(第4)人見街道

(1)人見街道とは
(2)大宮八幡から久我山駅まで
(3)久我山駅から三鷹市役所まで
(4)三鷹市役所前から東府中駅まで


(1)人見街道とは
 人見街道とは、昔、人見村を通る道であったのでそう呼ばれたといわれています。それがどこを起点にしてどこまで至っていたのかはっきりしません。現在の人見街道については、杉並区の立てた説明板に、「高井戸警察署前の井の頭通りの分岐点を起点に、高井戸東、高井戸西、久我山を通って、府中市若松町の新小金井街道に接する約12キロメートルの都道です。」とあります。そして一部道筋変更が行われ、さらにその延長部分として従来久我山街道と呼ばれてきた道を組み込み、昭和59年にこの路線の正式な通称としたといっています。人見村は現在、府中市若松町3丁目から4丁目のあたりですが、三鷹、牟礼のあたりから府中へ行く道であったようです。「府中道」と呼ばれていたこともあったようです。杉並区久我山5−9の二股の路傍に庚申塔兼道標が立っていますが、これには「これより ひだり ふちゅう三ち」と刻んであり、一方「みぎ いのかしら三ち」とあります。つまり、二股の右へは井の頭へ、そして左へは府中へ行く道であったのです。その立てた年月日は享保七年壬寅歳十月二日とありますので、江戸時代の中期1722年で将軍吉宗の時代、大岡越前守が活躍したといわれる頃です。ここから、西へ進んで現在の新川6丁目、三鷹第一小学校の前で西から来た人見街道に合流しています。その人見街道は府中、人見方面から来て、ここから真っ直ぐに東へ進み、天神前から現在は一部広い東八道路に吸収されていますが、その先杉並区と世田谷区の区境付近を通って上高井戸1丁目付近で甲州道中に接していたものと思われます。現在この新川6丁目から上高井戸までの部分は人見街道とは呼んでいないようです。この道標の二股から東、高井戸警察署前の交差点までの区間は現在人見街道という通称になっていますが、以前は久我山道と呼ばれていました。そしてこの交差点の先、高千穂商大の所から大宮八幡の西鳥居に至っていました。このルートは、溯ると古い時代に下総道或いは大宮道とも呼ばれ、武蔵国府から豊島郡家、下総国府への道筋、或いは足立郡の武蔵一宮である大宮に至る武蔵国の重要な道筋の一つでした。人見街道とその延長である旧久我山道は近世、江戸時代より前の時代、中世或いは古代の道筋の一部であった可能性があります。
 これまでに、仮称阿佐ヶ谷道を北から来て大宮八幡まで来ましたので、ここから人見街道とその延長の道筋を西へ、昔武蔵国府があった府中まで辿ってみようと思います。


(2)大宮八幡から久我山駅まで
大宮八幡へは、井の頭線の永福町駅下車、北へおよそ1キロ、歩いて10分ほどで東鳥居前に出ます。新宿駅からバスもあります。ここは境内も広く周囲は緑に囲まれ都区内では今や珍しくなった緑地です。神社に参拝し西鳥居から境内を出るとすぐにある道がこれからのルートです。前述したようにこの辺は人見街道とは呼ばれなかった道ですが、ややカーブのある道を行き右側の高千穂商大のキャンパスを過ぎると変則の四つ角があります。一番右、北の方へ行く道が前述の「阿佐ケ谷道」で紹介したルートの一つで、阿佐ケ谷から成田を通り白山神社のそばを抜けて来た道です。真ん中の道も古い道のようで静かな住宅地を西へ向かっています。人見街道、久我山道は一番左の道を行きます。ここも静かないい住宅地の中を行くことになります。間もなく井の頭通りとX状に交差しますが、その交差点の西側にあるのが高井戸警察署です。杉並区はこの交差点から人見街道と云っているようです。ここから松林寺を過ぎ荻窪からのバス通りを越すと環状8号通りです。この区間は車が多く喧噪で歩くには快適とは言えません。環8を越え社会保険事務所を過ぎた所で旧道が左斜めに別れて行きます。この道は宮前1丁目と高井戸西4丁目の境界線になっています。分岐点から500メートルほど行き富士見が丘駅への道を過ぎるとすぐ鉤型に二度曲がって行くことになります。ここは二つの道が交差している地点ですが、何故か鉤型に二度曲がって行く形になっています。明治の地図にはかなりの太い道として描かれています。地番でいうと久我山5−26のあたりです。ここからはバス通りで車の往来の多い道になります。しばらく行くと二股がありそこに道標が立っています。前述の石造の庚申塔で、「これよりみぎいのかしら三ち」「これよりひだりふちゅう三ち」と刻んであり、そして建立は享保七年十月二日とありますから、江戸時代の中期将軍吉宗の頃です。この道が府中へのルートとして利用されていたことが分かります。道はやや下り坂になり、新道を左へ分けやや屈折しながら久我山の商店街に入って行きます。踏切の手前に久我山の駅があります。


