(第1) 鶴見・寺尾付近の古道

(1)鶴見・寺尾の中世
横浜市鶴見区の鶴見、寺尾地区は古く中世初期鎌倉時代以前から開発されて来た所です。鎌倉時代の史書『吾妻鏡』には、仁治2年10月22日に武蔵野に水田を開発することが決議されたと記しています。(『吾妻鏡』第4巻、p342.)ついで11月4日将軍が秋田城介義景の武蔵国鶴見郷の屋敷に渡御されたという記事があります。仁治2年というのは西暦1241年で、この時の将軍は藤原頼嗣、執権は北条泰時です。記事の中で「多摩川の水をかけ上らす」と言っているので、恐らく水利、水防の工事が行われたものと思われます。そして秋田城介義景がここに屋敷を持っていて勢力を張っていたと思われ、既にこの時点でこの地域は開発が進んでいたことが窺えます。この少し前、隣接の小机郷鳥山等の荒れ地の水田開発を佐々木泰綱に命じている記事もあります。(同書第4巻p276.)
また時代は下りますが、建武2年のこの地域の絵図(地図)が残っています。建武2年というのは西暦1335年で、鎌倉幕府の滅亡直後、建武政権初期の頃です。それは「正統庵領鶴見寺尾図」といわれる絵図で(以下「鶴見寺尾図」又は「絵図」といいます)、鶴見寺尾郷の景観を描いており、寺領の範囲の境界線を朱線で描き、鶴見川を東の境とし、西は今の神奈川区の子安から鶴見区東寺尾の白幡八幡宮のあたり、北は末吉(今の鶴見区下末吉、上末吉)、南は海岸線までを範囲としています。そこには建物として寺院や阿弥陀堂、民家、そして畠と水田、鶴見川に架かる橋と道、集落らしいものなどのほか、周囲の景観、例えば池、堀、木立などが描かれています。これによって中世中頃のこの地域の村落景観が分かるとともに、当時の他の地域の様子を推定する有力な手掛かりにもなります。
ここで道が描かれ、橋が鶴見川に架かっていることは、古道を調べる上で重要な材料です。絵図の上で描かれたこの道が北へは川崎市の平間の方向、南へは鶴見川の河口から神奈川区子安まで延びていることから見て、当時の鎌倉街道下道、或いはそれに匹敵する道筋であったと考えても間違いではなさそうです。
ところで鎌倉街道の下道のルートとしては、この辺は鶴見川のもっと上流港北区の綱島あたりを通っていたと考えられています。その根拠としては、深大寺(東京都調布市)の僧、花光坊長弁が書いた『私案抄』に応永12年(1404年)綱島架橋供養の記事があることが有力な材料です。それには「雁行雲引之虹橋」とありかなりの大きな橋であったようです。そこは今の大綱橋のあたりとされています。(私の著書『中世を歩く』p166.参照)また中世の後期文明18年(1488年)には道興准后が綱島の先、当時駒林といった日吉本町のあたりに来てそこで宿を借りています。その記事が『廻国雑記』に載っています。以上からその頃、綱島、駒林(現在の日吉本町)を鎌倉街道が通っていたと推定されています。 一方この絵図から見ると、鶴見川に架けられている橋の位置はもっと下流で、今の鶴見中央、対岸は市場のあたりと推定されますので、そこにも前述の道筋が一本通っていたことになります。つまりこの頃この付近には二つの道筋が通過していたと考えられます。時期が違うので或いは14世紀の始めに鶴見川の下流を通過していた道が、何かの理由で15世紀の始めには上流の綱島の方に移ったと考えてもいいかも知れません。しかし海岸よりのルートが先にでき後から山よりのルートが開発され移ったたとは考え難いので、むしろ中世の頃、この付近には二つの道筋が通過していたと考えたほうが自然です。
そこで、この鶴見地域を通過していた道は現在の何処を通っていたのでしょうか。中世の頃と現在とは大きく景観が変わっています。開発が進みしかも都市化され人工の自然改造がこの地域の各所で行われて来ました。中世の頃の道筋を見つけるのは容易ではありません。それに自然環境の変化も著しいものがあります。特にこの付近を流れる鶴見川は氾濫を繰り返し付近の住民に多くの被害を齎して来ました。そのため古くから治水工事が行われ、特に明治以降は本格的な堤防の築造とともに河川流路の変更も行われています。このように人工の改造と自然環境の変化とが著しいこの地域を通っていたと思われる道が現在の何処を通過していたかを推定することは容易ではありません。
以下、始めに鶴見寺尾図によって中世の頃の道筋を推定してみようと思います。

