ギリシャ文献バルバロイ
200万のペルシャ軍 VS 300人の精鋭スパルタ軍
スティーヴン プレスフィールド (著)
紀元前481年に王都スーサを発ったクセルクセス1世は
ヘロドトスによれば500万の大軍を率いてギリシャ本土に侵入した。
ギリシャ連合軍はイストモス会議において、
テルモピレーとアルテミシオンに防衛線を張ることを決議し、先遣隊として、
スパルタ王レオニダス率いる重装歩兵300を派遣した。
これにペロポネソス半島各ポリスの兵300余、 テスピアイ兵700、
テバイ兵400等が合流し、計4千のギリシャ連合軍がテルモピレーに布陣した。
紀元前480年8月、テッサリアから南下したペルシャ軍は、
テルモピレー西部のトラキス近郊に陣を張った。
テルモピュライは、テッサリアから中央ギリシャに抜ける幹線道路だったが、
峻険な山と海に挟まれた街道は、最も狭い所で15m程度の幅しかなく、
ペルシャ陸軍は、大軍を優位に展開することが出来なかった。
ギリシャ連合軍は、街道にもうけられた城壁を利用して、
ペルシャの進軍を3日間に渡って押しとどめたが、2日目の夕刻、
クセルクセス1世は山中を抜けて海岸線を迂回する
アノパイア間道を利用することを命じ、土地の住民を買収して、
夜間、この山道に兵を差し向けた。
この道を防衛していたポキスの軍勢1000は、
ペルシャ軍に遭遇すると、これに対峙すべく山頂に登って防衛を固めたが、
スパルタ軍ではないと悟ったペルシャ軍はこれを無視して間道を駆け降りた。
これによって、次の日には、ペルシャ勢はギリシャ軍の背面にも軍を展開した。
アノパイア道を突破されたことを知ったレオニダスは、
ギリシャ連合軍の撤退を指示し、自身はスパルタ兵とテスピアイ兵と共に
テルモピレーに残った。
彼らは、剣が折れると素手や歯を使い、全員が玉砕するまで戦った。
ヘロドトスによれば、この戦いによるペルシャ軍の戦死者は2万人とされる。