(第7)石神井・所沢道


(1) 石神井・所沢道をたどる-中野追分から下井草まで
(2) 石神井地区を貫く
(3) 保谷から上清戸へ
(4) 上清戸から所沢へ


(1) 石神井・所沢道をたどる-
中野追分から下井草まで
 この道は青梅街道の中野追分、現在の地下鉄新中野駅付近から石神井を通り、上清戸を経て所沢へ行く道で、石神井道とも、所沢道ともいわれ、秩父往還に接続していました。現在東京から所沢へは、青梅街道田無から分岐して行く道が主なものですが、この石神井道は所沢、秩父への別ルートとしてかってはかなりの往還であったようです。このルートはごく最近まで活躍していた道で、今は鉄道や新設の道路、住宅地などで分断され一体的な機能を果たしているとは言えませんが、その部分を迂回すれば通して歩くことは可能です。古道という範疇に入るかどうか疑問ですが、以下その検討をしながら探索することにします。
 地下鉄新中野駅で降り地上に上がり少し戻ると、本町四丁目でここに交差点があります。これが鍋屋横町と呼ばれた四つ角で堀ノ内のお祖師様、妙法寺へ行く道が分かれていました。そこで江戸時代から近年にかけて大いに賑わっていた所でした。この交差点から北へ行く道もあります。その道と妙法寺道とが青梅街道をいわば縦断していたわけですが、この道はかなり古い道であると考えられます。それは中世の道、鎌倉街道中の道であったと思われるのです。(詳細は拙著『中世を歩く』参照。)またこの辺には中世の頃、中野長者の伝承があり、付近の開拓がその頃から行われていた古い土地であることが窺われます。
 石神井道・所沢道について、『杉並区史』(注1)によれば、「中野村追分で青梅街道を北に分岐し、同村桃園を通って、上沼袋村に至り、ここで東方豊島郡上落合、新井、下沼袋、新橋より来る道と合し、ここより馬橋村に入り、阿佐ケ谷村、下井草村を経て豊島郡下石神井村を貫き、更に所沢に達する道である。」云々。と書かれています。さらに『新編武蔵風土記稿』(注2)を引用して、下井草村の項に、「東北の界に所沢への道あり。豊島郡下石神井村より当郡中野村に達す。村にかかること十五町許」とあり、天沼村の項で「東の方阿佐ケ谷村より北の方井草村に達する道あり、江戸四ツ谷への道なり。」そして阿佐ケ谷村の条に「中野村追分より豊島郡石神井村への道あり、天沼村より入り、馬橋、上沼袋二村の間に達す。」などと伝えているのはこの道である。と記しています。
(注1) 『杉並区史』s30.3.30.発行
(注2) 『新編武蔵風土記稿』江戸時代末期、幕府が編纂した武蔵国の地誌。これまでもしばしば取り上げ引用している。以下『風土記』という。

 地下鉄新中野駅北側の出口を出るとすぐに二又があります。ビルの谷間で分かりにくくなっていますが、そこが中野追分で、そこから右へ斜めに行く道が、これからの石神井・所沢道です。かってこの追分の角にかなり大きな馬頭観音の石塔が立っていました。現在慈眼寺境内に移されています。これは、文化十三年(1816)建立のもので、道標を兼ねていてそれには「左、あふめ道、右、いくさ道(井草)」とあります。
 この角からこの道に入るとわりと広い車一方交通の道です。この道は明治の頃から昭和の初期頃にかけて映画館や飲食店などが並ぶ商店街でかなり賑やかな通りであったようですが、今はあまり繁華な道ではないようです。しばらく行くと新道の広い道が左から合流して来ます。そして間もなく変則の五差路があり、真ん中の細い坂道に入って行きます。坂を上り切るとやがてJRの線路で突き当たり。昔はここに踏切があり中野停車場がありました。古道のルートはここで途切れています。この先を明治の地図(注3)で見ますと空白になっています。この空白の部分を避けるように、踏切を渡るとすぐ線路沿い北側の狭い道を行き、その先直角に曲がるような道が描かれています。この地域は江戸時代犬公方の徳川綱吉の頃犬小屋があったとされる所で、その後は桃園になっていたようで、昭和になって軍用地であった所です。明治の頃はその頃の地図を見ると空白もしくは畑地になっています。何故ここを迂回していたのか分かりません。
(注3) 明治の地図、陸地測量部、明治14年測量、同18年製版、同20年出版、同24年修正再版の地図

