(第2) 古文・古歌、ゆかりの里

(1)枕草子の「堀兼の井」と古道
(2)万葉ゆかりの里、弘紀郷
(3)悲恋物語の地・恋ヶ窪


(1)枕草子の「堀兼の井」と古道

平安時代の才媛清少納言の『枕草子』に
「井はほりかねの井。玉ノ井。走井は逢坂なるがをかしきなり。」
という有名な文があります。この「ほりかねの井」というのが何処にあるのか、この中には示していないので、それが何処にありどれに当たるのか古くから論じられて来ました。『千載集』という歌集に藤原俊成の
「武蔵野の堀かねの井もあるものを うれしや水の近づきにけり」
という歌が載っていますので、武蔵国にある名所であることが知られ、その後多くの歌人によって堀兼の井の歌が詠まれて来ました。しかしそれでもそれが具体的に何処にあるのかは分からず、各村、各所で堀兼の井と称する場所がでてきました。それは、一つには歌人が現地へ行かず堀兼の歌を詠んだということもあります。清少納言が武蔵野へ来たという話は聞いたことがありません。俊成も同様です。西行には
「汲みてしる人もありけんおのずから 堀兼の井のそこのこころを」
という歌がありますが、漂泊詩人であった西行の場合は実際に堀兼の井を尋ね歩いたこともありそうです。鎌倉時代後期の紀行文である『問わず語り』の女主人公の場合は
「堀兼の井は、あとかたもなくて、ただかれたる木の一つのこりたるばかりない。」
と記しており、現地を尋ねたと思われますが何処を見たのでしょうか。後世の旅行者が有名な堀兼の井を見ようと来てみたら何処か分からず、土地の者に尋ねると我田引水の答えが返って来たということもあったと思います。道興准后の『廻国雑記』に「堀兼の井、見にまかりて詠める、今は高井戸といふ」とあり
「俤ぞかたるに残るむさしのや 堀かねの井に水はなけれど」
「昔誰心づくしの名を止めて 水なき野辺を堀かねの井ぞ」
の二首の歌を書きとめていますが、多分この例だと思われ、高井戸の井戸を見てそれを堀兼の井といわれ、「今は高井戸という」と記しています。

