(1)JR阿佐ヶ谷駅から鷺宮を経て豊島園まで
阿佐ヶ谷道{仮称}は中央線阿佐ヶ谷駅付近を南北に通過する道で、仮に阿佐ヶ谷道と名付けました。近世江戸時代には盛んに利用された道で、おそらくそのかなりの区間は中世の頃鎌倉へ通じていた道である可能性があります。阿佐ヶ谷は中世の文書に
「あさがや殿」とあるように、ここには有力な勢力がいたといわれ、少なくとも中世の後期足利時代にはかなりの拠点であったことがわかっています。従ってここを通過する道が地方的には重要な交通路であったに違いないのです。{「米良文書」、応永27年、西暦1420年}
JR中央線阿佐ヶ谷駅を降りると鉄道ガード下を通る広い道があります。これは昭和初期戦時中にできた道路で良い並木道の通りになっています。これとX状に交差する道が当面の古道です。南の方は阿佐ヶ谷南の商店街で、青梅街道まで続きます。北の方は阿佐ヶ谷北の商店街です。私たちははじめに北の方へ行くことにします。
阿佐ヶ谷駅北口のバスターミナルの北側にはビルがありますが、そのビルの中へ入っていく道があり、まもなくアーケード街になりますが、その先ややカーブがあり、多少アップダウンのある道になります。右手はこのあたりではかなり古い寺院である世尊院があります。商店や事務所、住宅が並び車の往来もある道ですが、1キロほど行くと十字路になります。左方、西からきた道はバス道で、これを行くと四面道になります。その途中日大二高があるあたりは、現在の地名で、杉並区天沼、本天沼という所で、古代の交通路に関する大きな論争点になった「乗瀦駅」の
比定地の一つがこの天沼のあたりであり、古い時代からの道筋、恐らく中世鎌倉時代より前、古代、平安時代からの道筋であった可能性があります。この点については後にこのルートを通るときに触れることにします。また右手、東の方へ行く道は非常に細い道ですが、嘗ては前記のバス道の続きであった道で、これも古道のルートであったと思われます。この道筋は後で別にたどることにします。
その先はすぐ阿佐ヶ谷北6丁目の交差点ですが、それを過ぎるとまもなく杉並区から中野区に入りますが、立派な屋敷林の緑が見えてきます。この道は中杉通りと呼ばれるバス道で、阿佐ヶ谷中村橋間のバスが頻繁に通り、車の往来も非常に多い道ですが、昭和の中期30年代頃までは畑もあり林もあるのどかな道でした。その名残の一つが前記の屋敷林ですが、そのほかいくつか残っています。その一つ、白鷺2丁目の角に馬頭観音、庚申塔、地蔵尊、正観音などの石仏が5基並んで立っています。その奥には天神の森の樹叢があります。また西武新宿線鷺宮駅手前には鷺宮八幡があり、ここにも鬱蒼とした社叢の緑があります。この神社は由緒が古く、社伝によれば康平七年{1064}源頼義の創建によるとされ、その後鎌倉時代になってこの道が鎌倉への道として利用されるようになると、この道に面した神社は源氏など武士の尊崇を集めるようになったといわれます。またこの神社の森には多くの鷺が集まっていたらしく里人によって鷺明神と呼ばれていました。神社を過ぎるとすぐ妙正寺川で橋を渡ると西武線鷺宮駅です。
そこをを過ぎやや登り坂を行き鷺宮4丁目の交差点から少し歩いた右手路傍に2体の地蔵尊が立っています。この先すぐに練馬区になります。練馬区に入って二つほど信号のある交差点を越すと右へ細い道が斜めに分かれていきます。この分かれる地点は、最近まであった八幡湯がなくなり共同住宅のビルになって分かりにくくなっていますが、八幡前というバス停の右側の地点です。
明治の地図{明治時代に陸軍参謀本部によって作られ発行された地図で五万分の一と二万分の一があります。以下「明治の地図」といいます。}を見ると、この細い道は、現在のバス通りとあまり違わない太さです。多分バス通りの方が拡幅され立派な道になったのだと思います。
このバス通りは今は中杉通りと呼ばれ、メインの 道路になっていますが、かっては「子の権現道」と呼ばれた道で,この先目白通りのそばにある「子の権現」という寺への参詣道として使われた道であるといわれます。
さてこの細い道に入るとすぐに御獄神社があり、その先はほぼ真っ直ぐに延びています。このあたりは練馬区の中村地区ですが、昭和の初期、区画整理が行われ、つい最近まで整然とした農地が広がっていました。今はいい住宅地になっています。畑地はほとんど残っていませんが、所々に緑地があります。その一つが良弁塚です。畑が多かった頃は
畑の中にあった塚も、今は住宅地の一隅にフェンスに囲まれ木々の緑の中に埋もれています。良弁塚はこの東約1キロの所にある南蔵院を開基した良弁僧都が経典を埋めた所で、元文5年{西暦1740}ここから経筒が出ています。
この先一部区画整理で途切れた所があり、信号で四つ角を越えて再びその道に入りますが、そこに「下練馬道」という説明板が立っています。練馬区教育委員会が立てたもので、それによりますと、この道はかって旧下練馬村の中央部を北東から南西へ走る幹線道の一つであったといいます。そこからは千川通りまでずっと続きます。千川通りは、千川用水が廃止された
跡に造られた道路で、千川用水は、かって江戸、東京の西北地区を潤していた用水でした。この細道はまだすっと続きますが、この 千川通りと西武線の線路で中断されています。千川通りと西武線を越えるとすぐ新目白通りです。現在西武線は高架複線化の工事中ですが、平成13年3月に今まで目白通りが中村陸橋で鉄道を越えていたのが、逆に鉄道が高架で道路を越えるという形になりました。鉄道と道路の工事はまだ続いていますので、ここを通り抜けるのは若干やっかいです。目白通りの歩道を少し西へ歩いて横断歩道橋を渡り北側に出ます。犬猫ショップの隣の自動車屋の所で、この通りから道が分かれますが、その道に入ってすぐ細い道が北へ2本出ています。ここは非常にわかりづらいのですが、練馬3丁目8番地の警察のアパートの角が目印です。この道は車が1台通れるくらいの細い道ですが、右手、、東側は練馬区練馬3丁目および4丁目であり、左手、西側は向山2丁目および3丁目になっています。つまりこの道が練馬地区と向山地区の境界線になっているのです。この二つの地区は、かって下練馬村と上練馬村のそれぞれ別の村に属し、その頃もこの道が両村の境界をなしていました。この事情は、古い地図を見るとよくわかります。昭和初期の明治42年測図昭和7年修正の地図では、この道はかなり太い線で描かれ、中村橋への道はむしろ脇道のようです。西武線はありますが目白通りはなく、先に高架に沿った道に出ましたが、それが目白通りの前身であった清戸道ではないかと思います。西武線の北側でこの道と交差しています。そして東側が練馬町谷戸、西側は上練馬村向山となっています。
さて この道を北上していきます。まもなく左手は窪地になっており、窪地の先に向山庭園があります。やがて左側に豊島園があります。この豊島園は広大な敷地の中に遊園地として経営され賑わっていますが、ここには中世の頃豊島氏の一族の拠点であった練馬城がありました。太田道灌との戦いで敗れ、石神井城の落城とともに豊島氏は一族みな滅亡しますが、この練馬城もそれとともに廃棄されました。
この豊島園の入り口の反対側に西武線、都営地下鉄の駅があります。
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