(一三)木曾谷を行く(その一)    三留野…十二兼→野尻→大桑→岩出→須原

 「木曾谷を行く」という題名にしたが、実はここには旧中山道が残って居る区間が意外に少ない。旧道が残って居ても歩行は無理な所が多い。また残って居る旧道も途切れ途切れなので、交通不便な所を連続して歩くためには国道を行くことになるが、右は崖、左は木曾川の断崖という区間、しかも国道は歩行者を考えて造られて居ないから、疾走するトラック、車の危険、この上もない。
 それでも、中山道は別名「木曾路」というくらいだから、木曾谷の中心部を歩くポイントを紹介しないわけにはいかない。そこで、一部残って居る旧道とその周辺を紹介することにする。また国道を歩くよりも、対岸の細い道を行く方が木曽谷の風情を味わうに適している区間についても紹介することにした。
 藤村の『夜明け前』に、「木曽路はすべて山の中である。(中略)東ざかいの桜沢から、西の十曲峠まで木曽十一宿はこの街道に沿うて、二十二里余にわたる長い谿谷の間に散在していた。」とあっるが、その木曽十一宿はおよそ三つに分けられて、馬籠、妻籠、三留野、野尻を下四宿、須原、上松、福島を中三宿といい、宮ノ越、藪原、奈良井、贄川を上四宿といわれていた。下四宿のうち、馬籠、妻籠、三留野の手前まで前回歩いたので、これから三留野から須原、上松、福島、宮ノ越までを歩くことになる。ここでは
 (1)三留野…十二兼→野尻→須原
 (2)須原…寝覚→上松→福島→宮ノ越
の2回に分けて記すことにしたい。