 今ご承知のようにここの踏切はありません。前記の新設の道路が線路の下を通り、その上に中野駅のホームがあります。北側の狭い道の代わりに南側に同じような道がありますが、その道をたどると、中野区と杉並区の境界線の道に突き当たり、ガードで北側に出て北上します。これが前記の北側の道の続きであろうと思います。やがて道は左斜めに曲がって行き、大和陸橋の手前で環状7号道路に突き当たります。そこは現在の野方1丁目で、この先で右から来る道と合流していますが、その道は現在の早稲田通りです。
 『中野区史』(注4)には「豊島郡上落合村(現淀橋区)より来り、新井、下沼袋、同枝郷新橋村、上沼袋、同枝郷大場村を経て西の方馬橋村(現杉並区)に至り、更に下井草村を経、つひには所沢に達する。大場村付近では「大場通り」と呼ばれている」云々。とあります。
(注4) 『中野区史』上巻、s18.5.30.発行
 これは、『風土記』の枝郷大場村の項に「村の南に一条の往還あり、東の方新橋村より入り、村内十一町許をへて西の方馬橋村へ達す。」とある箇所に該当すると思われます。環状7号道路を越えると大和町1丁目です。ここから早稲田通りを西へ進むことになります。間もなく「お伊勢の森」というバス停がありますが、この辺、杉森中学校のあたりからお伊勢の森公園にかけての一帯は、この南にある阿佐ケ谷天祖神社の旧社地でした。その祭神が伊勢神宮の天照大神であることからお伊勢の森と呼んでいたといわれています。そのすぐ先阿佐ケ谷北5丁目に二又があります。そこに石塔が4基置かれて居ます。そのうちの1基には正徳五年(1715)、他の1基には享保七年(1722)と造立の年が刻まれて居ます。いずれも江戸時代中期の頃です。左斜めに分かれて行く道は狭い道なので無視されがちですが、明治の地図を見ると、かなりしっかりとした道で、これからたどろうとする道、早稲田通りと遜色はありません。そしてこの先第九小学校前で日大二高通りに接続して西へ向かっています。この道は古代乗瀦(のりつま)の駅に比定される天沼の地域を通過することから古い道であることが推定されてます。この点については別項でも触れましたが、後で再び取り上げる予定です。一方、今たどっているこの早稲田通りは昭和初期に改良され現在のような立派なバス通りになったものです。
 ここから西へ700メートルほど行くと、阿佐ケ谷北6丁目の交差点です。ここを南北に交差する道が中杉通りで、別項の阿佐ケ谷道(仮称)で述べた古道のルートです。道はなお真っすぐに西へ向かい、下井草1丁目の五差路で右へ大きく曲がって行きます。ここを真っすぐに行く道を現在早稲田通りと云っていますが新しくできた道で、古い道は旧早稲田通りといっています。妙正寺川を越えると右手に銀杏稲荷の小さな緑地があり、鉤型に2度曲がると、西武新宿線下井草駅があります。この道の形は明治の地図と比較すると、妙正寺川を越える所が若干変わって居るようですが、現在の姿とほぼ同じです。


