(四)近江の中山道(その三)    高宮→鳥居本→摺針峠→番場→醒ケ井

 高宮の宿はずれで、近江鉄道の踏み切りを渡り松並木が数本残る道を行くと、右に小高い丘、左に屹立した岩山があり、その上に「岩清水神社」がある。江戸時代の古い道中案内記にそっくりな光景が画かれて居る。この手前に道標がある。「左は彦根みち、右は多賀道」とある。ここから鳥居本を経て摺針峠を越え番場を通って醒ケ井まで行く道は、旧道が大体残っており、変化にも富んだ歩くに楽しいコースである。それに歩行距離も15km程度でそう辛くない。
 名神高速道路彦根インターが見える手前に深い社叢のある神社がある。春日神社で前に溜池が有り、「地蔵池」という。まわりは田んぼが散在し、かっては鄙びた農村風景であったと思われる。だが一部残っているこの風景も、新幹線と名神高速道路が迫って来ており、開発も行われて居るので、日ならずして工場やトラックターミナル等にされてしまうのではなかろうか。
 その彦根インターの取り付け道路をガードでくぐる。すぐ左手にあるのが「原八幡社」。最近、社殿新築、境内も整備されたらしく、古い街道筋とはむしろ違和感がある。その奥に芭蕉の句碑があった。 

「ひるがほに 昼寝せうもの床の山」

と彫られて居る。小さな集落だが、そこを抜けて新幹線のガードをくぐり、名神高速道路に挟まれた道を行くと、小野の里に入る。小野の小町の生地とも死没地ともいい、小町塚という石の塚があり小野の小町の墓だという言い伝えがあるが、あまり信じられない。しかしここ小野の里は延喜式にも出て来る古い宿駅で、2つの近代的施設つまり新幹線と名神高速道路さえこんなに近くになければ、古い田舎の宿駅のただづまいが味わえる。
 この集落をはずれてしばらく行くと左折する道がある。その角に道標が立って居る。「左 中山道、右 彦根みち」とある。これが「朝鮮人来朝道」で彦根から八幡を経て野洲に至る街道で将軍が上洛の時利用した重要なルートでもあった。これは、さきに野洲の町を通過した時左折して行った道である。
 ここからが鳥居本の宿で、江戸後期の道中案内である『木曾路名所図会』によると

「多賀社の鳥居、この駅にありしより名づくる。今はなし。彦根まで一里、八幡へ六里、此駅の名物神教丸、俗に鳥居本赤玉という。此店多し。」

とある。これが宿名の由来だが、鳥居は今でもない。神教丸なるものを作って居る所が一軒だけ残って居る。古い町並が続く中に珍しいのは、「本家 合羽所」と大書してある合羽(カツパ)の形の看板がある家があることである。
 「此駅にまた雨つつみの合羽ひさぐ家多し。油紙にて合羽をたたみたる形をつくりて合羽所と書しあり。江戸にて合羽屋といへるものの看板の形なり。」と同じ時期の「壬戌紀行」に記してあるものが、いまだにそのまま残って居るのは極めて珍しい。
 私も合羽の現物は博物館等で見て居る程度の知識しかないが、こういう形で見るのは初めてである。「合羽からげて三度笠」とやくざの標準装備のような感があるが、一般の旅行者の必需品であった。だからこういう宿駅で大量に作られ売られていたのである。今はもう看板だけで作っては居ないと言うことである。ちなみに、広重の「木曾街道六十九次」の番場の宿(次の宿)の画には合羽を着た旅姿の人が描かれて居る。
 この町並をはずれると国道に合する。それを50mくらい行くと右へ曲がって行く道がある。これが旧中山道で、真っすぐ行く国道は元の「北国街道」で長浜を経て越前へ向かう道である。私が通った時、このあたり崖を崩す等、開発の大工事が行われていて通りにくかったが、今はひょっとすると曲り角は変わって居るかもしれない。この道は曲がりくねったかなりの急坂だが、距離にして1km強、頂上が摺針峠で「望湖亭」があった。ここは琵琶湖、彦根を見下ろす絶景の地で、名所の一つとしてどの案内記にも記述されて居る。前出の広重の画の鳥居本の宿には、この地が描かれており、当時の風景をあます所なく伝えてくれる。遠く琵琶湖、その手前が鳥居本か彦根か、立派な茶屋の建物もある。その前の縁台には何人かの旅人が休んで居る。この茶屋が「望湖亭」で、和宮降嫁下向の時には建て変えられたというし、明治天皇東行の折りにも小休止された茶屋本陣であった。今もその建物は残って居るが無人で中の見学はできない。
 そのすぐ上に小さなお堂がある。峠の明神、神明宮である。この峠の下り口に2〜3戸の家があるが昔からの家なのかどうか不明。この先は下り坂、途中名神高速道路のトンネルの上に出る。ここを「小摺針峠」という。現在彦根市と米原町の境界になつている。ここからは、元の道は名神高速道路のため壊されて今はない。西番場まで高速道路の脇に細いじゃり道がついている。西番場からは古い町並が続く。東番場の公民館の先を右折、高速道路のガードをくぐった所にあるのが「蓮華寺」。立派な山門があり、以前は街道筋から見えたというが、今は高速道路に遮られガードをくぐって初めて見られる。
 ここには鎌倉幕府の六波羅探題であった北条仲時ら一族郎党430人余の墓がある。元弘3年(1333)後醍醐帝が隠岐から京へ復帰、この時京を守っていたのが北条仲時で、足利高氏らが寝返って南朝方についたので戦いに敗れ、この地まで逃れたが佐々木道誉らによって討ち取られたという。寺の裏の山の斜面にかなりの数の古い墓がある。
 また、浪花節などで有名になった「番場の忠太郎」の地蔵があり、墓まで作られている。長谷川伸の「瞼の母」の主人公で実在の人物でないことは言うまでもない。
 再びガードをくぐってもとの道に戻る。このあたりが昔の番場の宿場であった所で、「明治天皇番場小休止所」の碑が建っている所に脇本陣があったはずだが、今は何も残っていない。その先に左へ行く道があり、角に道標が建っている。「米原、汽車、汽船道」とある。明治になつて建てられた道標と思われるが、江戸時代にもここから米原へ出、湖岸を大津や塩津まで船便が使われた。
 ここから久礼までつい最近まで並木道があつたようだが、現在は北陸高速道路と名神高速道路との米原ジャンクション及びインターができて騒々しい限りの所になっている。旧道は国道と交差して河南までつづき、国道に合して丹生川の橋を渡る。橋を渡るとすぐ右へ曲がって行くのが旧道、松並木が少し残っていて六軒茶屋の名残の家があるというが、私は確認出来なかつた。この先旧道は醒ケ井宿に入って行く。
 ここは、木曾路名所図会に「此駅に三水四石の名所あり、町中に流れありて至て清し、寒暑にも増減なし」とあるように、今でも道端近くに幾つかの泉と清流が勢いよく流れていてまことに気持ちがよい。すぐにあるのが「泡子塚」で、これには西行にちなむ伝説がある。ここから涌くのが「西行水」である。西行は