堀兼の井

 現在では埼玉県狭山市にある堀兼神社の境内にある井戸がそれであるという説が有力で私もそれに従っています。江戸時代に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』(以下『武蔵風土記』という)には幾つかの候補地とその伝承を載せています。堀兼村のほか南入曽村、北入曽村の井の伝承を紹介していますが、「七曲の井のほか比丘尼井という古井の跡が村内(北入曽村)に三所あって何れも堀兼金井と唱えり。」とあり、また「今伝うるは当郡はもとより、他の郡にも堀兼の井跡と称する井あまたありて、何れを実跡とも定めがたし。」と記しています。そして「元弘三年五月十五日相模入道の舎弟四郎左近太夫入道分倍へ押し寄せ攻めたりければ、義貞終に打ちまけて堀金を指して引退けりと云う。(注、新田義貞の鎌倉攻めの時)すなわちこの所なるべし。ことに後年全く村名ともなせしなれば、恐らく当所のを実跡とすべきか。」という所見を載せています。(『武蔵風土記』第8巻、p263.)
「日本人は水と空気は無尽にありただだと思っている。」とはよくいわれることですが、過去の歴史を見ると、空気はともかく、水については多大の苦労をしています。飲料水だけでなく用水、農業用の潅漑水、そして排水と溢水、洪水対策等々。かって武蔵野台地は水の取水が非常に難しかった所でした。それがある程度解決したのは江戸時代です。玉川上水、千川上水、野火止用水など多くの上水、用水が新設されました。それまでは天然の湧く水、泉を利用していました。大井の井、小金井のハケの泉、恋ヶ窪の姿見の池、久米川の清水など、街道の要点はすべてこのような湧く水のある地に置かれています。武蔵野台地は水源が深く井戸による場合は非常に深く掘り下げなければ水源に当たることがなかったのです。泉の湧かない所では以前は開発されず人も住むことはできませんでした。だから広大な台地はほとんどが荒れ地、草地で武蔵野の特徴とさえ云われて来ました。古文では平安時代の康平年間(1058〜)の作である『更級日記』には
「今は武蔵の国になりぬ。(中略)蘆荻のみ高くのみ生ひて、馬に乗りて弓もたる末見えぬまで高く生い茂り」云々。とあり、((『更級日記』岩波文庫、p10.)前掲の『問わず語り』には「野のなかをはるばるとわけゆくに、はぎ、をみなえし、すすきよりほかは、まじる物もなく、これが高さは、馬にのりたる男の見えぬほどなれば、おしはかるべし。(中略)こしかたゆくすえ野原なり。」云々。(『問わず語り』岩波文庫、p210.)とあるように、どこまでも続く芦原で、芦が馬に乗った人も見えぬくらいに高く生い茂っていました。
当時の技術では最高水準ともいうべき鑿井方法が、七曲の井、まいまいずの井といわれた井戸の掘り方です。七曲とは地面を掘り進むとき何回も曲がって行く掘り方をいい、まいまいずとは蝸牛のことで、穴の形が摺鉢状で蝸牛に似ているからです。今述べている堀兼の井も入曽の七曲の井も周りを囲ってあり、しかも草が生えていて中の様子がよく見えません。まいまいず井戸の特徴がよくわかるのは、青梅線羽村駅近くにある「五ノ社神社まいまいず井戸」です。東京都の史跡に指定されていますが、柵の中に入ってよく観察ができます。このような井戸は平安の時代からあったらしく清少納言に取り上げられたくらい都では珍しいものとして有名になっていました。
堀兼の井戸のあるこの地に、古道、鎌倉街道が通っていことは古くから言われて来ました。所沢市の所沢中学の近くで県道から別れ真っすぐに北上して来た道です。現在も途切れ途切れですがこの道筋は残っています。(拙著『中世の道・鎌倉街道の探索』p193〜197.参照)
ここへ来るには西武線新所沢駅から歩くか、バスでフラワーヒルまで来てそこから歩くことになります。身近な古道というには少し遠いという感じですが、田園の雰囲気が少しばかり残っている道を散策することができます。
ここで紹介して置きたいのは、前記のフラワーヒルというのは住宅団地の名前ですが、その手前(南)とその先(北)には興味ある状況があることです。地名でいうと一つは所沢市北岩岡と下富の境界線に当たるA地区であり、もう一つは所沢市下富と狭山市加佐志及び堀兼のB地区です。そこには平行する二本の道が延びていてその二本の道の間に幅およそ15メートルから20メートルほどの細長い緑地がずっと続いているという状況です。A地区はフラワーヒルで中断されて、B地区になり同じような状況が続いています。それは堀兼の井のある堀兼神社の近くまで続いているのです。二本の道のうち東側の道は立派に舗装されたいい道で自動車の往来が激しい道ですが、西側の道は簡易舗装、一部舗装のない所もある田舎道で、自動車は殆ど通りません。従って散策には快適な道といえます。何故このような状況になっているのかよく分かりません。伝承では西側の道は昔身分の低い人が通った道であるといいますが、納得できる説明ではありません。2本の道の間に何故緑地があるのか。何時、何の目的で作られたのか、あるいは残ったのか。興味ある事実です。
私はこう考えています。この道は古代の官道の跡ではないかと。2本の道と間にある緑地を合わせた幅は、正確には計っていませんが、20メートルから30メートルほどになると思います。古代官道の道幅は今まで考えられて来たよりずっと広いことが分かって来ました。それ故ここの道幅が大き過ぎるということはないのです。それでは何処と何処を繋いでいたかですが、武蔵国府のある府中から西国分寺を通り所沢を経て、この地に達しその先は東三つ木原から川越館のあった地域の近くを通り東松山の方へ向かっていたのだと思います。これは「東山道武蔵路」のルートです。その後鎌倉に政権ができて鎌倉街道に転用されていったのではないかと思います。緑地が残った理由は分かりません。
こう考えると話の辻褄が合って来ます。東山道武蔵路ができたのは宝亀2年(781年)以後のことであり、堀兼の井についてコメントした清少納言の活躍した時代は長徳、長保の頃(995〜1003年)で約200年の隔たりがありますが、この間に東国武蔵国の珍しい井のことが宮廷に伝わり話題になったのだと思われます。ということは種々の議論はありましたが、「堀兼の井」の所在は新たにできた東山道武蔵路が通過することになったこの地以外には考えられないということになります。
ちなみに学者の研究を見ますと、木下良編『古代を考えるー古代道路』では「所沢市から狭山市にかけて、堀兼道と呼ばれる鎌倉街道の支道があり、その走行方向や直線性、部分的に二本の道が平行して帯状の地割りを示すことから、東山道武蔵路を踏襲した道とみなされている。」としていて、この道が古代官道の跡であるとしています。(木下良編『古代を考えるー古代道路』p109.)また二本の間にある緑地については木本氏の所見として「地形図に表れた道から西に約18メートル離れて、もう一本直線的な現在道が併走しており、その二本の現在道の間こそが本来道路敷であったのが、後世逆転して、山林化したのではないだろうか。」と述べています。しかし、この説明では緑地が残った理由にはならず、二本の道路がある理由の説明としては不十分です。