(2) 石神井地区を貫く
 「阿佐ケ谷村、下井草村を経て豊島郡下石神井村を貫き、更に所沢に達する道である。」と風土記にありますが、現在もこの道は練馬区の西部石神井地区を貫通して居ます。
 西武新宿線下井草駅で降り少し行くと、左手に小さなお堂があります。井草観音堂で中に石の観音像と地蔵像が鎮座して居ます。八成小学校の横を過ぎ、八成橋のバス停を越え元千川用水を過ぎると練馬区の石神井地区に入ります。千川用水は現在廃止されその跡が道路になっています。道は環状8号道路で分断されていますが、これを過ぎると喜楽沼のバス停があります。そう遠くない過去、この辺には沼地と水田が広がって居ました。今は住宅密集地です。そして豊島橋で石神井川を渡ると丁字路に突き当たり。その前が禅定院という寺で、その背後の緑地は石神井池を囲む公園になっています。この丁字路を右へ行くとその公園に至り、その先西武池袋線石神井公園駅があります。道はここを左折して行きます。間もなく十字路。この左手に農協と小学校、右手に図書館、そして二軒の寺。道場寺と三宝寺が並んで居ます。三宝寺前の二股を右折。ゆるい坂道を上って行きます。右手に鳥居が見えますが、奥に石神井氷川神社があります。背後の緑地は石神井公園の続きで、三宝寺池を囲む公園です。このあたり一帯はまた昔石神井城があった所です。石神井の地域、石神井郷は中世鎌倉時代以降平塚城(北区中里の平塚神社付近)を根拠地として居た豊島氏の支配下にありました。鎌倉幕府が滅び北条氏の遺児時行がその回復のため中先代の乱を起こしますが、その時時行はこの地に豊島氏の庇護で潜んだと伝えられて居ます。前記の道場寺も三宝寺も南北朝時代に豊島氏によって創建されたといわれています。豊島氏はその後もこの地域で勢力を張って居ますが、室町時代の文明年間山内顕定に背いた長尾景春に味方し山内氏の家老太田道灌と全面対決になり敗れて没落することになります。文明九年(1477)ここから5キロほど東の江古田原、沼袋原で三浦義同、上杉朝昌、千葉自胤ら太田道灌方と豊島泰経、泰明兄弟と板橋、赤塚の与党の豊島氏方とが戦い、豊島氏方は敗れ、この地石神井城でさらに太田道灌の攻撃に抵抗し続けますがついに落城し、名族豊島氏は滅びることになります。今日、中野区の江古田公園と、ここ石神井城址に、この合戦の記念碑が立てられており、道場寺には泰経とその一族の墓と伝えられるものがあります。また三宝寺池の北岸には豊島泰経とその娘を葬ったという殿塚と姫塚(照日塚)があります。
 中世の頃、この地域で活躍した豊島氏とその一族及びその時代背景について、最近の研究成果は目覚ましいものがありますが、彼らが基盤とした地域各地との連絡手段であった道の研究までは及んでいないようです。豊島氏の本流は前述した平塚城(現北区中里平塚神社付近)を根拠としていましたが、その一族は豊島郡の各地に勢力を張っていました。この石神井城もその一つですし、練馬城(現豊島園)そして赤塚、志村、豊島など。これらの地域を拠点とした一族を糾合して他の勢力と対抗していたわけですから、それらと絶えず連携が図られていたに違いありません。当然ながら軍事だけでなく政治、日常生活と生産消費などでの連携が保たれていたと考えられます。その連携の経路とネットワークは何処に、そしてどのように張られていたのか。非常に興味深い命題であるとともに明かにすべきテーマだと思っています。

 そこで、私は「身近な古道を探る」立場として、まだその根拠、論点など熟してはいませんが、取り敢えずの仮説をここに提言して置きます。
1、中心であった平塚(現北区中里)と、当時の政治的拠点であり湊であった江戸(現日比谷付近)との間の連絡道→鎌倉街道下道、後に岩付道となるルート
2、平塚と当時の水運の拠点であった浅草、隅田との間の連絡道。
3、平塚と当時の政治的拠点であった武蔵府中との連絡道。→鎌倉街道中道、後の大宮道、人見街道
4、平塚と練馬城との連絡道→鎌倉街道中道及び後の清戸道とその枝道
5、平塚と石神井城との連絡道→鎌倉街道中道及び後の早稲田通りと石神井道
古い時代の早稲田通りについては、この観点からも後で取り上げたいと思っています。