(2)鶴見寺尾図から古道を推定する
下図「鶴見寺尾図」(模写)は、鶴見寺尾図を私が模写したものです。大きさ、位置関係は正確に模写しましたが、簡略化のため不要部分は省略しました。以下私の関心のある所を中心にまとめて見ました。
1)四囲は東は鶴見川、南は海、西は入江、白旗宮の線、北ははっきりしませんが多分師岡、末吉の辺を結ぶ線と思われます。位置関係はしっかりしています。
2)鶴見川がしっかり描かれています。かなり大きく、流路も現在とあまり変わらないようです。
3)鶴見川に立派な橋が架けられています。太くて長い丸太を2本わたしそこに横板を何本か並べた作りのようです。
4)この橋にかかる道が描かれています。橋の北は鶴見川に沿って北上し、南は同じく鶴見川に沿って南下して下の方で西へ曲がって行きます。多分汀線で曲がって行ったものと思われます。
5)入江というのは地名か地形の説明か迷う所ですが、現在も横浜市神奈川区にあるかなり広い地域の地名になっていますので、この頃からあった地名と考えられます。
6)白旗宮は現在も鶴見区東寺尾2丁目にある古くて大きな神社です。八幡宮は現在のどの神社に当たるのか分かりません。
7)図の真ん中に大きな寺が描かれています。多分これがこの地域の領主であったと思われます。しかしこれが現在もあるのかどうか分かりません。また阿弥陀堂がいくつかあります。一番下の阿弥陀堂は現在の岸谷の位置でこの近くに現在安養寺と杉山神社があります。
8)建物は寺、堂、神社のほか民家が描かれています。一戸だけでなく数戸固まっている所があります。多分それは集落であったと思われます。絵図で橋のすぐ左にある集落は多分鶴見、そして橋の右手はじにある集落は市場であろうと思われます。
また鶴見川の左岸のずっと下流に川にへばりつくように数軒の家並みがあります。これも集落で、江戸時代の潮田村、現在の潮田町のあたり一帯であると思われます。
9)この図で本堺とある線は元からの寺領の境界線です。これを何かの事情で3分割しました。それが太い線で描かれています。興味あるのはその境界線の多くの部分は道によっていることです。道路を境界線とすることはいつの時代にもよくあることですが、この図はその好例です。
10)田は低地、野、畠は台地にあったと思われます。また池が多く描かれています。さらに用水路らしいものもあります。
11)道路はこの図で何本か描かれています。前述の橋にかかる道路のほか「ミチ」と注記した道が3本あります。このほかにも幾つかの道が描かれています。そのほか絵図には描かれていませんが、寺社と寺社の間の道、民家を結ぶ道などがあったと思われます。
以上は私の関心のある点についてのまとめですが、以下次の二つの研究論文の所説を参考にして、主としてこの地域の道路と地名を中心に補足してみました。
A.高島緑雄『関東中世水田の研究』第一章 建武元年正統庵鶴見寺尾郷図の研究
B.市村高男『武蔵国鶴見寺尾郷絵図』(『絵引荘園絵図』所収)
12)橋にかかる道路について
Aでは「江戸時代の東海道の前身と思われる道路」といい、Bは「東海道の前身となる道」として、「鶴見川東岸から橋を渡り、鶴見宿を抜けて子安郷から入江郷へ向かう」としています。そして子安郷については「近世の子安、生麦両村を含む地域に相当する。」とし、入江については「入江郷のことで、子安郷と同じく師岡保に属す。」として「近世の入江村に相当する。この付近には(中略)入江川があったが、その記載はまったくない。」といっています。
また絵図では子安郷と入江については地名がありますが、鶴見宿については地名が書かれていません。それをBの所説で、絵図に道沿いに数軒の家屋が描かれているのを鶴見宿に同定しています。「両側町の形をとっているので、東海道沿いに発達した鶴見宿を表現していると考えるのが自然であろう。」そして「ここが寺の門前町としての性格を合わせ持っていたことは確実といってよい。」と記しています。これについてAも同じ意見で「江戸時代の鶴見宿の前身にほかならない」と記しています。
これらの所説から、この道が東海道の前身であること、北から鶴見川を渡り鶴見宿を通って生麦、子安そして入江の方向へ続いていた道筋であったと考えられます。つまりこれらの地はこの頃からあったものといえます。
また市場についてはBは「後世の加筆で近世の市場村」を示すと判断されるとしています。後世の加筆であるとすると、この頃あった集落ではない可能性がありますが、私は一応この頃市場村の集落はあったと考えています。
13)鶴見川にかかる橋について
Aでは「橋梁は江戸時代の東海道が、鶴見川を渡る鶴見橋の前身である。現在の鶴見川橋とほぼ同位置であったろう。」と言っています。またBは「墨線と薄茶色で板橋の形を示す。川幅のわりにはかなり大きな橋として描かれている。今日の鶴見橋の前身となるもの。」と記しています。なお蛇足ですが、今日の鶴見橋は国道15号にかかる橋で京浜急行線の鉄橋のしもにあり、旧国道、つまり江戸時代の旧東海道にあった橋は鶴見川橋といいます。Bは前後の文からみて多分現在の鶴見川橋のことを言っているのだと 思います。何れにしても絵図のこの橋の位置は鶴見川の鶴見中央2丁目付近と市場下町 付近の間にあったと推定されるということです。
14)子ノ神について、Bは「現鶴見1丁目の八幡神社付近に存在した神社と見るのが妥 当である。」といっています。ここは現在東海道線の西側花月園の入口付近で台地の縁 崖上にあります。絵図では当時の道はここから少し離れた下、東側の鶴見川沿いを通っ ています。後の東海道(現在の旧東海道)の通過点とあまり変わらない所を通っていた ものと思われます。
 以上の材料の下で、中世の道の通過点を現在の道筋で探索しようというのがこのドキュメントの目的です。始めにこの絵図に出ている主要なルートを探索します。これは鶴見の市場から鶴見中央を通る道筋で子安から入江そして金川に至るものです。その一部は近世江戸時代の東海道に引き継がれて来ました。一部はもっと山寄りを通っていた所もあったと思われます。仮に「鶴見道」と名付けました。
次に、この絵図の関連で獅子ヶ谷を通過するルートも追って見ました。このルートは前掲の絵図に当てはめると北側の端の崖上を通るものとと思います。ただしこの絵図には載っていないので、その範囲外であるのか、或いは当時はなかった道かもしれません。地元で古くから古道、鎌倉街道と呼ばれて来た道です。仮に「獅子ヶ谷道」と名付けました。