「水上は清き流れの醒ケ井は浮世の垢をすすぎてやまん」

という歌を残して居る。また西行が建てたといわれる五輪塔もある。次にあるのが「十王水」、十王と書かれた石灯がありこんこんと清水が涌いて居る。ここで地蔵川の小さな橋を渡る。この川は道の右端に沿って流れる気持ちの良い清流である。このあたりが元の醒ケ井宿の本陣などがあった所で、右側に立派な門構えのある家があり、前に「明治天皇御駐輦所」の碑が立つ。
 この少し先に地蔵堂、加茂神社がある。その下の清流の中にあるのが、「鞍掛け石」「腰掛け石」「蟹石」「影向石」などで、このあたりに清い泉が涌いて居る。これらの石にはそれぞれいわれがあり、鞍掛け石は日本武尊が鞍を掛けて休まれた所、腰掛け石は尊がこの石に腰を掛けて清流で伊吹山の毒気を清められた所だという。
 醒ケ井の名の由来は、壬戎紀行によると、「醒ケ井の水は古へより名高き所なり。日本武尊伊吹山にて大蛇をふみて山中の雲霧にあい給ひ、御心地なやましたりしが、此水をのみて醒めたまひぬとなん」とあるがいかにもありそうな所でいつまでも残しておいてほしいものである。前出の三水四石というのは、三水は「居寤の清水」「十王水」及び「西行水」、四石は「腰掛け石」「鞍掛け石」「蟹石」及び「影向石」をいう。なお影向石は以前は源海寺の竹林にあったものだが、名神高速道路の工事で前記の場所に移された。JR醒ケ井駅へはここから若干戻ることになる。

 

☆行程  
高宮から鳥居本、摺針峠、番場を経て醒ケ井まで約15km,4時間

☆交通  
高宮へはJR彦根または米原乗り換え、近江鉄道高宮駅下車
途中、鳥居本から帰る場合は、同鉄道鳥居本駅よりJR彦根または米原へ       
番場から帰る場合はバスの便もあるが回数は少ない。米原まで歩くかタクシーを利用するしかない

☆地図
  
国土地理院 5万分の1 彦根東部

☆参考
  
大阪方面からは、当然日帰りが可能だが、東京からでも日帰りができないことはない。一例を挙げると、東京7時30分発ひかりで米原10時2分着、近江鉄道に乗り換え高宮に11時頃着く。そこから歩き出して4〜5時間、醒ケ井からの帰りは余裕をみても、醒ケ井発17時33分か18時5分の下り電車に乗れる。米原乗り換え米原発18時30分ひかり東京着20時52分である。

 

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