 さて道は三宝寺前を右折し緩やかな坂道を上って行き、西北へカーブしながら進むと、四つ角がありその角に庚申塚があります。幾つかの石塔が並んで立っています。そこを過ぎると間もなく富士街道と斜めに交差します。このへん緑のある農村風景がほんの少し残っている所ですが、細い道がずっと続いています。小学校前を過ぎると間もなく西武池袋線の線路にぶつかります。今ここには線路横断の踏切はありません。右か左へ迂回して線路を渡ることになります。左へ行けば保谷駅です。


(3) 保谷から上清戸へ
 保谷から先は江戸時代は新座郡でした。明治になって多摩郡に編成替えになり東京府そして東京都に属しました。風土記を見ますと新座郡下保谷村の記事が載っています。しかしここには道について触れる所はありません。明治の地図にはわりとしっかりした道として描かれています。
 保谷駅の北口に出て少し東へ行くと西東京市と練馬区の境界線の道があります。これが先述の石神井道の続きです。このへんは荒屋敷という所で畑の中の道を北上して行くうち、公園の先広い新道を過ぎると十字路でここを左へ。屈折のある道を道なりに行くと天神社があります。もと第六天社といわれていた社です。細い道ですが、都道25号という立派な道路で旧早稲田通りの続きです。やがてやや広い道が左から合流して来ます。道は埼玉県に入り新座市栗原になりますが、スーパーの先郵便局前を過ぎると二股になって居ます。この辺は栗原6丁目です。その二股を左へ行き十字路を越して間もなく丁字路があり、右手から細い道が突き当たって来ます。この角に小さな石塔が数基並んで立って居ます。この丁字路は小さいので見落とす恐れがあります。この小さな石塔が目印です。ここを右手から来る道が別の項で取り上げた清戸道です。清戸道を併せた道は真っすぐに続き神宝大橋を渡り金山町から新堀を通って神清戸に達して居ます。ここで志木街道と小金井道に接することになります。ここは清瀬郵便局前交差点ですが、ここから少し戻れば西武清瀬駅があります。


(4) 上清戸から所沢へ
 清瀬郵便局前の交差点へは今来た道、つまり石神井道、清戸道は手前で小金井街道に合流して、この交差点に入って行きます。この南北の道路は小金井街道といい、南は前沢、小金井を経て府中、昔の武蔵国府の地に至り、北は中里で柳瀬川を渡り、安松を経て所沢に至ります。その先は入間から飯能を経て行く秩父道になっています。この交差点を東西に横切る道が志木街道です。西は野塩から東村山市の秋津を経て久米川で府中街道に至り、東へは下清戸から新座市の野火止を経て志木に至って居ます。
 さて、石神井道をここまでたどって来ましたが、この道は別に所沢道とも呼ばれて来ました。それはこの道がこの先所沢まで続いて居るからです。そこでこの先は今小金井街道と呼ばれている道を所沢まで行くことになります。改良され舗装のいい道で間もなく中里のバス停があります。ここは交差点で右へ行けば、清戸下宿を経てその先は奥州街道と呼ばれて来た大和田、志木に至る古い道で、左は東光寺の前から野塩を経て久米川に至ります。芳賀善次郎著『武蔵古道ロマンの旅』によると、小金井街道はここで右折してこの大和田への道をたどったという説を述べて居ます。緩い坂を下りると清瀬橋で、柳瀬川を渡ります。ここは所沢市の下安松で二股があり右へ行く。武蔵野線のガードを越え緩い坂を上ると愛宕山の二股があります。右から本郷、滝の城址、坂之下を経て来た道が合流して来ます。そして間もなく上安松。坦々とした道を行くこと約1.5キロ、新道の陸橋北の交差点を過ぎ、医療センター前の交差点から狭い旧道に入ります。この旧道は西武線の線路で行き当たり。跨線橋を渡って線路の西側に出、しばらく歩くと東町の交差点です。ここを過ぎて行けば、左手に実蔵院があります。この寺の横を通る狭い道が鎌倉街道上道と云われている道で、この先には新光寺があり、中世の旅の僧、道興准后の『廻国雑記』に出て来る観音寺だといわれている寺です。(鎌倉街道上道については拙著『中世の道・鎌倉街道の探索』を参照。)
 この東町の交差点から南へ行けば西武線所沢駅です。

 

 

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