◆(参考)古い資料で堀兼の井と称する所一覧
◇牛込村の堀兼の井(江戸名所記『日本名所風俗図会』第3巻、p58)
「牛込村の堀兼の井は、これ武蔵の名所なり、俊成の歌に」云々。
牛込は現在新宿区であるが、これがその何処にあるのか分からない。
◇入間郡堀兼村(武蔵野話『日本名所風俗図会』第3巻、p361.)(江戸名所図会『日本名所風俗図会』第4巻、p389.) (『武蔵風土記』第8巻、p263.)
現在狭山市堀兼、浅間神社の境内にある。
◇高井戸(江戸名所図会『日本名所風俗図会』第4巻、p260.)
「道興准后の『廻国雑記』に、堀兼の井見にまかりて詠める、今は高井戸とい ふとありて、和歌あれども、堀兼の井この地にありや、今は知るべからず。」 東京都杉並区高井戸の何処に当たるのか不明
◇七曲の井(『武蔵風土記』第8巻、p262.)
常泉寺観音堂前、現在狭山市南入曽
◇このほか、ままいまいずの井は武蔵野の各地にあり、現在も残っているものが多い。



(2)万葉ゆかりの里、弘紀郷

万葉集の東歌のうち、次の二首のゆかりの里、弘紀郷があります。
「三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが」 (詠み人不明)
(みつぐりの なかに向かえる さらしいの 絶えず通わん そこにめもが)
(万葉集巻九、『佐々木信綱新訓万葉集』岩波文庫、上、p382.)
「枕刀腰に取り佩き真愛しき夫ろがまき来む月の知らなく」
(詠み人)上丁那珂郡檜前舎人石前が妻大伴部真足女
(枕たし 腰にとりはき まがなしき せろがまきこむ 月の知らなく)(じょうてい なかぐん ひのくまの とねり いわさきがめ おおともべのまたりめ)
(万葉集巻二十、『佐々木信綱新訓万葉集』岩波文庫、下、p324.)

