(第3)東京近郊の鎌倉橋

(1)街道関連の地名、施設名など
(2)杉並区下高井戸の鎌倉橋
(3)世田谷区代沢の鎌倉橋
(4)小平市の鎌倉橋

(1)街道関連の地名、施設名など
 道路の名付け方には色々ありますが、一つは行き先によるものが非常に多い。例えば「江戸道」、「京往還」、「青梅街道」、「善光寺道」、「清戸道」など。「鎌倉街道」もその一つです。地域名を付ける場合もあります。「甲州街道」、「奥州街道」など。これの大きいものが古代の官道の名前です。東海道、東山道、北陸道、山陽道、山陰道、南海道そして西海道の七道です。これらは道路の名称であるだけでなく、幾つかの国を束ねる広域行政地域の範囲でもありました。通過する土地の名を付ける場合もあります。「木曽路」、「三国街道」など。そのほか偉大な人物の名前を冠した道路の例もあります。日本ではあまり見かけませんが欧米にはよくある例です。
 ところで、鎌倉街道の名称について、別の項で述べたように、中世、鎌倉時代にはそのように呼ばれていませんでした。当時、行き先の名、奥州路とか信州道とか、或いは古代の官道の名、東海道とか東山道のように、または上道、中道のように呼んでいたようです。鎌倉街道と一般に呼ばれるようになったのは、意外と遅く鎌倉が政治経済に影響することが無くなった近世、江戸時代の後期頃からです。江戸幕府編纂になる地誌「新編武蔵風土記稿」及び「新編相模風土記稿」が江戸時代後期に成立しますが、これらには「鎌倉街道」或いは「鎌倉道」の名称がしばしば出てきます。その後明治以降特に昭和に入って鎌倉街道に関する紀行文、写真集が多く出され街道としての名前が広まったものと思われます。 江戸時代の色々な文献を見ますと、「かいどう」という名称として必ずしも「街道」の字を使っていません。「海道」という字を使うことが多いのです。場合によっては「開道」という字を使っていることもあります。海道というのは山道に対する言葉として使われていたと思われ、それが主要な道筋を示す街道の概念に一般化されていったものと思います。逆に言うと時代が古いほど使う字が一定ではありません。古くは鎌倉街道も「鎌倉海道」或いは「鎌倉開道」と書かれている例がよくあります。
 さてこの鎌倉街道が通過している地域では、その名称が地名や屋号、橋名などに残っている例がよくあります。「鎌倉街道」「鎌倉」「鎌倉屋」「鎌倉橋」などです。しかし「鎌倉坂」「鎌倉川」という例は私は知りません。ここではできるだけこのような地名などを集めてみました。
1,東京都葛飾区、鎌倉1丁目、2丁目、3丁目
2,東京都千代田区、鎌倉橋
3,東京都杉並区、鎌倉橋、橋の名称であるとともに字名
4,東京都世田谷区、鎌倉橋、鎌倉通り
5,東京都小平市、鎌倉橋、
6,埼玉県三郷市、鎌倉、鎌倉橋
7,埼玉県坂戸市、鎌倉町
8,埼玉県熊谷市、鎌倉町
9,埼玉県川口市、鎌倉橋
10,埼玉県杉戸町、鎌倉橋

 この中で、中世鎌倉街道が通っていた所が幾つかあります。それらの中、3,4,5,8,と9,及び10についてご紹介しようと思います。なお鎌倉という名を冠していても鎌倉街道と関係のない場合もあります。前記1については、もと鎌倉新田といっていた地区で、「武蔵風土記」に昔相模の鎌倉郡より源右衛門という人が来て開発したことからこの名が付けられたといっており、近くを古道が通っていますがそれにちなんでいるのかどうか疑問です。2は江戸城を造るとき鎌倉からの資材を荷揚げしたので鎌倉河岸と呼ばれていた所で、それにちなんで橋の名としたといいます。6、については同じ書に長沼村より元禄以前に分村したものと記しており、鎌倉街道に関連があるかどうか、私はその由来についてそれ以上のことを知りません。また7、については近くを鎌倉街道が通るので戦後その名にしたということですが、詳しい事情は分かりません。

