(七)美濃平野の旧中山道(その一)
赤坂→美江寺→河渡→鏡島→加納
赤坂から美江寺を経て現在岐阜市の加納までは、美濃平野の田園地帯の真ん中を通過する気持ちのいいコースである。ただ旧道部分が立派に舗装されたため、車が頻繁に通るのに煩わされのが欠点で、また旧道部分が埋没し、或は廃絶して居る区間も多い。またこの区間には伊勢湾に注ぐ、揖斐川、長良川、木曾川などの大河とその支流、分流などと、そして大小河川が幾つもあり旅人の行く手を阻んで居る。今はすべて立派な橋が架けられていて渡るのに何の不便もないが、昔はどのように越えたのだろうか。川を渡るのは昔は大変なことで、特に政治上の理由で東海道のように橋を造らず、所によっては舟の便もなく、徒ち渡りか、大井川のように人足渡しで不便この上ない状況であった。この区間では大体に於いて舟渡しで、小さい川では橋が架けられて居たようである。当時の様子を、太田南畝の壬戎紀行で見てみると、赤坂から三つ屋北方村の立場まで土橋ふたつばかり渡り、ろく川(現在の揖斐川の元の流れ)は舟で渡り、美江寺の手前で土橋、その先のいぬつき川は板橋、そして合渡(ごうど)の駅を過ぎて合渡川(現在の長良川で当時の流れ)を舟で渡っている。たいした苦労はして居ないようである。しかし木曾川を渡るのは大変だったようで、中山道の最大の難所の一つであった。「木曾のかけはし、太田で渡し、碓井峠でなくばよい」と歌われた程である。現在の美濃加茂市の太田から対岸の今渡まで舟で渡したが、当時の木曾川は現在では想像も出来ない程の急流で、太田南畝は壬戎日記で「太田川を渡るには、一町ばかり川上より舟にのるに、流れ急にして目くるめくばかりなり。此川上は木曾川と飛騨川と落ちあひて流るゝゆへにかくのごとし」云々と記して居る。
さて赤坂宿のはずれは前回述べた浅間神社で、昔赤坂港があった跡だという。杭瀬川は昔このあたりを流れており水運の重要な基地になって居た所である。この元杭瀬川にかかる赤坂大橋を渡ると道は二つに分かれる。左の道が旧道である。20分も歩くと近鉄の踏み切り、東赤坂の駅がある。そこを過ぎると、道は鉤型に何回か曲がる。そして旧道は田んぼの中の一本道になる。十字路に当たり立派な石像が立って居る。道標にもなって居て、「右ぜんこうじ道、左谷汲山、ごうど、いび道」と彫ってある。谷汲山は華巌寺があり、この寺は西国三十三ケ所札止めの観音霊場として有名である。
ここから再び田んぼ道、平野井川の土手につきあたる。その土手の道を行くと右から来る道がある。大垣からの道である。その先に道標がある。「右すのまた、左きそじ」と読める。墨俣への道を右にし、橋を渡る。前方にも長い高い土手が見える。その間にある集落が柳原、呂久で、途中小さな川を渡るが、これがもとの揖斐川で、橋を渡った所に小公園がある。「小簾紅園」といい、皇女和宮が江戸への道、ここで小休止され舟を仕立てて行かれたという。
前述の長い高い土手は現在の揖斐川の土手で、そこに上がると、大きな橋がある。鷺田橋である。この橋を渡り、少し戻って土手下の道を行くと斜めに右に行く道がある。これが旧道である。河川と道路が改修されたので注意しないと旧道に入れない。田んぼの中の道を行くこと20分、巣南中学があり、町役場がある。「巣南」とは奇妙な地名である。恐らく幾つかの町村が合併して出来た町だと思われるが、最近の住居表示で地名変更された例と同じく知恵のない人々の手で作られた地名の典型といえよう。
小川に沿ってしばし歩き新月橋を渡ると集落に入る。昔の美江寺の宿である。短い間だが、古い町並が残っている。突き当たりが広場になって居て脇に秋葉神社がある。ここが旧美江寺跡で室町時代末期岐阜市内に移され、地名だけが残った。この間の事情は『木曾路名所図会』(秋里籬島著、文化2年版1805。)に詳しい。
「この宿内、権現社の地旧跡なり。美江寺観音は、養老年中伊賀国より当国本巣郡十六条村に移し勅願所を建立ある、これを美江寺という。(中略)土岐持益この寺において薙髪す。その時子院二十四ケ寺あり。永禄年中兵燹に亡び、信長公岐阜今泉村に再興し、本尊ここに安置す。寺領十石。この所廃寺となりてただ地名にのみ残れり。」
ここは宿としては小さく、江戸時代中期の記録では宿内人別 男302人、女280人、計582人、本陣1、旅籠11、総家数136軒で、今もそのくらいの人家しかない。
右折してしばらく人家があるが、樽見鉄道の踏み切りを越えると田んぼの中の道となる。本田(ほんでん)の集落に入り、川を渡ると生津(なまづ)。道は弓なりに右に向かう。広い道と交差するがこの先は区画整理、道路整備が行われたので旧道をたどることはできない。長良川の土手が見えて来る。手前の集落が河渡(ごうど)である。河川氾濫、改修や戦災のため見るべき古いものは残って居ない。土手に上り河渡橋を渡り、すぐ左折し土手を下りた所が鏡島(かがしま)である。今は岐阜市西鏡島となっている。ここまで名鉄新岐阜駅から頻繁にバスが通って居る。昔はこの地から河渡まで舟渡しがあった。また「鵜飼い」が行われて居たのもこの河岸で、英泉の「岐阻路、河渡駅」の絵はこの河岸の鵜飼いを描いて居る。現在、鵜飼いは少し上流の長良橋のあたりで行われて居る。
