(一)昔の旅を偲ぶ街道歩き

 私が昔の人の旅を偲ぶため街道歩きを思い立って三十年を越える。始めはハイキング程度の軽い気持ちであったが、歩くうちに街道の変貌、荒廃が著しく、早いうちに歩き、記録しないと古い街道は廃絶してしまうと思うようになった。しかし、仕事の合間の休日を利用するため時間が思うように取れず、旧東海道を江戸から京へ歩いて上るのに二十年以上もかかってしまった。帰路は旧中山道を通って江戸まで下ることにした。東海道の場合には、長年月をかけて歩いたためその後の変貌が著しく、再度訪れたところではわずか十年、二十年の時の違いとは思えない程変わって居たところが多い。そこで、どうせ歩くなら今度はなるべく短期間に京から江戸へ帰り着けるように、日程を組んで計画的に歩くことにした。それでも仕事の合間をみて少ない休日を割いてに出掛けるので、限られた時間で歩いた区間数は多くなり32にも達し、期間は三年以上にもなった。
 以下述べるのは、この旧中山道を京から江戸まで歩いて下った旅の記録の一部である。昔の旅を偲ぶには歩くことが前提である。自動車で通過したのではその目的は果せない。また宿場や著名な所だけつまり点だけをいくら多く訪れても昔の旅を偲ぶことはできない。点と点の間の線の旅にこそ、昔の人の旅の喜びも苦しみもあったはずだからである。事実そういう所に、隠れた祠や道祖神、或は古い伝説の跡が残って居る。それらは街道を点でなく線で歩かなくては見付けられぬものなのである。最近、古い宿場、街道などを紹介する出版物が氾濫して居る。テレビで紹介されることもある。しかしながら、それらには殆どすべて私のいうこの視点が欠けて居る。街道を紹介するといいながら、見せ場の点だけを幾つか大きく取り上げて居るにとどまる。私も街道を歩くために、これらの出版物をずいぶん集めたけれども、一部を除きあまり参考にならなかった。
 中山道は東海道と違い山中を通るので、交通の便がよくないところが多い。それが回数と日数がかかった理由だが、反面、それがかえって昔からの街道のよさを随所に残して居る原因ともなっている。従って歩く楽しさは、開発という名の破壊をうけていないところが多いだけに大きいし、山中歩行の苦しさはあっても車に煩われない利点もある。
 そこで、以下『旧中山道の面影を辿る』のに良い区間を紹介することにしたい。これらの区間のかなりのものはそう遠くない将来廃絶されるか、通行が困難になると予想されるので、可能な限り詳しく記述することにした。但し、現に通行困難な旧道もあり、通行可能でもトラック、自動車の疾走する中を歩く区間では危険を伴い、廃棄ガスを浴びることになるので歩行は薦められない。そういう区間は割愛するかコメントするにとどめた。  ここで「中山道」についてその概要を簡単にふれる。
 中山道は江戸日本橋から草津まで百二十九里十丁(約507km)、この先大津を経て京三条大橋まで百三十五里二十八丁(約533km)、この間67の宿駅があり草津、大津を含めて中山道六十九次といって居る。東海道は百二十六里六丁(約492km)五十三次と比較して41kmも長く、宿場は16も多い。
 中山道は中仙道と記した例も多いが中山道と書くのが正式だとされて居る。また木曾路、岐阻路と記している例も多い。いずれにしても、徳川幕府の五街道の一つとして制定されたもので、東海道とともに江戸と京を結ぶ重要幹線として維持され利用されて来た。
 古くをさかのぼると「東山道」といわれた。これには二つの意味があり、「道筋」としての意味の他「地方」という意味があった。これは畿内、東海道、東山道、北陸道、山陰道、山陽道、南海道及び西海道という行政管区のような意味である。この点については本論と関係がないので言及を避けるが、道筋としての「東山道」は大和、難波から信濃、毛野(北関東)への重要なルートであった。美濃中津川までは後世の中山道とほぼ同じルートを辿り、その先木曾山脈の峻険な山道を越えて伊那谷に出、諏訪から佐久を経て上州に出たものとされて居る。現在そのルートを探るのは極めて難しい。
 中山道は前述のように、距離も長いし峻険な山中、谷あいの道が多いのに意外に利用は少なくなかった。公式なものとして「日光例幣使」の下向にこの道が使われた。東下する姫君のかなりの多くがこの道を通った。幕末徳川家に降嫁した和宮の中山道による下向はその一つの例である。幕府の役人の公用旅行で往路は東海道、帰路にこの道をとった例も多い。参勤交代の大名では、加賀藩、高田藩などが利用した。また善光寺参りの人々がこの道を通行した。
 しかし、東海道に比べて人や荷駄の往来は格段に少なく、従って各宿駅の設備も粗末だったのは否めない。狂歌師、蜀山人として有名な太田南畝は木曾路の紀行文・壬戌紀行で随所に「わびしき宿なり」「駅舎のさまわびし」「駅わびしきところなり」とコメントして居る。当時の記録で比べてみると、各宿場の人別(人口)は東海道では千人未満の所が53次のうち8駅であるのに対し、中山道では逆に千人以上の所が67駅のうち28駅しかない。つまりそれだけ宿場の規模が小さかったということだ。

 この旧中山道を完全歩行するに当たり、種々の文献、案内書を集めて調べた上ででかけたが、実際に歩いて一番役に立ったのは、今井金吾著「今昔中山道独案内」(文中引用する場合には「今井本」と略記した)である。一部、非現行な点、私見と合わない点があるが、私が確認した限りで訂正した。なお、私のこの文も歩いた時点から年月が経っており、非現行の部分が出て居ると思われるので、可能な限りで再度出向いて補正したが、それが及ばない所もある。
 なお、古い紀行文、道中案内で比較的容易に手に入る或は図書館等で目にすることができる本、資料を挙げると、次のとおり。

a.「木曾路之記」 貝原益軒、貞享乙丑(1685)、益軒全集第7巻所収
  武城から西に帰る途中、岐岨路を経て、不破の関より越の敦賀に出、転じて湖岸の西を通って大阪に戻った時の紀行文で、簡潔だが江戸中期の中山道の様子がよく分かる。
b.「壬戌紀行」 太田南畝 享和2年(1802)、太田南畝全集第8巻所収
  幕府の役人であった太田南畝が大阪での任務を終えて江戸へ帰る際、中山道経由で旅をした時の紀行文で、公用で供を連れ輿に乗っての旅なので、庶民の旅とはかなり違うと思われるが、観察は細かく、例えば、一里塚の木が枯れて居るとか、川の水が少ないなど詳しい記述がある。
c.「続膝栗毛」 十返舎一九 三編〜七編(木曾街道) 十返舎一九全集第1巻所収
  文政の頃(1818~1830)21年間にわたって出版したものの1つ。 骨稽本に分類される江戸時代後期の作品だが、同時に、道中案内記でもある。
d.「木曾路名所図絵」 秋里籬島、文化元年(1804)日本名所風俗図絵第17巻所収
  図絵と説明のある道中案内記
e.「木曾道中記」 饗場篁村
  明治23年4月、 太華山人、幸田露伴、梅花道人の4人で、上野から横川まで汽車に乗り、あと中山道を加納まで旅をした時の紀行文である。大部分を馬などを使って居る。明治中期の中山道の様子が分かる。
f.「中山道宿村大概帳」 近世交通史料集5、児玉幸多編、吉川弘文館
  江戸時代道中奉行の街道、宿場に関する資料、駅間の距離、宿場の規模、人口、宿場、街道の施設、風物、周辺の村々の状況など詳細に記している。

 

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