 前回は南木曾駅裏まで述べたので今回は南木曾駅裏から三留野宿を歩きその先は対岸を歩くことにする。三留野から先は国道19号線で柿其橋の手前まで旧道はないからである。 営林署を過ぎた所に「読書小学校」というすばらしい名の小学校がある。あとで調べてわかったのだが、最近までこのあたりを「読書村」といった。明治7年、与川村、三留野村、柿其村が合併して新しい村ができたが、その名を付けるのに前の三村の頭の文字をとって「よ・み・かき=読書」としたもので、戦後他の村を合併し南木曾町となり、駅名も三留野から南木曾に改称した。こういういい地名は是非残しておいてほしいものだ。
 小さな橋、梨子沢橋を渡る手前を右へ入る。300mくらいの所にあるのが等覚寺。境内に円空堂があり「円空仏」を安置して居る。自由に拝観できる。評判の高い円空仏だが私は初めて見た。思って居たよりも小さい。素朴だという話しは聞いては居たが、反面、精緻、荘厳という雰囲気はない。
 旧道へ戻って橋を渡る。ここからが、元「三留野宿」だが古い町並の他は見るべきものは何も残って居ない。中ほど左手に三留野法務局の所が元の本陣跡だという。そこからしばらく歩くと崖に当たって人家が絶える。右へ曲がって行く道があり昔の「野川道」を修復したものだという。この先の木曾路は峻険で危険が多かったので、山側に迂回する道がつくられて居たもので、公家の姫君などが東下した時はたいていこのルートを通ったという。
 真っすぐに下りて行く旧道は鉄道線路を越えて国道19号線に合する。この先の旧中山道は、実ははっきりしない。今井本では国道19号線に吸収されて居るという立場をとって居るが、場所によってはもつと谷底の川沿いの道だったり、もっと崖上の細い径であったりしていた可能性が強い。また国道19号線は何回も整備されて曲折は多いがわりと平坦な道になって居る。従ってそれが旧中山道であった可能性はむしろ少ないと思われる。また車の往来が多く、前述のように歩行者があることを考えた道路設計になつていないから、これから先へ歩くことはおすすめできない。JR南木曾駅まで約1km程戻り、十二兼まで鉄道を利用するか、始めに述べたように連続して歩くつもりなら対岸を歩いた方がよい。 
 対岸の道へは、さきの等覚寺入り口の梨子沢橋の先から坂を下り、鉄道をくぐり、国道を越えて、小さな橋を渡る。その先に細い道が通って居る。この道は木曾の谷合の道であり、古道の一部であった可能性もある。柿其橋まで対岸の細径を歩いて橋を渡ると旧道がある。ここまで約5kmである。
 前述の対岸の細径を歩くつもりがなければ、JR十二兼駅を出発点にする。十二兼駅は無人駅で人家が数軒あるのみだが、人家の途絶えた先に鉄道踏み切りがある。踏み切りを越すと国道に合する。旧道はそのだいぶ手前、今は中央線複線化で廃止された踏み切りを越えて国道を横切り坂を上り熊野神社の横を通って居る。この神社も中央線の複線化工事で境内を削られ、社殿も移築された。旧道はこの先川で途切れ、国道まで下りて橋を渡り左に別れる。この先の旧道区間は、鉄道と国道に挟まれた林間の気持ちのいい区間である。間もなく木曾川をせき止めた読書ダムが見えて来る。踏み切りを渡り、しばらく木曾川沿いに行く。対岸は阿寺。再び踏み切りを越えるとちょっとした平地が開ける。対岸への道を分けた先に薮のように残って居るのが「野尻一里塚跡」である。
 野尻の宿は、木曾路名所図会に「此駅いにしへは野路里と書す。駅中東西五町余、相対して巷をなす。その余山間に散在す。」とあり、別の案内記では「宿よし、名古屋領」、宿の規模としては、人別、男490人、女496人、計986人、本陣1、脇本陣1、旅籠19で木曾の宿の中では中程度の規模である。宿の西口から右へ入る坂道を国道を越えて上って行くと、山裾の林の中に図絵所載の「牛頭天王」がある。現在[素佐男神社」といい、かなり立派な社殿がある。そばに「覚明社」があった。かなり荒れているが、棟札を見ると昭和43年のものがあった。つい20年ほど前まで御嶽信仰にかかる覚明は支持されて居たことがわかる。また元脇本陣の先の細い道を右へ行き国道を越えた所にあるのが「妙覚寺」である。木曾図会に臨済宗、法雲山とある寺。庭に観音像があり、俗に「マリヤ観音」と呼ばれて居る。宿の町並は何度も火災に遭い古い建物はあまりない。前述の元脇本陣は現木戸氏宅で表示がある。突き当たりが高札所跡、ここが「ハズレ」で野尻宿の東の入り口であった。左折し旧道は二股を左に行く。坂道を下り、踏み切りを2度わたり、その先で国道に合する。今井本には旧道がなお続くような地図が載って居るが、旧道は消滅して1.2kmほど国道を歩かねばならない。この区間は歩道があるので危険はない。鉄道のトンネルの先に右折しすぐ踏み切りをこえて行く道がある。これが旧道で大桑の集落に入る。郵便局のあたりが「長野」で、木曾図会に「長野 東山道の中にあり、駅次に非ず。民居潤(たに)を隔て山に倚りて住居す。」とあるところである。また「木曾殿館 長野にあり。下馬および廐・的場等の遺跡あり。」云々とあるが、その跡らしい五輪塔が民家の裏にあるという。この先が弓矢、珍しい地名だが由緒は知らない。ここから細い道が右に別れる。「古道」で木曾川の谷を避けて山越えし大島で旧道に合する。旧道は左に行きすぐ国道になり木曾川の崖上の道を通過する。鉄道トンネルの出口の上で再び旧道が右に別れて行く。小学校の先で前述の古道が右から合して来る。ただしこの古道は全部残っているわけではなく、途中途切れて居るので道に迷わぬよう注意する要がある。大島から先は旧道が須原まで続いている。
 時間と体力が許せば、弓矢から大桑橋を渡り木曾川の対岸に行ってみたい。大桑側よりむしろ平地が広く、古い集落が散在して居る。ここで訪れたいのは、池口寺と薬師堂、池口寺は承平七年(937)開山、暦応三年(1340)再建という古い寺、だが今はふつうの民家のようだ。それから500mほど行った山の中腹にあるのが「白山神社」。覆堂に覆われた白山、伊豆、熊野、蔵王神社の4つの社殿がある。元弘四年(1334)の建造で重要文化財になって居る。元弘四年というと建武元年で、鎌倉幕府が滅びた年の翌年である。よくこんな山の中に立派な建物が建てられ、しかも今まで保持されて来たものだ。無人だが訪問者のノートには、私の前に来た人は1987.6.10.とあった。私がここを訪れたのは同年7月11日でほぼ一月前に来られた人が居るということだ。なおこの先15分ほど行った道端の小屋に千体地蔵が祀られて居る。小さな木彫りの地蔵像が小屋一杯に飾られて居る。
 旧中山道に戻る。大島を抜けると伊奈川の谷に出る。ここに架かるのが英泉の描く「伊奈川橋」である。谷川の崖にわずかに作られた細い道、そして猿橋のような木の橋、遠景は山の上にお堂が見える。木曾路の峻険な様を余すところなく描いた傑作である。「木曾路駅 野尻 伊奈川橋 遠景」と題している。無款だが、保永堂の印があり、英泉の作とされて居る。現在の伊奈川橋は鉄筋コンクリートの立派な橋で、この絵を想像するのは難しい。またこの絵にあるお堂は、岩出観音堂で橋を渡ったすぐ上に今でもある。本尊は馬頭観音、無人だが最近修復されたらしく手入れも行き届いて居る。
 このあたり橋場、家並みが続く。家並みが途絶えた先に踏み切りがある。それを越えると間もなく須原である。須原の町中には清い用水がとうとうと流れて居る。舟形樋というその清い水を汲み溜める舟の形をした木製の器が随所にあり、今でも使われて居るようだ。これは一見に値する。
 須原宿の入り口にあるのが定勝寺である。その寺の前に前述の舟形樋があり、句碑もある。石段を上り山門をくぐる。この山門は桃山時代の様式で、本堂、庫裏ともに重要文化財に指定されて居る。境内も広く、建物も風格があり、良い寺である。本尊釈迦仏、寺宝も多く、特に達磨大師の座像は圧巻である。
 須原宿は度々災害にあって居る。正徳五年(1715)木曾川の洪水で宿場の殆どを流され、その後もしばしば水害を受けた。慶応二年(1866)には大火に見舞われ宿場の殆どすべてが焼失した。それでも雁木造りの格子のある家、前述の用水、風情のある町並である。また藤村ゆかりの清水医院跡は、今その建物は明治村に移築されて居る。その先に元の旅籠、柏屋の建物が残って居る。
須原駅のすぐ先で国道に合する。この先一部旧道が残っている所があるが、小野の滝の先まで国道を歩かねばならない。


☆行程 
南木曾駅→三留野→対岸の道→柿其橋→十二兼駅   約7km   2時間
十二兼駅→野尻→大桑→伊奈川橋→須原駅     約12km   5時間
弓矢から大桑橋を渡り対岸を廻り往復    約5km   1時間半

☆地図 
国土地理院2万5千分の1・三留野、南木曽岳、木曽須原


 

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