 この他、古道の通過地点近くによくある地名として次のものがあります。
11、大道、大路、街道端、など
12、宿、上宿、下宿、古宿、今宿、新宿など
13、古市、今市、上市、下市、など
14、信濃坂、奥州道、など
この中で近世より前、戦国期以前の地名である場合には、そこに古道が通過していたことを推論する材料になります。これらの例について述べるのは別項に譲ります。
 なおここで古道という場合は少なくとも近世以前に作られ利用されてきた道を云っていますが、鎌倉街道に関連する古道の場合は近世より前の時代を考えています。


(2)杉並区下高井戸の鎌倉橋
 京王線上北沢駅で降りて、新宿方向に戻り踏切から北へ行きます。やがて甲州街道、国道20号線にぶつかりますが、それを右折して少し行くと丁字路があります。この丁字路には「鎌倉街道入り口」という標識がでています。ここから北上する道が昔から「鎌倉街道」と呼ばれてきた道で、この道を北へおよそ1キロほど行くと神田川に架かる橋、鎌倉橋があります。
 江戸時代に発行された地誌植田孟縉著「武蔵名勝図会」に次のように書かれています。{意訳}「鎌倉橋は、上下高井戸宿の境にあり、古えの鎌倉街道が南から来て宿河原のあたりで多摩川を渡りこの鎌倉橋に出る。ここから先は大宮八幡の大門通りを過ぎて中野村追分へ至る。それより中山道板橋へ行っていた。」そして鎌倉街道が通っているゆえ鎌倉橋というと書いています。現在もこの記述とおりになっており、ほぼそのルートを辿ることができます。
 甲州街道を越えた先、二股の庚申堂の所で右へカーブしていきますが、この間ほぼ真っ直ぐで古道の趣があります。橋の手前に緑地があり、塚山公園といい、発掘調査の結果縄文時代中期の環状集落群跡や土器、石器が多数発見されています。この橋がある場所は現在の地名で、杉並区下高井戸5−23,及び同4−43、そして北側は浜田山2−1及び1−4です。最近まで字の名でも鎌倉橋といっていました。
 橋を渡ると道は真っ直ぐ北上して行きますが、最初の信号の先の角を右に曲がり、曲折が若干ある細い道を道なりに行くと井の頭線西永福駅の西側に出ます。この道が前記の鎌倉街道の続きです。踏切を渡って更に続き、井の頭通りを越え真っ直ぐに大宮八幡の所まで達しています。その先は所謂下総道で、中野村追分つまり現在の鍋屋横町に出て、板橋から埼玉県の大宮、あるいは古代の豊島郡家があった平塚つまり今の上中里、そして浅草へ通じていました。
 この鎌倉橋から南の方向へは、宿河原で多摩川を渡ったといいますが、ここは現在の川崎市多摩区宿河原で、そこまでどういうルートを辿っていったかはっきりしません。一説には上北沢から松沢病院の横を通り,芦花公園の近くを過ぎ、祖師谷から砧、喜多見を経て多摩川を渡り宿河原に出ていたとしています。この説ではルートの途中蘆花公園西の五叉路で鈎型に大きく曲がること、そしてギクシャクとした屈折が多いことが弱点ですが、現在の道で断続的ですがほぼ辿ることができます。