「鶴見寺尾図」(模写)

(3)鶴見道(鶴見市場→鶴見中央→子安→神奈川台町)
このルートは前述のように近世江戸時代の東海道、現在の旧道にほぼ重なるものと考えられます。しかし中世の頃の海岸線は現在とかなり違いますから、当時は場所によってかなり山際を通っていたと可能性もあります。
さて鶴見川橋からは東海道の旧道を行くことになりますが、東海道旧道めぐりは現在ブームで多くの人々が歩いており、書籍、雑誌類も多数出版されていますのでこの間の説明は省略します。ただその通過地点だけは押さえておきます。
橋から広い道を過ぎると直ぐにあるのは鶴見神社、もと杉山大明神といっていた神社です。杉山神社は武蔵国の多摩川を渡った南部に分布する古社で、都築郡、橘樹郡、久良岐と多摩郡の一部にだけ祀られています。(『中世の道』p41.)この神社があることは鶴見が古い土地だあることの証拠ともいえます。ただしこの絵図には載っていません。鶴見駅前で京浜急行の高架線路を潜り国道と交差して鶴見線のガードを越すと鶴見川沿いの道になります。この少し先の地点が前述の絵図にある道の屈折点で、恐らくこの先は海岸の汀線近くを通行して行ったものと思われます。現在は生麦5丁目から1丁目に至る区間で、海は埋立地の先で遠くなっていますが、昔の名残か掘割が残っています。やがて国道と合流し、鶴見区から神奈川区に入って子安通3丁目から1丁目へと道は進んで行きますが、途中入江橋という小さな橋を渡ります。この下を流れる川が入江川で、横浜線沿いに北上し北寺尾の辺りまで達しています。この川の流域に入江1丁目、2丁目という地区があります。先に記したように、この地名は前掲の絵図に載っているのです。絵図の一番下の汀線近くに書いてあるので、私ははじめ地形の説明だと思っていました。ところが現地を歩いてみると現在入江地区の地名としてとして残っていました。つまり中世の地名が残っているということです。江戸時代の地誌『武蔵風土記』の橘樹郡東子安村の項に入江川として「水元は西寺尾村、白旗村、篠原村などの所々より、悪水落ち込み、西寺尾村の堺より村の内にいり水路およそ十余町なり、当村の中央を経て海にいる。」と記していますが、字名の中に載っていないので、近世にはなかった地名かもしれません。(『武蔵風土記』第3巻p253,)この地名の由来をもっとよく調べてみる必要がありそうです。
神奈川公園の所で旧道が右へ分かれて行きます。そこは青木町で江戸時代神奈川宿があった所です。鉄道を越える青木橋を渡り道の北側に出てすぐ右への細道に行く。これが旧道の続きです。山際崖の下を通る道です。広重の東海道五十三次、神奈川の絵には坂道を登る旅人、崖にへばり付くように建っている商家の家並み、そして左手は海で大小の船が描かれています。今左手は鉄道と駅そしてビル街です。中世も古い頃からこの神奈川は金川の湊として栄えていました。鎌倉の外港としての六浦は有名ですが、この金川湊も奥の品川湊ととともに東京湾及び他の地域の沿岸との水運の拠点でありました。それが現在のどの地点に当たるのかはっきりしません。

