(九)絶好のハイキングコース・美濃の山道(その一)    御嵩→謡坂→細久手

 このコースはハイキングには表題のように最適である。ただ距離が長いのとアップダウンのきついかなりの山道なので、このコース全部を歩き通すのは、健脚でないと難しいかもしれない。だが昔の人は足弱といわれた女性でも御嵩朝立ちで次の宿泊は大井まで行ったのである。前掲の『壬戎紀行』では御嵩泊まりの次は大井泊まりとなっている。また他の道中紀では御嵩から一挙に落合(大井から二つ先)まで足をのばしているのもある。しかし見物しながら歩くとすればやはり1泊2日か2度に分けて歩いた方がよい。
 さて名古屋から名鉄犬山線で直通もあるが、途中犬山か新可児乗り換え「御嵩駅」下車、新可児からは「レールバス」が走っている。初めて乗ったが思っていたよりも車内は広いし、スピードもある。駅のすぐ前が十字路、左へは大田、京への道、真っすぐの道がこれから辿る大井、中津川への旧中山道である。その角に大きな寺がある。願興寺というが「蟹薬師」として有名である。平安時代初期、弘仁6年(815年)傳教大師が彫刻したと伝えられる1寸8分というから6cmくらいの大きさの薬師如来像を本尊にしている。他の仏像とともに国の文化財として宝物館に収められて居る。霊験あらたかだというので、今でも広く信者を集めて居る。本堂は天正9年(1581年)に再建された宏壮な伽藍で県の重要文化財となっている。
 時間があれば、出発前に訪ねておきたい所がある。それは「愚渓寺」である。 駅前から旧道を京へ向かって歩く。200mくらい先で鉤の手に左へ曲がって行く。そして更に500mくらいで右へ曲がる。このあたりは宿はずれだが、古い家並みが続く。間もなく国道21号線にぶつかるが、これを横切り500mほど坂道を登ると、右手に学校が見えて来る。その奥にあるのが「愚渓寺」である。大智山と号し、臨済宗妙心寺派、應永年間(1394~1428年)細川勝元の建立になる。ここの石庭は京都竜安寺のそれの原形とも言われて居る。私は竜安寺の石庭は何度も見て居るが、有名になりすぎて行く度にいい雰囲気が壊されて居る。その点ここは、誰も居ないところで静かに石と語ることができる。整備もいいし、しかも見学者に自由に開放している。
 ここから真っすぐに下り国道を越えて近道すれば、先に通った旧道に出る。駅前まで戻り、いよいよ出発、前述した蟹寺から先が元の御嵩宿の中心だった所で、本陣等の古い建物はあまり残つて居ないが、宿場町の古いただずまいを味わうことは出来る。上町のところで道は二つに分かれる。左が旧道、右は可児川に沿って行く道となる。旧道はすぐ国道21号線に合する。1km半程度の距離だが車が多くて歩きづらいので、右折して金峰神社の山の裾を可児川の流れに沿った田舎道を行く方がよい。国道を歩けば右側、可児川沿いの道を歩けば左側に小さな山があり、ここに祠られているのが丸山の稲荷社、そのすぐ先が井尻で「和泉式部廟」がある。和歌で有名な和泉式部がこの地で病んで死去したと伝えられる。石碑は古くかなり大きいもので、まわりを柱で囲い屋根で覆っている。右肩に「寛仁三乙未天」とあるが、西暦1019年で藤原道長が出家した年に当たる。紫式部はその3年前に死んで居る。この刻字が正しいとするとちょうど時代が合うのである。左には彼女の