ここから岐阜市内を横断し、同じく岐阜市内の加納宿を経て各務原市内の那加まで、一部断続はあるがかなり長い区間旧道が残って居る。車の往来が激しい所もあるが、歩行にはそう支障はない。岐阜市内は戦災であらかたの古い建物を失ったが、鏡島から古市場のあたりは戦災を免れ古い町並が残って居る。この旧道から少し左に入った所にあるのが、鏡島の弘法さんとして知られて居る「瑞甲山乙津寺」である。寺傳によれば、開山は天平10年(738)行基が自作の十一面千手観音像(重文)を安置したのに始まる。その後弘法大師が来山し秘法を修し宝鏡を竜神に捧げたところ、当時この地は周辺は海で「乙津島」という島であったが、その周辺の海が陸地に変じた。そこでこの地を鏡島というようになったという。縁日は毎月21日で参詣人で大いに賑わうという。私の訪れた時は広い境内はひっそりとして居た。なお本尊十一面千手観音像は9世紀のものと推定され、他に鎌倉初期のものとされる寄木作りの「毘沙門天像」、また鎌倉末期作と推定される「韋駄天立像」が宝物館に安置されて居る。
旧道に戻り、少し行くと二股がある。右の道をとる。広い道路を二回横断、本荘町に入る。東海道線の踏み切りを渡り、すぐ左折、しばらく行って二つ又で斜めに右へ行く道をとる。間もなく元の加納宿である。広い道路を越え5分程歩くと秋葉神社があり、その横に「西番所跡」の標識があった。ここからが昔の加納宿である。古い建物は殆どないが、町並は昔の面影を残して居る。岐阜駅の南口に至る道を越えると「加納天満宮」の参道がある。文安2年(1445)守護代斎藤利永が沓井城(後の加納城)を築いた時天神を城の守護神としてまつったのが始まりだという。後徳川家康により現在地に移された。歴代城主をはじめ地元の氏神として庶民の信仰を受けて来た。社殿は戦災で消失し戦後再建されたものだが、境内には過去奉納されたものが幾つも残って居る。
旧道に戻りすぐ左側にあるのが、元の本陣跡だが道端に説明板があるだけで今は何も残って居ない。続いて和宮降嫁の際宿所となった本陣跡、ここも何も残って居ない。このあたり加納本町という。加納宿は宿場であると同時に城下町でもあった。この通りの南に加納城址がある。徳川家康が関が原戦後、城を築かせ奥平信昌に守らせ、岐阜城は廃城とした。城主は江戸時代しばしば変わったが、明治に廃城になるまで続き、今は本丸跡だけが残り公園になって居る。
旧道はこの先鈎型に曲がって行くが、付属小学校前で広い通りを越え左折、再び先の広い通りを越えてすぐにあるのが専福寺、この先を右折。また先の広い通りを越える。この辺、現在加納柳町という。善徳寺という寺の門前あたりに加納宿の東番所があったというが、今は表示のみで何も残って居ない。ここまでが、加納宿で小さな橋を渡り旧道は続く。広い道(城東通り)を越えるとT字路になる。角に道標があった。左へ行く道が岐阜道である。ここを右折し橋を渡ってすぐ左折。次ぎの角で名古屋、伊勢への道が分かれる。すぐに名鉄の踏み切りがあり、茶所駅がある。
赤坂からここ加納のはずれまで、およそ21km、歩行約6時間半、車の往来があるのでのんびりとはいかないが、歩くには変化があって興味深い区間である。なお現在は加納の町は岐阜市内南部の一部であるが、江戸時代には岐阜と加納は全く別の地域であった。加納は城下町で中山道の宿場町、当時の宿場としての規模は宿内人別、男1296人、女1432人、計2728人、宿内総家数805軒、内本陣1、脇本陣1、旅籠35で、中山道の宿場町としてはかなりの規模である。
だが旅人は岐阜へ寄る者が多かったらしく江戸時代の道中案内記などは岐阜に多く説明を割いて居る。岐阜は土岐氏以来の古い伝統があり、織田信長が本拠として栄えた所だが、江戸時代徳川家康によって城は壊され明治に至る。だが商人の町として賑わっていたようで、江戸時代の道中案内の一つ『木曾路の記』には
「岐阜の町は人家多くしてひろき所なり。富める商人多くにぎはし。岐阜に稲葉山あり。名所なり。」云々
とある。また『木曾路図会』には、河渡のところで
「岐阜、この所は周の岐山になぞらへて名付けし所なり。むかしは斎藤竜興が居城なり。それより稲葉山の城に織田信長公移りたまいてのち、岐阜と改めらる。」
とし次にかなり詳しく岐阜について名所などを記述して居る。
☆行程
赤坂駅→呂久→美江寺→河渡→鏡島→加納宿→名鉄茶所駅 (鏡島弘法に寄って) およそ24km、約6時間半
岐阜市内 名所旧跡探訪 およそ半日
☆交通
赤坂へはJR赤坂駅、大垣からもバスが頻繁にある。
加納からは前述の名鉄茶所駅利用、JR岐阜駅も近い。
☆地図
国土地理院 2万5千分の1 大垣、岐阜西部、岐阜
昭文社 都市地図 岐阜市
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