(4)獅子ヶ谷道
前掲の鶴見寺尾図の北の縁には阿弥陀堂と正福寺があり、末吉領主誰其れとあり、西北には稲荷と堀の注記そして師岡給主誰其れとあります。阿弥陀堂のある位置が現在の何処に当たるか分かりませんが、末吉は現在鶴見区に上末吉、下末吉と鶴見川右岸のかなりの広い地域を占めています。この二つの地名は江戸時代からある古い地名です。武蔵風土記には、「この村古は上下すべて一村であったが、中古に分かれた。正保の頃のものをみるに未だ分かれず、元禄に至り上下二村に分かれているので、その間に分かれたものと思われる。」(『武蔵風土記』第3巻p230.)と記しています。ちなみに正保は西暦1644年〜48年で江戸時代の初期です。A論文には「正福寺阿弥陀堂の東隣に、集落描示を想定した。この集落は別所池と阿弥陀堂後山との位置関係から推して、江戸時代の下末吉村につながる集落である。」としています。
師岡は現在港北区の東部に広がるかなり広い地域の地名で、東隣は鶴見区の獅子ヶ谷地区です。武蔵風土記に、「和名抄久良岐郡の郷名に諸岡郷とあるが、その地名がわずかに残ったものか。」とあり、「当村の開闢は古いことであるが、その年代ははっきりしない。」(『武蔵風土記』第3巻p243.)とあるように古くからある地名です。ここには古い由緒のある師岡熊野神社があります。(私の著書『中世を歩く』p163.参照)
当面の獅子ヶ谷道(仮称)はこの鶴見寺尾図に見る末吉から師岡に隣する獅子ヶ谷を通り上の宮を経て菊名に至るルートです。
出発点は鶴見区の上末吉小学校付近です。東横線綱島駅からバスに乗り上末吉バス停で降ります。小学校の横の細くて急な坂道に入ります。入ってすぐにこんもりとしたマウンドがありますが、兜塚という古墳です。左手崖下には某企業の運動場が見えます。狭い急坂ですが散策道として整備されているので歩くには快適です。この快適な道も間もなく終わり住宅地の中を通る道になります。石段を下り谷を越える所に四辻の地蔵があります。ここから再び上り坂を上った所に広い幹線の市道を跨ぐ梶山橋があります。この先に広大な緑の三つ池公園が広がっています。公園の縁を少し歩いて二股で右へ行きます。この辺は最近開発され町名、町の様子などが変わっていますのでかなり迷う所です。ずっと坂を下った所に二つ池があります。住宅地として変貌が激しいのでこの辺りの古道の様子ははっきり分かりません。二つ池のバス停を過ぎゴルフ練習場の坂道を上ります。細い急坂でその先は稜線を行く道になっています。やがて右手に緑の森が見えて来ます。獅子ヶ谷市民の森という緑地です。この緑地は長く続きますが、途中左手下に本覚寺があります。稜線の道は曲がりくねっていますが、上の宮2丁目で稜線を下りると菊名5丁目か菊名6丁目に出ます。東横線の菊名駅はすぐ近くです。
このルートは丘あり谷ありでアップダウンがきつい。稜線を行く道はカーブが多く鎌倉街道の特徴である直線の区間はありません。また今回歩いた感想は都市化が進み散策の道としては一部を除き価値がかなり減ったといえます。この道は古くから古道、鎌倉街道と言われて来ましたが、私は若干疑問に思っています。鎌倉街道であったとしても枝道であったとのではないでしょうか。鶴見区史には「上末吉小学校とカブト塚古墳の間の道を入り、(中略)二つ池を越えて獅子ヶ谷市民の森を過ぎ、本覚寺上から上の宮二丁目へ通じる尾根道がある。鎌倉道かといわれているが、まだ断定はできない。」と記しています。

 

目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]