で文武天皇大宝2年(702)の創建。天正年間武田勢と木曾勢の合戦の時焼失、建物はもちろん旧記などすべてを亡失したという。今の建物は江戸時代後期のもの。
ここを過ぎるとやがて国道に合する。この区間の国道には歩道があるので歩行に危険はない。また所々に旧道が残って居る。桃岡橋で奈良井川を渡る。ここから旧道が分かれ鉄道線路をくぐって行く。少し上り坂を行くと桃岡の集落に入る。山を迂回ししばらく行くと贄川の元宿場である。町並というほどのものはない。昭和の初期に火災にあいあらかたの建物は消失してしまったという。ここは上の宿の一つで江戸からは最初の木曾の宿駅であった。従ってここには関所が置かれた。宿はづれ鉄道を陸橋で越える手前に「贄川関跡」が復元されて居る。ここでは特に婦女の通行と桧の搬出を厳重に取り調べたという。
 宿の中程に本陣の跡がある。昔の建物を再現して建てたものだという。その先の酒屋は元脇本陣だった所。その脇の道を左折して行くと、麻衣廼神社(あさぎぬの)がある。古社のようだが、由緒は不明。その手前にある寺、観音寺は大同元年(806)田村将軍の創建になる。元和2年(1616)の再建。この楼門は立派である。
 旧中山道は前述した関所跡から鉄道の東側、川縁の方を通っていたが、今は消滅して通れない。従って鉄道を陸橋で越えて下って行く。すぐに贄川駅である。私はここから電車で奈良井へ戻り駅近くの「あぶらや」という旅館に泊まった。名の通り昔は油を売って居た店で、明治以後、旅館として営業して居る。建て変えられて居るが古い家である。安い宿泊料のわりには食事を含めてサービスがよかったのが印象に残って居る。またここで出された地酒「杉の森」もなかなかのものであった。

☆行程 
藪原→鳥居峠→奈良井   5.5km   約3時間
奈良井→平沢→贄川    8km  約2時間半
 計   13.5km  約5時間半

☆地図 
国土地理院 2万5千分の1 藪原、贄川

☆参考 
ここもハイキングコースとしては最適。無理すれば日帰りも可能。しかし奈良井に泊まってゆっくりと行くのもまたよい。

 

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