(3)久我山駅から三鷹市役所まで
井の頭線久我山駅下車、旧道に出て踏切を渡ると右手丘の上に稲荷神社があります。この境内はかなり広く緑が豊かです。石段下の先に十字路がありそこを左へ曲がる。神田川を宮下橋で渡って坂を上がる。坂を上がると新道と合流しますが、この合流点に小さな祠があり、その前に石柱が立っています。それには、富士山仙元大菩薩、弘化五年正月吉日と記されています。弘化五年というのは幕末1848年です。もう一つ安政三年の石柱も立っています。道標のような感じもありますが、ほかの字は読めません。現在ここは新旧の道の合流、分岐点ですが、古くは別の道が分岐していたものと思われます。しばらく行くと牟礼橋があります。ここを流れるのが玉川上水です。玉川上水は今は役割が終わり緑道としていい散策の道になっています。ここはまた杉並区と三鷹市の境になっています。御獄稲荷神社の前を過ぎ真福寺の前に出ます。この寺は日蓮宗でかなり大きな寺です。やがて牟礼2丁目の十字路です。ここを右へ行くと三鷹台駅ですが、明治の地図にはないので新しい道だと思われます。ここを左へ行き、曲がってすぐ交番の先に左へ別れて行く道がありますが、その分岐点に石塔2基が立っています。1基は元禄期のもので道標を兼ねていたものと思われますがほかの字は読めません。この道は下連雀、上連雀、井口、貫井から国分寺に至る道で古い道筋であったと思われます。
さて道はほぼ真っすぐに続き、昔の牟礼村、現在の牟礼5丁目、6丁目、7丁目と通過して行き、三鷹一小前の十字路に出ます。ここを東西に横切る道がかっての人見街道です。現在は今来たルートを人見街道とし、ここから東への延長線の道は人見街道とは云っていないようですが、明治の地図を見るとかなり太い線で高井戸村で甲州街道に合流するまでしっかり書かれており、明治の頃には此の方がメインであったようです。
この通りは現在広いバス通りで車が頻繁に通っています。野川宿橋で仙川を渡りしばらく行くと三鷹市役所があります。ここからは三鷹駅、吉祥寺駅へバスが頻繁に出ています。なお市役所の手前の道を南へ行くと船舶技術研究所、その先に消防大学校がありますが、その付近およびその敷地の中に「鎌倉街道」と呼ばれて来た古道の跡があります。


(4)三鷹市役所前から東府中駅まで
三鷹市役所前通りは車の往来が多く歩くにはあまり快適とはいえません。歩く程もなく野崎交差点があり武蔵境通りと交差しています。この通りを南へ行けば深大寺、深大植物公園があります。ついで大沢交差点、この付近にはかって大沢宿がありました。右手の八幡神社を過ぎると広い道、東八道路と交差します。その右側には国際基督教大学の広大なキャンパスがあります。相曾浦橋で野川を渡りますが、ここには別に新道、新しい御狩場橋ができています。橋を渡るとすぐにあるのが龍源寺です。この寺には幕末に活躍した新撰組の近藤勇の墓があります。近藤勇はこの近くの上石原村の農家の出身で、この先野川公園入口付近に元生家跡があります。この野川公園は調布市野水で三鷹市と府中市の間に楔を打ち込むように調布市が入り込んでいる地域です。100メートルほどで府中市に入ると、間もなく西武多摩川線の踏切があり、多摩墓地前駅があります。踏切を越すと右手には緑の多い多摩墓地があります。この辺は住宅が建て混んでなく、舗装されてはいるがのどかな道です。しばらく歩くと若松町4丁目の交差点になります。此のあたりは「人見街道」の名のもとになった昔の人見村です。『武蔵風土記』に観応三年の古文書の記事が載っています。(『新編武蔵風土記稿』第5巻、p2)それには「人見原、入間河原御合戦の御供仕り候」とあります。正平七年二月足利幕府の内紛で尊氏によって弟直義が殺されますが、それを契機に内紛が広がりました。南朝方はこれを勢力回復の絶好の機会として新田義貞の子息、義興、義宗らが挙兵し上野、信濃、越後の同勢とともに武蔵へ向かい、鎌倉に攻め入りました。その後ここ人見原、金井原で両軍の大合戦が行われています。これが太平記にもある有名な武蔵野合戦です。ただ太平記には人見原ではなく小手指原となっています。この観応三年の文書はこの合戦に関連があります。なお観応三年は北朝の年号で、南朝では正平七年といい、同じ西暦1352年です。この記事から人見村はこの頃既にあった地名であるといえます。菊地山哉は太平記が小手指原と記しているのを金井原または人見原の間違いとしていますが、さらに人見村について「人見村はもと浅間山、堂山、前山などの南麓に在住し」それが街道へ進出して街道村の態をなしたもので、「最近下屋敷と称する方面から、建長初め(1249年〜1256)数枚の立派な板碑が出ているのであるから、古村であることは間違いない。」と云っています。(「金井原合戦考」菊地山哉著『東国の歴史と史跡』所収)
ここで云う浅間山は先の若松町4丁目の交差点から北へ約1キロメートルの所にあります。現在緑のいい公園になっています。浅間山は小高い丘で山頂には小祠があり眺望絶佳です。この「人見」という由緒ある地名は何故か府中市では残されませんでした。現在の町名地番でいうと、若松町3丁目から5丁目のあたり、そして浅間町、多摩町、紅葉ヶ丘、白糸台の一部の地域がそれに当たると思われます。(『府中市の町名地番』府中市発行、参照)
人見街道はこの先、新小金井街道を越えてすぐ自衛隊の基地の所で終わっています。この基地から先何処をどう通ってかって武蔵国府のあった府中へ達していたのか分かりません。明治の地図によると、江戸時代には現在の自衛隊基地を斜めに横断し現在の緑町のあたりを通り八幡町のあたりで甲州道中に合流していたものと思われます。今その道筋はないので、自衛隊基地のフェンス沿いに南へ行き住宅地の中をおよそ1キロほど歩くことになりますが、京王線の東府中駅に出ることができます。

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