(第2) 平間道

「身近な古道(第1)」で中世の「鶴見寺尾図」を紹介しました。そこには鶴見川に架かる橋と一本の道筋が描かれており、それが後世、江戸時代の東海道の前身になる道であり、鶴見川に架かる現在の鶴見川橋に当たるものであることが分かりました。その道筋を鶴見川から南へ神奈川、中世の金川湊までたどってみました。今回はその道の北への延長ルートつまり、鶴見川の橋の北、鶴見市場から北の方へ行くルートをたどることにします。このルートは市場から尻手、矢向を経て平間に至り、多摩川を渡って下丸子の先で池上道に合流して池上、大井を通り品川、江戸、浅草等へ行くルートで古くからあったルートだと思われます。仮に「平間道」と名付けます。

(1)平間道(その1)(鶴見市場→尻手→矢向→平間〜下丸子→池上)
京浜急行線鶴見市場駅で降りて北へ向かい少し行くと東海道の旧道に当たります。その角を左(南)へ行くと間もなく鶴見川橋で「鶴見寺尾図」にある橋に当たります。新装成って立派な橋になっています。途中左手に一里塚跡があります。ここは宿場ではありませんでしたが、昭和の初期戦後間もない頃まで古い町並みが残っていました。今その面影はありません。
また先の角を右へ行くとすぐ左側に広場があって熊野神社があります。その神社の広場から左手へ分かれる道があります。恐らくこの分岐して行く道がこれから探索する古道の道筋であろうと思います。「鶴見寺尾図」には真っすぐな道が描かれ数軒の家並みがありますが、分岐する道はありません。中世にはまだ東海道は開かれていませんでしたので、道は分岐の形ではなく真っすぐに一本延びており、これが本道であったと思われます。
ただ明治の地図(明治14年測図、2万分の1川崎駅)を見ると、この神社(熊野祠)よりずっと南の道になっていますので、明治以後に道が付け替えられたものと思われます。 この道に入り東海道線の踏切を越すと元宮1丁目ですが、古い集落のようです。南武線尻手の駅手前で国道を横切りやや屈折のある道を北上して行くと、矢向地区で日枝神社、最願寺そして良忠寺があります。良忠寺は古い寺で寺伝によれば弘安元年の草創であるといわれます。弘安元年というと西暦1278年に当たり文永弘安の役、蒙古襲来の頃です。『武蔵風土記』にはこのことからこの村(矢向村)がその頃既に開けていたろうと記しています。(武蔵風土記第3巻、p345.)
かってこの辺には近世初期に造られた二ケ領用水があり付近の農地を潤していましたが、今は廃止され緑道になっていて、その記念碑が立っています。やがて川崎市に入り幸区塚越3丁目から1丁目になりますがもと塚越村という所です。ここは昔古い塚があったため塚越という地名になったといわれます。武蔵風土記に「村内に古塚がありその辺を塚の越と云って来た。この塚があることでこの地名になったことがわかる。」とあり、塚については「村の北にあり、一畝(約100 )ほどの間を占めている。高さは一丈あまり(約3m)この辺をすべて塚の腰という。これによれば今文字は違うが村名の起こりもこの塚より始まったという。なるほどと思う。」といっています。(同書p349.)現在その名残か御獄神社の近くに円墳の跡が残っています。いつ頃の時代のものかはっきりしませんが、円墳があることからみてこの辺りが古くから開けて来た土地であることが窺えます。この先、下平間で赤穂浪士ゆかりの寺称名寺がありますが、国道を越えると上平間です。平間という所も古い土地で鎌倉時代の奥州大道沿いの所であったと推定されます。それは鎌倉時代の史書『吾妻鏡』に平間郷地頭と記載される記事があるからです。その記事は建長8年6月2日(1250年)の項に「奥の大道に夜盗、強盗が襲来して行き来の旅人に危害を加えている。そこで今までも度々命令して来たが、厳重に警護するように、今日この沿道の地頭等に命令が出された。」(『吾妻鏡』第5巻、p259.)として、沿道の地頭等の名前が列挙されている中にその郷名があるのです。小山長村、宇都宮泰綱、宮城右衛門尉、渋江太郎など錚々たる地頭、有力な武士に列して「平間郷の地頭」と記してあります。何故かその氏名、役名はありません。このことから見て平間に奥の大道、つまり鎌倉街道中道が通って居たと考えてよさそうです。
上平間からは間もなく多摩川の土手になります。ガス橋で川を渡り工場街の旧道を道なりに行くと東急多摩川線下丸子の駅に出ます。環状8号線の広い道路を越しなお行くとかっての池上道に合流します。この池上道の旧道はこの先千鳥町から池上本門寺下、新井宿(大田区中央)へとかなり長い区間続く散策には好適な道です。この池上道は鎌倉街道下道の有力なルートの一つであると私は思って居ます。(『中世を歩く』p195~、)
下丸子の東鵜の木に光明寺という古い大きな寺がありますが、その前にかって光明池という大きな池がありました。今は埋められて痕跡もありませんが、そこは多摩川の流路の跡だと云われて来ました。多摩川は何度も氾濫を繰り返し流域に被害を与えて来ましたが、その流れもかなり変わって居ます。多摩川は現在東京都と神奈川県の県境をなして居ますが、地図上で両岸を眺めてください。川を隔てて両側に似たような地名が目立つはずです。下丸子はその好例で、川崎市側には中丸子、上丸子があります。その上流川崎市総合運動場がある等々力緑地は等々力という地名ですが、対岸には世田谷区等々力があります。少し上流に宇奈根など。これは主として多摩川の流路が変わったことによります。下丸子は中丸子、上丸子などとともに中世には丸子庄の荘園の地域でした。それが中世後期から近世初期にかけて多摩川の流路が大きく変わったため分断されたのです。同じく等々力も円形の緑地の縁辺は自然堤防のようになっていますが、その北側を多摩川の旧流路があったのです。この様子を詳しく知りたければ川崎市史付録『中世川崎市域の荘園・公領等想定図』をごご覧ください。なお多摩川の河口は現在の地点よりもっと南であったようです。戸手から真っすぐに南下し渡田の方へ向かって居たと思われ、現在の川崎区の大部分、砂子、大師河原などは多摩川の左岸つまり北側であったわけです。