「ひとりさへ渡れば沈むうき橋に あとなる人はしばしとどまる」

という和歌が記されて居る。
 そばに道標がある。そこを入って行く道が旧中山道である。ここからのルートは「東海自然歩道」とも大部分重なって居て、補修もよくされ、道標も整備されて居るので、歩きよいし迷うこともない。先にハイキングに好適だというのはこの意味もある。
 その道標から入ってくねくねした山裾の道を行くことおよそ15分、ここからがいよいよ山道となる。「さいと坂」別名「牛の鼻かけ坂」ともいい、あまりの急坂なので牛の鼻がかける程だったという。途中に寒念仏供養塔が崖側の石室にある。その坂を登りきり下った所が西洞(さいとう)の集落である。現在はこの坂は通らず別のルートで広い道が出来て居る。その道と集落の入り口で合する。再びやや登り坂になるこの広い道を少し行くと、左側の崖の中腹に「耳神社」がある。耳の悪い人が錐を奉納すると治るといわれている。社殿は小さく古ぼけては居るが、今でも信仰する人がいるとみえて、願札とともに錐が何本も奉納されて居た。
 そこを過ぎると二股道となる。広い道は左へ、旧中山道は真っすぐに入って行く。小さな集落があり、宮石という。集落を過ぎると細い坂道になるが、石畳の道がかなり長く続く。江戸時代そのままのものが残って居るとしたら、たいしたものだと思うが、草や苔などの状態からみて多少補修はされているとしても昔のままの石畳の道が残って居ると考えたい。この坂はずつと続くが「謡坂」(うとうさか)という。地名の由来を詮索するときりがないが、今井本では道中の人々がこの坂で唄を歌って疲れをまぎらわしたので「うたいさか」という名になったと説明して居るが、"谷合の狭い坂道を「うとう」といい、「謡」「善知鳥」「宇東」「鵜頭」など当て字は違って居ても同じような地形の所で、全国各地にある地名"だという地名学者の鏡味完二の説の方が妥当だと思う。前回鵜沼の先にあった「うとふ峠」もこのひとつである。
 この坂を登りきった所に「十本木茶屋」の跡がある。今古い農家の廃屋があるが、それが該当するものかどうかは不明。そばに「十本木一里塚」跡がある。立派なな塚が残って居る。「謡坂」はまだ続く。そうきつくはないが、アップダウンがかなり繰り返される。途中に人家のある所、地図では「謡坂」として(オトサカ)とルビをふつている。また「一呑清水」「唄清水」など清水の涌いて居るところが何カ所かある。昔の旅人にとって飲料水は貴重だったから、いい清水が涌くところは大事に保養され、周知もされて来た。今はただ道端に涌く水があるという程度の実感しかない。唄清水の所から坂は急になる。登りきつた所に見晴らしがあり、「御殿場」という。昔大名行列が休憩した所だという。ここから下り坂、「もちの木坂」という。かなり急である。
 下りきった所が津橋の集落だが、その手前の竹林の中に観音堂があり数体の石仏があった。津橋はちょっとした盆地になっている。盆地を横切って再び登り坂になる。旧道の登り口には少し迷う角があるが、細い道の方へ行く。険しい坂で「くじあげ坂」という。途中、石室に入った地蔵がある。このあたりが御嵩町と瑞浪市の境である。
 この先に「鴨之巣の一里塚」が残っている。両側ともあるが、配置が20mぐらいずれている。地形の関係でそうなったのだろうが珍しい。石標に「之より京へ四十一里」とあった。江戸からは九十三里目だから1/3弱を歩いたことになる。
 そこから林の中の道を行くこと15分くらい、少し開けた所に 「右、旧鎌倉街道迄約一里余」とある石標があった。ここが「日吉ケ辻」で南へ入る道が鎌倉街道へ出る道である。再び林の中の道、少し行った所にあるのが「平岩秋葉三尊」である。左手台上に古びた石室があり、中を3つに分けてそれぞれに石仏が安置されている。 道はここから下りになる。下りた所が平地で道が二股になっている。一方の道が広くて真っすぐないい道なので、反対方向(つまり東京、大井方面)から来たら標識がなければ多分迷うだろう。すぐ平岩の集落で四つ角に当たる。平岩辻という。真っすぐに行くのが旧中山道だが、左折して有名な「平岩」を見る。100mほど行くと左手崖下に八幡神社があり、その後ろの崖面に大きな岩が露出して居る。これが「平岩」である。この先10分程歩けば中世美濃の守護だった土岐氏ゆかりの開元院がある。「東海自然歩道」はそこを経て別のルートを通り細久手で旧中山道と合する。 
 さて平岩辻まで戻り旧中山道の細い登り坂の道を行く。20分程で細久手である。宿入り口に日吉愛宕神社がある。前述した「東海自然歩道」はここに出て来る。細久手宿の中程に「大黒屋」という昔の旅籠そのままの家があった。土間があり子供が遊んで居る。今井本には今も営業して居るとあったので、声をかけてみたが誰も出て来ない。古い看板がかかって居るが泊まる客があるかどうか?。左手崖の上に庚申堂がある。昔から細久手の庚申さまと旅人に親しまれてきた。多数の古い石碑が立って居る。このお堂から細久手宿が一望できる。バスは瑞浪からここまで来て居るが、一日に何本もないし休日運休なので、ここから戻るとすればタクシーを呼んだ方がよい。

 

☆行程 
御嵩→細久手 12km  御嵩町内見物等 3km  計 15km  約5時間

☆交通 
御嵩まで  名古屋から名鉄犬山線、犬山又は新可児乗り換え(直通もある)   約1時間半、 1時間に2本
細久手から 瑞浪までタクシー、瑞浪からJR中央線

☆地図
 
国土地理院 2万5千分の1 美濃加茂、御嵩

 

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