この歌の解説は専門の書に譲りますが、前の歌にある曝井は、この泉で布を洗い曝す作業がなされて居た所で、この布の多くは調布といって朝廷に献納されていました。この曝井の跡は河川改修ですっかり変わって居ますが現在も残って居ます。
この場所から400メートルほど奥に入った所に、後の歌のゆかりの地があります。ここに立つ美里町教育委員会の説明板によると、ここ一帯は大字広木字御所ノ内といい、堀形の田畑に囲まれた90メートル四方を防人桧前舎人石前館跡(さきもりひのくまのとねりいわさきのやかたあと)といっています。前記の歌は防人として出征した夫にあてた歌で、夫の桧前舎人石前はこの地ではかなりの有力者であったようです。近くにある常福寺は彼の開基であるといわれ、また後ろにある通称「トネ山」は、舎人山からの転称であるとも思われ、大伴部の遺跡であると伝承されています。
この地域の近くを古代の官道が通っていたことは間違いなく、中世の時期にはこの官道を引き継いだ鎌倉街道上道が通っていました。
この場所は東京から行く場合はかなり遠い所で、身近な所とはいえません。八高線の児玉駅から歩くことになりますが、約4キロメートルのちょっとしたハイキングです。しかしこの区間には前記の鎌倉街道上道のルートが通っていて、かなりの部分旧道が残っています。児玉は歴史のある古い土地で、今でこそ幹線交通網から外れているため交通の上では不便な所ですが、しばしば歴史上重要なポイントとして登場しています。
さてJR八高線児玉駅で降り真っすぐの道を西へ。100メートルほど行くと筋違いの四辻があります。これを左折します。細い裏通りのような道です。この裏通りのような道が鎌倉街道上道と言われて来ました。やがて右手に墓地があり玉蓮寺があります。この寺は最近建て替えられて新しくなっていますが、かなりの古い寺です。由緒によると、日蓮上人が文永8年(1271年)佐渡流罪の途中と、その後許されて佐渡から鎌倉へ戻る途中の文永11年(1274年)の二度、この地にあった当地の領主児玉六郎藤原時国時国の館に立ち寄り泊まったと伝えられています。彼は弘安9年(1286年)日蓮上人没後、この館のかたわらに草堂を建て、自ら上人の肖像を彫刻して安置いし、その後館に代えて一寺としたといわれています。今この寺は西向き、国道に面していますが、当時は東側の今通って来た道、つまり鎌倉街道に面していたと思われます。
この玉蓮寺の隣にあるのが、東石清水八幡神社です。この神社も古い由緒のある神社です。社伝によれば、平安時代の末期源義家が父頼義に従い奥州へ赴く途中、当地に立ち寄り斎場を設けて戦勝を祈願し、康平6年(1063年)帰京の際再び当地に立ち寄り社殿を建て八幡神を勧請して「東石清水白鳩峰」と称したのがはじめといいます。
この細道はやがて国道に合流し東武バス車庫の手前で再び別れて行きますが、身馴川(小山川)の土手で消えています。この先国道はバイパスを併せ身馴川橋を渡ります。橋を渡ってすぐ右手に小公園があり、むかし広木一里塚があった跡だといわれています。そこにはかって樹齢300年以上といわれた榎の大木がありました。この榎は一里塚の木であったといわれますが、立ち枯れて切り倒され今その根本が残っています。この辺は陣街道といいいます。この陣街道という地名は他にもありますが、要地に軍陣を張った場所を地名としたもので、近世より古い時代のものと思われます。ここから国道の広い道をおよそ1キロほど行くと、旧道が右へ別れて行きます。それに入ってしばらく歩くと志戸川の橋があります。旧道はこの先も続きますが、このルートが鎌倉街道上道です。この橋を渡らずに右折し5分ほど行った所にあるのが前記の曝井の跡です。
なお鎌倉街道上道に関して詳しくは、拙著『中世の道・鎌倉街道の探索』第2編を参照して下さい。