(2)平間道(その2)(池上→平間→加瀬→綱島)
今まで私が仮に「平間道」と名付けた道筋を紹介して来ましたが、実は地元で「平間街道」と呼ばれて来た道があるのです。それは池上道の別名でもあり、池上から下丸子を経て多摩川を渡り平間への道で、平間には江戸時代船渡しがありました。その先は二つに分かれ、一つは今まで紹介して来た鶴見から神奈川へのルートで、もう一つは加瀬を通って綱島に至るルートです。平間道を語る場合このルートを省く訳には行きません。そこで次にもう一つのルート、加瀬から綱島へのルートを紹介します。
ガス橋の南詰、川崎市上平間は前記の平間道(その1)鶴見へのルートと綱島道との分岐点です。今回はここが出発点です。北側にはもう一本広い道ができていますが、八幡神社の所で合流しやがて南武線の平間駅に出ます。武蔵風土記には「この所古は鎌倉より奥州への往還で、建長の頃よりこの名があったというが、しかるべきことで古い郷名であろう。」と記しています。南武線の踏切を越え貨物線を陸橋で渡って行くと苅宿です。苅宿(カリヤド)という由緒のありそうな地名ですが、この北側には市ノ坪という所もあります。明治の地図を見ると苅宿村、市ノ坪村と記していますし、武蔵風土記にも記事がありますので古い地名であることが分かります。苅宿というのは中世の街道筋にあった宿駅に係わる地名であることが多く、また市ノ坪というのは古代班田制に係わる地名である可能性があります。しかし文献などで確認していませんのでこれ以上の言及は避けます。やがて北加瀬、そして矢上になります。矢上には観音寺があります。矢上橋を渡ると横浜市港北区で日吉5丁目です。この上に保福寺があり矢上山と号しています。昔はこの辺まで矢上村であったらしく、河川改修などで地域の分合が行われたものと思われます。右手の丘の中腹に熊野神社がありますがここももと矢上村でした。このあたり古い農村風景の残映が残っています。新幹線の高架をくぐりしばらく行くと箕輪2丁目でほぼ真っすぐな道が続きます。明治の地図を見るとここは箕輪村でしっかりした道が北綱島村、南綱島へと続いています。やがて諏訪神社の参道があります。かなりきつい石段を登ると神社があり眺望が開けています。この神社は南、北綱島村の鎮守でありました。間もなく東横線綱島の駅です。古くはこのあたりで鎌倉街道下道のルートと合流して大綱橋の付近で鶴見川を渡り南下して行ったものと思われます。

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