(3)世田谷区代沢の鎌倉橋
 井の頭線下北沢駅の西口を出ますととすぐこの線路を横切る道があります。これが古道で地元では鎌倉街道であるともいわれています。これを南へ坂道を下って行きとますと小田急線の踏切があります。それを越え坂を上り下りしていくうち緑の遊歩道を横切ります。これが嘗ての北沢川の跡で今は暗渠になっています。そこに橋が架かっていて鎌倉橋といわれていました。今その跡に橋の欄干と鎌倉橋と表示してある橋柱だけが残っています。。ここは現在鎌倉橋が残っているというより跡があるといった方がよいでしょう。
 世田谷区編集発行「世田谷の古道」にはこの橋は大正時代以前にはなく、昭和5年に新設されたものだと記しています。そして今来た道の区間は昔から土地の人々が「鎌倉街道」と呼んで来、今でもそう呼んでいる道であるとしています。
 下北沢駅から北へ続く区間も地元で「鎌倉街道」といわれて来た道で、成徳学園の東側を通り、北沢中学の西側を通ってさらに北上し、世田谷区と渋谷区との区境付近、大原1丁目で左から来る道、これも古道ですが、それを併せ細い道になり、やがてかっての玉川上水に至ります。今はこの玉川上水はなく、広い道になっておりその先は途絶えていますが、以前はこれを越えて甲州街道まで達していました。
 鎌倉橋から南はこの資料でははっきりしないとしています。現在は西太子堂まで一部鈎型に曲がっていく所がありますが、ずっと続いた道筋があります。この道筋は代田1丁目と代沢4丁目そして若林2丁目、1丁目と太子堂5丁目、4丁目の境界線になっています。これらの地域はいずれも昔は村を異にしていました。つまり村境であったのです。古道はしばしば村境であることが多いのです。そこでこれを古い地図で確認します。明治の地図では若林村までしっかりした道筋が通っています。この若林村で世田谷通り{当時この道の名はありませんが}に達しています。従って明治時代ここを古道が通っていたと考えても良いと思います。
 この橋の跡は現在はありません。今から5年前平成8年6月に私がここを訪れた時は前述のような状況でした。当時の写真もあります。しかし最近平成13年6月に再確認のため再びこの地を通ったときには跡形もなくなくなっています。場所を間違えたのかとおもい付近をしばらく探査しましたが、南50メートルほどにある交差点には以前同様鎌倉橋南の表示があります。またこの道の各所に「鎌倉通り」という表示が掲げられています。地元では現在鎌倉通りと呼んでいるものと思われます。多分この橋は老朽化か道路の拡張のためなくされたのだと思います。近くに付近の案内図の看板があり、それにはここの鎌倉橋が書かれています。
 なお序でにいいますと、今はなくなってしまったが、鎌倉橋という橋が都区内にもう一カ所ありました。それは池袋から明治通を東へ行き豊島区と北区の区境で北池袋4丁目、西巣鴨1丁目の所です。ここには以前谷端川が流れていてそれを渡っていた橋です。鎌倉橋というバス停もあったそうです。現在は谷端川は暗渠になりその跡もありません。


(4)小平市の鎌倉橋

 西武国分寺線鷹の台駅から東へおよそ1.5キロ、或いは西武多摩湖線一橋学園駅から西へほぼ同じ距離の地点にある玉川上水に架かる橋です。この上水は現在水道路としては役割を終わっているようですが、緑のいい散策路が並行しています。現在地名で津田町2−28のあたりです。
 この鎌倉橋から南へ行く道は地元で古くから鎌倉街道と呼んで来た道です。その道は五日市街道と旭が丘で交差しその先途絶えています。この交差点と上水の間にかって「二つ塚」といわれた一対の塚があったといわれています。鎌倉街道の一里塚の跡だともいわれていました。鎌倉時代に一里塚があったとは信じがたいのですが、道の両側にあったとすれば一里塚であった可能性があります。現在その跡は全くありません。小平市の関係者の話では地元の伝承は承知しており、昭和中期{戦後間もなく}までその塚があったことは確認されているがその場所が何処であるのかは全く分からないということです。五日市街道を前記の旭が丘から西へ300メートルほど行きますと、府中街道と交差しますが、そこにバス停があって二つ塚という名になっています。塚は跡形もなくなくなっているのに、バス停にその名が残っている。或いは地名、小字よりももっと狭い範囲の地区の名として残っているのかもしれません。
 鎌倉橋のある上水から北部は津田町2丁目ですが、整然と区画された住宅地で古い道が残っている様子はありません。前に引用した武蔵風土記には「村内に古い街道がある。道幅2間{約4メートル}ばかり。府中より国分寺、恋ヶ窪などの村々を経てここに至る。この先久米川等に至る。これは鎌倉より陸奥{東北地方}への街道であったという。」{意訳}と書いてありますが、このあたりではその跡を確認するすべはありません。しかし、ここから800メートルほど北へ行くと、小川町2丁目になります。ここには鎌倉街道と呼ばれてきた細い道が北へ延びています。数年前までは畠の中のいい散策路のような細道でしたが、今は車の往来の多い道になっています。しばらく行くと青梅街道の旧道に当たりますが、ここには地元で立てた鎌倉街道の標識と説明板が立っています。ここを越えた先もこの道は北へ1キロほど続いています。この青梅街道を東へ少し行くと武蔵野線の新小平駅があります。

 

目次


[HOME][旧東海道の面影をたどる][旧中山道の旧道をたどる][中世を歩く][中世の道]
[身近な古道][地名と古道][「歴史と道」の探索][文献資料][出版物][リンク]