(3)悲恋物語の地・恋ヶ窪

恋ヶ窪の旧道、JR西国分寺駅北側

これまでに故事ゆかりの二か所の里を紹介して来ましたが、「身近な古道」というには東京から少し遠い所でしたので、これより近い近郊の里を紹介することにします。JR中央線の西国分寺駅の北側に「恋ヶ窪」というロマンチックなすばらしい名前の地域があります。国分寺市東恋ヶ窪、西恋ヶ窪の一帯でかっては恋ヶ窪村の地域でした。ここは最近はやりの新規開発の住宅地に付けられている平凡な00台、XXケ丘や片仮名地名のような新しく命名された地名ではありません。古代、中世の昔から現代までずっと続いて来た地名です。
 この西国分寺駅からおよそ500メートル北に熊野神社がありますが、ここに歌碑が立って居ます。
「朽ち果てぬ名のみ残れる恋ヶ窪 今はた問ふもちぎりならずや」
この歌は文明18年(1486年)に、京都の聖護院門跡、准后道興親王がその著『廻国雑記』の中で詠んだもので、石碑は明治以後、有栖川熾仁親王の書により立てられたものです。 鎌倉武士の鑑とまでされた畠山重忠は、北条氏の陰謀に逢い現横浜市の鶴ヶ峰で北条氏以下の大軍に対し、わずか百三十四騎で立ち向かい壮烈な戦死を遂げたことで知られていますが、その後重忠にまつわる幾多の物語が各地に残されて来ました。この恋ヶ窪の悲恋物語もその一つです。この悲恋物語は、江戸時代以前から伝えられ多くの書物に取り上げられています。昔この地に鎌倉街道が通っていて宿場があり大いに賑わっていたころ、宿場に居た夙妻太夫(はやつまたいう)と畠山重忠との物語です。夙妻は重忠が平家討伐の戦いで西国へ出陣するのを悲しみ、重忠に従い同行することを願いますが、重忠の説得で思い止どまり毎日悲嘆に暮れていました。その時心ない男が重忠戦死という誤報を伝えたので、彼女はそれをまことと信じ大いに嘆き悲しみ、ついに池に身を投げて死んだといいます。後で重忠は無事西国から戻りそのことを聞き、彼女を憐れんでその菩提を弔うため阿弥陀如来を鉄で鋳させ一宇の堂を建てて収めたといいます。また村人も彼女の供養のため松一本を植えたといわれます。
この松は傾城松とも、或いは一葉松ともいい、現在恋ヶ窪の東福寺の前に何代目かの小さな松が立っています。また彼女が身を投げた池は姿見の池といい最近まで残っていましたが、今は埋められその跡は不明です。この話は江戸時代に発行された『武蔵野話』(斎藤鶴磯著、文化12年刊)詳しく載っています。一部には江戸時代の創作物語ではないかという説もありますが、前記の『廻国雑記』道興准后の歌との関連を考えるとその説は疑問です。私はこの物語の発生はもっと古く、既に室町時代には何らかの形で流布していたのだと思います。道興准后は東国各地を旅して歌とコメントを綴っていますが、それには「この関(霞の関)を越えすぎて、恋ヶ窪といへる所にて」として前記の歌が詠まれています。霞の関は多摩川の南にある関戸に鎌倉時代に設けられた関で、小野路から多摩丘陵を越え武蔵国府、現在の府中市に向かう鎌倉街道の要衝の地でした。准后はここから恋ヶ窪に来たのです。しかも途中の府中を通ったはずですが何故か言及していません。そこで准后は当時有名な語り種の地であったこの地にわざわざ立ち寄ったものと思われます。
鎌倉街道がこの地を通っていたことは確実で、『武蔵風土記』には「土人の伝えにこの地、いにしえ鎌倉より奥州への街道にして、いと賑わいたる駅亭なりしかば、遊妓なども居りしゆえ、それらの因にて村の名も起これりという」とあり、村長の屋敷に朽ちた古株があり、この街道があった頃の道しるべだということ、また時々土中より布目瓦や古碑などを掘り出すことがあることを紹介し、いにしえ賑わった跡であると記しています。
鉄道線路の南側には国分寺の薬師堂があり、古代の国分寺跡があります。またその西に黒鐘公園がありますが、そこには国分尼寺跡があり、またその近くに鎌倉街道の切通し跡が昔のまま残っています。最近の調査でこの辺と府中を結ぶ地点で中世の道、鎌倉街道の跡が幾つも見つかっています。
 また西国分寺駅南側の旧鉄道学園跡地の地域で大規模な住宅地開発が行われましたが、その際、発掘調査が行われました。その結果、古代の道路跡が発見されました。同時にそれとほぼ平行して中世の道、すなわち鎌倉街道の跡が発見されています。その『武蔵国分寺跡北西地区の遺跡発掘調査報告書−推定鎌倉街道−』には広範な地域の遺跡の状況と発掘された古代官道、東山道武蔵路跡についての調査記録がまとめられていますが、同時に鎌倉街道についてかなりの記述があります。
恋ヶ窪のこの地は古代の官道「東山道武蔵路」の要衝であっただけでなく、その後中世の道鎌倉街道の重要な宿駅としても栄えていた所であったのです。
最後に恋ヶ窪の地名の由来ですが、この街道沿いにあった宿駅は武蔵国府への道沿いにあり、国府への道の窪地つまり「こうのくぼ」という意味で付けられたのが始まりではないかと考えられます。それがなまり美字を付けて恋ヶ窪という地名になったのではないでしょうか。序でに云いますと、東京都千代田区にある麹町は「国府路の町」(こうじのまち)が語源だという説があります。「麹」という漢字は後から当てられたものです。


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